量産主義の帝国軍 カットシーン集1
上海条約の締結によって、中支那方面軍は三月上旬までに全部隊を本土に引揚げた後に解体された。再三の国共内戦の火蓋が切られたのはその翌月であり、中国は再び内戦に突入した。
支那事変反省会、それが皇軍省で開かれたのは更にその翌月のことである。
会議に招集された三軍の将校は、反省点や改善点を述べ今後どう改善すべきかを議論するが、その中でも特に焦点が集まったのは、西澤が前々から主張していた『兵站の改革』についてのものだった。
「先の支那事変では、今一度兵站の重要性が証明された訳だが、軍需局長は『兵站』をどう見直すべきだと考えているのか?」
会議が始まって早々、杉山陸相が問う。
「兵站とは、大まかに分けて二つあると私は考えています。物資の生産地から戦場の後方支援地までの戦略的兵站と、後方支援地から戦場までの戦術的兵站です。支那事変の状況に例えるならば、本土から上海までの海路が前者、上海から南京までの滬寧鉄道や、長江の水運などが後者です。重要なのは、今回の支那事変で特に貧弱性が露呈したのは後者の戦術的兵站だということです」
一旦間を置き、出席している一同に言ったことを読み込ませる。
「共産党のゲリラ攻撃や住民の抵抗運動による被害も目立ちましたが、問題はそこではありません。一つ、戦略的兵站は船舶を使った大規模なものです、二つ、戦術的兵站は細々とした鉄道や水運によるものです。ここで何が問題になるかはお解りでしょう」
※タムスク爆撃に置き換える
一次大戦の塹壕戦は、歩兵による突撃で、敵の対処能力以上の兵力をぶつけ防衛戦を少しづつ切り崩すものであったが、機関銃の登場によって歩兵の損害はいたずらに増えた。戦車というものはその打開策、強固な装甲と火器によって防衛戦を突破するための歩兵支援用の車両として生まれたものであり、対戦車戦闘は端から想定されていなかった。
戦車があくまでも歩兵の支援兵器という括りは、誕生してから二〇年以上経った現在でも変わらなかったが、その進化と淘汰は一つに収斂した。
快速軽装甲で、機動的な運用をする目的の軽戦車と、低速重装甲で、陣地突破を支援するための中・重戦車。日本における九五式と九七式、ドイツにおける三号戦車と四号戦車、イギリスにおける巡航戦車と歩兵戦車、ソ連におけるBT戦車とT-28。全てが型に当てはまる訳ではなく、R35やT-26といった例外も多々存在していた。
ソ連のBTシリーズは45ミリの長砲身砲を、日本の八九式は57ミリの短砲身砲を装備していたが、どちらにも共通していた点は、同年代の戦車に比べ時代の一歩先を行っていたことである。当時主流だったのは37ミリクラスの短砲身砲であり、対戦車戦を想定していた45ミリ長砲身砲を装備したBTも、対歩兵戦闘で大火力を発揮する57ミリ砲を装備した八九式も格段に先進的だった。
ただ、それはあくまでもそれらの戦車が実戦配備された時点での話。両者が砲火を交わした時、当然有利なのは対戦車戦闘を想定していたBT戦車であった。
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