一年以上前に書いていた荒海の群龍の外伝。
軍靴のカッカッという音が次第に近くなり、メリッサ・バウナーは背を縮めて息を潜めた。
「広場に集めたユダヤ人は全員処理が完了しました」
「ポリシェヴィキはまだ見つからないのか!さっさと奴らを処理するのだ!」
「はっ、」
武装親衛隊の士官が大声で部下たちに命令するのが聞こえた。なんでこんなことに...。路地裏の物陰に隠れながらメリッサは血に染まった服を見て吐き気が湧いてきた。お母さん、お父さん...。全ては3日前にドイツ軍が戦線を大幅に押し返しモスクワを陥落させた後も物凄い勢いでウラルへ流れ込んだことから始まった。かつてドイツに住んでいてユダヤ系として迫害されていたバウナー 一家は早いうちにソ連に移住していた。かつての祖国の同胞たちからは迫害と差別が次第に強くなっていき生活が苦しくなっていく現状が手紙で届いていた。メリッサの親友だったパウラからの手紙は政府がユダヤ人を収容所に送るらしいと噂が出回っているとのことを最後に途絶えていた。そして遂にバウナー達が住む小さな集落にもドイツ軍はやってきた。最初に来た国防軍の兵士は愛想が良かったものの後から来た武装親衛隊の兵士達は略奪と暴行の限りを尽くし、バウナー達の家にも押しよって来た。多分近所のロシア人が密告したのだと思う。なぜならこの集落に越してきたときからずっと白い目で見られ続け同級生の男子には石を投げつけられた。ユダヤ人だろうと私たちはロシア人の敵のドイツ人なのだ。最初に玄関に出た父はドアを開けた瞬間、親衛隊の一人に銃殺され、後ろにいた兄も暴行の挙句に惨殺された。私と一緒に裏から逃げた母は逃げる途中に銃弾に倒れた。母の腹部が赤く染まり血が飛び散った時にはメリッサは全てを失った気分になった。だが母が死ぬ前に最後に発した言葉が硬直した体を再び動かし始めた。「生きて」
必至で走った。いとこが隣町にいると父は前に言っていたことを思い出しメリッサは隣町を目指した。けれど、15歳の体では体力的に限界があった。メリッサは隣町と集落の間にある少し大きな村にたどり着いたところで足が棒のようになり裏路地に座り込んだ。膝は擦り剥け母が買ってくれたお気に入りのカーディガンはボロボロに裂け母の血に染まっていた。その村にも親衛隊はいた。いや、正確には親衛隊ではなかった。移動虐殺大隊、敵性分子を処刑(ユダヤ人を主に)する為だけに組織されたナチズムが生みだした悪魔である。その事をメリッサは知る由もなかったが武装親衛隊や国防軍と違って強姦や暴行はせず、純粋に虐殺だけを行なっていることが広場に集められた無数の屍からわかった。その時、武装親衛隊の兵士が勢いよく走ってきたのが見えた。
「ユダヤの少女がグネツク近郊の村から方向的にこちらへ逃げたそうです」それを聞くとリーダーらしき男は痰を吐いた。
「チッ、これだから雑魚親衛隊は!」彼は道端の死体を蹴り飛ばすとこういった「さっさと見つけろ、きっとやつはポリシェヴィキ達がいるヴォルガ川の東側に逃げるはずだ!」ヴォルガ川の向こうは安全なのね。そうメリッサが考えていると思わず片手が近くに積み上げてあったドラム缶にぶつかってしまった。ドラム缶の山が倒れ大きな金属音があたりに響き渡る。
「誰だ!」足音が近づく前にメリッサは近くの廃屋に逃げ込んだ。そして今に至るのだった。
カッカッ、音が近くなってくる。もうだめか...。メリッサが武装親衛隊の隊員に銃殺されるのを覚悟したときだった。
「なッ!」隊員と思わしき叫び声が聞こえた。続いてよく耳を済ましていなければ聞こえない大きさの発砲音が鳴り響き隊員の悲鳴が聞こえた。駆けつけてきた他の隊員は
「敵がいるぞ!」と叫んでいたが液体が大量に地面に落ちる音がした後すぐに静かになった。隠れていた瓦礫の下からメリッサが顔を出すと一人の男が血まみれになった武装親衛隊の兵士を物色しているところだった。左手にはルガーP08が握られていた。
「ひっ」口からこぼれた音に気づいて男は後ろを振り向いた。かがんでいて見えなかった男の顔はドイツ人でもなければソ連人でもなかった。血まみれになった私の服をみて男は流暢なロシア語でこういった。
「安心して、ドイツ軍じゃないよ。ただ、もうすぐドイツ兵が来るだろうから場所を変えようか」メリッサはその人についていくしかなかった。頷くと、その男はドイツ軍がいない道を通り郊外へ連れて行ってくれた。
「怖かっただろう、もう大丈夫だ。」頭を撫でられてメリッサは今まで溜まっていた気持ちが吹き出したように泣いた。「大丈夫、大丈夫。東に行けばソ連軍がいるはずだ、保護してもらえる。」
「これをあげるから、さあ行ってきな」そういうとその人は銀の包み紙に包まれた板チョコをくれた。ロゴはドイツのものだった。
「お父さんもお母さんもお兄ちゃんも...みんなドイツ人に殺された...。それで逃げてきたの、それで...」メリッサは早口でまくしたてた。
「怖かったね、辛かっただろう」男は少し考えると私の頭をまたなでながらこういった。「私と一緒にくるか?」メリッサは頷いた。
「怖いこと、悲しいこと、地に塗られた戦争の裏側を歩くんだ。大変なことにもなるだろう。それでも君はついてくるか?」メリッサにはもう何も残っていなかった。家族も、友達も、居場所も、全てをナチに奪われ殺された。
「うん」ソ連に行くという選択肢もあった。でも、家族がいないところに行く意味なんて無い。あの国もナチスよりはマシだったと言うレベルでユダヤ系ドイツ人は迫害されていた。
「そうか、よろしくな。君の名前は?」男の顔を改めて見つめると、整った顔立ちと青い瞳はロシア人の血が混ざっていそうだったが、肌の色は白よりも黄色がかっていた。
「メリッサ・バウナー、....お兄さんは?」
「オレグ・A・パガレロフ、お兄さんか、もうそんな歳か...」彼のその名が偽名だと知るのはまだ相当先のことであった。2人はその後、ヴォルガ川の方向に向かう農家のトラックを見つけ乗せてもらった。所々ドイツ軍の検問があったが...、オレグは全て片付けてしまった。やっとソ連の勢力圏内に入り、その農家の知り合いの家に泊めさせてもらった時、メリッサはふと訪ねた。
「オレグはどこから来たの?」ついさっき思い出したが、肌が黄色いのは東洋人の特徴だった。
「....遥か東の、日の沈まない国からさ」
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