ノゾミの疾走

友利有利

ノゾミの疾走

 足が地面を蹴り、黒髪が靡く。誰も追いつけないスピードで進んでいく。土を踏む音が聞こえ、身体が風を切り、滲み出た汗も弾けていく、今なら何もかも置き去りに出来る気がした。やがて現れた白線を越え、少女は走っていく。

「ちょっとノゾミ!?」

 驚く友人の声が、ノゾミと呼ばれた少女の耳に闖入する。その声に対する苛つきを理性的に抑えるのと同じように速度を緩め、やがて足を止めた。荒くなった息も整えず、友人の声に振り向く素振りも無いまま空を見上げる。まだ、苛つきが収まりきっていなかった。

「どうしたの? ゴール越えてたのに……」

 ノゾミはそこでようやく振り返ってその友人を視界に捉えた。その視界の端、五○メートル向こうで、次に走る生徒がスタートラインで教師の号令を待っているようだった。

「……ゴール前でスピードが緩まないようにしようとしたら、ちょっとやり過ぎちゃって」

「そうなんだ、ビックリした。そのままどっか行っちゃいそうだったよ?」

「……そう?」

 ハッ、と。荒い呼吸を整えるように吐いた息と共に、微量に入り混じった嘲笑をバレないように吐き出した。本当にそのまま何処かへ行けたら良かった。そんな妄想のような思いを悟られないようにしたかった。

「というかノゾミ、足すごい早いんだね。一緒に走ってた子、確か陸上部だよ?」

 そう言われ、自分と共に走っていた生徒を一瞥した。その生徒は膝に手を付き、未だ肩で息をしている。同時に走り出したものの、あの生徒はノゾミの視界に一切入らなかった。

自分の方が速い。そう思うと優越感が心から滲み出たが、それが何の意味も無い物だと気付いてしまった瞬間、途端にそれはノゾミの心に小さく爪を立てた。

「……まあ、短距離の選手と長距離の選手とか居るし……多分長距離の人なんじゃない?」

「そうなのかなぁ……」

 虚しさを誤魔化すように、そして自分も本心からそう思っていると主張するようにそう言った。

 肩で息をしていたその生徒がノゾミの方を見た。気取られないように視線を逸らし、走り終わった生徒が集まる場所へ歩き出した。

 教師の号令により、再び二人の生徒が走り出す。その姿を見て、先程走っていた時の感覚が蘇る。その最中に覚えていた感情も共に。もう一度で良いから走らせてほしい。そう思ったが、結局全員が走り終わった後は球技に切り替わり、走ることは出来なかった。



辛いことがあると、いつも逃げたくなる。誰かが自分を連れ去ってくれる妄想を繰り広げてから、それを押し畳んで頭の片隅へと追いやっていく。畳んだ妄想が膨張していくのを感じ、それが頭を内から突いて、やがて傷つけるように痛みとして現れる。それを自覚する度、自分が自分の思う以上に追い込まれていると知る。そしてそれを知る度、自分に逃げる術など無いことを思い出す。だから何かに逃げる人間が嫌いだった。自分には連れ去ってくれる人が居ると、そう当て付けのように言われている気がした。

誰かじゃなく、何かでも良い。お願いだから自分を連れ去ってと、ずっとそう望んでいた。



 赤みを帯びた光が教室に差し込む。自分と友人以外誰も居ない教室で、ノゾミは教科書とノートを広げ自習をしていた。自習をする時はいつも図書室へ行っていたが、担任に呼び止められ教室に留まっていた。

 教科書に書かれた問題を解き、ノートに写していく。空いた時間やこれ以上は不味いと思った時、ノゾミは決まって自習をしていた。勉強が好きなわけでは無かったが、自ら進んで机に向かう少女を止める大人は誰も居ない。様々な事への言い訳として使うには丁度良いものだった。

 詰まる事無く問題を解いていた手がやがて止まった。自習が出来れば何処でも良かったが、いつも自習をしていた図書室は環境が整えられていた。ページを捲る音、図書委員の声、窓の外から聞こえる笛の音。静謐な中の、些細な雑音達。それに、図書室では今のように暗くて教科書やノートが見にくいといったようなことは無かった。

 窓から飛び込んで来る夕日の光がカーテンによって遮られ、ノゾミの席もその影に隠れてしまっていた。向かいの席に座る友人が「ちょっと暗いね」と言いながらカーテンを開け、友人の座っていた席が照らされた。光が友人の明るめな茶髪を照らし、その瞳がノゾミを捉える。ノゾミの席は未だ中途半端に開いたカーテンの影に隠れてしまっている。

「カーテン、こっちも開けとく?」

「……私は良いかな」

「そっか」

 ノゾミがそう返し、友人は席に戻って再びスマートフォンを手にした。

「……さっきから何見てるの?」

 スマートフォンを睨むように見る友人にふとそう聞いた。別段興味がある訳でも無かったが、会話の無いまま時間が過ぎていく事に対して鈍感になりきることが出来なかった。

「ライブのチケット! 抽選なんだけどさ、今日当落出るんだよね……」

 そのチケットは恐らく友人が普段から好きと言っているアイドルのものなのだろう。半年ほど前から、口を開けばその話をするようになった。写真を見せられ曲を聞かされ、幾度となく魅力を語られたが、その度にその場しのぎにそれらを褒めてやり過ごした。楽しそうにアイドルの話をする姿を見るたび、少しずつ滲み出る不快な感情と対峙することになった。

「そんな齧り付くみたいに見てても来ないんじゃない? 一旦落ち着きなよ」

「それはわかってるんだけどさ……当落来た瞬間スマホ握ってたいんだよね」

「なにそれ」

 茶化すように放った言葉に自分の苛つきが乗ってしまっている事には気付いていたが、止めることが出来なかった。

「ノゾミもさ、なんか好きなアイドルとか居ないの? アイドルじゃ無くても……例えばユーチューバーとか、芸人さんとかさ。そしたらわかるよ!」

 そう言われた瞬間、静かに苛つきが強まったのが分かった。

「……私は良いよ」

 余計に強まったそれがまた言葉に乗ってしまいそうになったが、口を開く寸前でそれを止めた。

「……そっかぁ」

 無理やり会話を切り飛ばすような返答。それを聞いて友人はスマートフォンを両手で持ったまま、残念そうに足をパタパタと動かした。

 言い方がキツかったかな、と。そんな反省が心の中で輪郭を帯びていく。しかしスマートフォンを手に持ってディスプレイを睨む友人を見ると、それは仕方のない事だったという言い訳に変化した。

「というかノゾミ、今日部活は?」

「顧問の先生が用事があるとかで休み」

「へえ……美術部なんて、顧問の先生居なくても成り立ちそうじゃない?」

「まあ、うちはやる気ある人少ないから」

「ノゾミはやる気ある方?」

 ペン先を走らせたまま、どう返せば良いのかと思考する。

「……どうだろう。わかんないな」

「そうなんだ。ノゾミって絵上手いし、やる気ある方なんだと思ってた」

「ん────」

 問題の答えを考えるフリをして、ペン先で二度、三度とノートを叩いた。頭に浮かべた言葉をすぐに吐き出そうとすると、また先ほどのような返答になってしまいそうだった。

「────まあ、今日はちょっと気分じゃないかな」

「へぇ……」

 やがて誤魔化すような返答をして、再びペン先を走らせる。友人もまたスマートフォンの画面を見た。未だメールは来ていない様子だった。

 外れていて欲しい。スマートフォンに視線を釘付けにしている友人に対し、ハッキリとは思わなくとも心の何処かでそう思っていた。そしてそれを自分でも認識していた。やがて教室のドアが開き、静寂が裂かれる。

「遅れてすまん、糸杉。来てくれるか?」

 ドアから顔を覗かせたのは二人の所属するクラスの担任教師だった。体格の良い短髪の男で、今日の体育の時間を担当していた体育教師でもあった。名前を呼ばれたノゾミは立ち上がりながら「大丈夫です」と返す。

「ちょっと行ってくる。……先に帰ってても良いから」

「うん、了解」

 そう友人に伝え、ノゾミも教室を出て教師の後ろをついていく。笛の音が聞こえ、窓から校庭を見下ろした。そこでは陸上部であろう生徒たちがタイムを計っているようで、その様子から目を離すことが出来ずに歩調が段々と緩慢になっていく。

「そういえば今日、美術部は?」

 教師がノゾミにそう問いかけた。そこで前を歩く教師と距離が空いている事に気付き、気付かれないように早足で距離を詰めた。

「今日は先生が休みなので、部活も休みという事になってます」

「そうなのか」

 少し意外そうに教師がそう言った。その反応の意味合いがよくわからず、教師の後ろ姿を訝し気に見つめる。

「そういえば……茂森先生だったか、美術部の顧問は。茂森先生が糸杉の絵を褒めててな」

「……そうですか」

「俺も見てみたけど、素人ながらかなり上手いなって思ったよ」

「……ありがとうございます」

 その言葉を聞き、ようやく先程の反応の意味がわかった。この教師も、先程の友人と同じだった。ノゾミの描く絵を見て、ノゾミの絵への情熱を端的に決めつけている。そういった誤解をされるのは、かなり不快な事だった。

 また窓の外から笛の音が鳴った。その音で誰かが再び走り出したのだろう。窓の外を見たくなったが、もうすぐ階段を降りるという所だったため見る事が出来なかった。階段を降りて行き、そのまま一階へ着いた。そのまましばらく歩くと職員室へ着き、教師の後ろを付いて「失礼します」と言って入った。

 入ってすぐ、右の壁に掛けられた鍵が見えた。その中には美術室の鍵も含まれており、生徒でも誰かに許可を取れば簡単に鍵を使う事が出来た。

教師が自分の席なのであろう場所へ向かい、それに着いていく。やがて教師が席に座り、ノゾミを見た。

「お前のお母さんから、電話があってな」

「……電話……ですか?」

 母からの電話と聞き、無意識に体が強張る。教師と合わせていた視線がぶれ、目を合わせるのが苦痛になった。

「ああ。……お前の進路について聞きたいって」

 ずっと目を逸らしたまま、出来ればいつの間にか居なくなっていて欲しいと思っていた問題が、恐れていた形でノゾミの元に降りかかった。

先日、ホームルームで進路希望調査の用紙が配られた。三年生になって少し経ち、もし進学を希望するなら勉学に勤しまなければならない時期だった。友人は既に進学を希望する旨を記入し提出したと言っていた気がするが、ノゾミはまだ用紙を提出しておらず、そもそも貰った事自体まだ母に報告していなかった。

「まだ本人も悩んでるみたいで、とは言っておいたが……実際どうだ?」

「……」

 俯いたまま何も言えず、時間が過ぎていく。黙っていて解決する問題では無い事などわかっていたが、何を言えばこの状況から逃げられるのかばかりが思考を巡って、実際に今何を言うべきなのかがまるでわからなかった。

 俯いて垂れた前髪の間から、教師の事を覗き見た。教師は未だにノゾミを見つめて返答を待っているようで、ノゾミを見る教師の視線に自分の視線が感づかれるかもしれないと思いまた視線を逸らした。

「……まあそもそも糸杉なら進学ってなっても県外の国立だって行けると思うし、今の状態でも結構選択肢は広いから迷うとは思うが……」

 何も言わないノゾミを見て、話を繋ぐように教師が口を開いた。ようやく訪れた進展に内心安堵しながら、話を聞いているとアピールするように再び視線を合わせた。しかし今度は教師から視線を外し、何かを考えるように小さく唸った。

 これから何を言われるのか大方の予想はついた。めぼしい大学をいくつか挙げ、ノゾミに選択肢を与えるのだろう。それがどんな選択肢であろうと、少なくともナナにとっては喜ばしいものの筈だった。

 やがて口に出す言葉が固まったのか、教師がまたノゾミと目を合わせた。

「なあ、糸杉」

「はい」

「絵を、描きたいんじゃないか?」

 やがてノゾミを助けるように出された教師の言葉が、明確に心を傷つけたのがわかった。

「さっきも言ったけど糸杉の絵は俺もかなり上手いと思うし、茂森先生だって褒めてた。賞だっていくつか取ったんだろ?」

 何か言葉を返すべきだった。しかし口を開けなかった。

「ちょっと調べたんだが、県内には専門学校もあるし、隣県には美大もある。勇気がいるかもしれないが、そういう選択肢もあるって事を知って欲しい」

 教師がそう言葉を続ける。ノゾミの望んでいることがわかっていると言うように。

 言葉が喉に引っかかって、何も言えない。今返すべき言葉と、吐き出したい言葉がせめぎ合う。しかし吐き出したい言葉は、きっと今言うべきではない。そんな確かな事実。

「……ありがとう、ございます」

 結局、出た言葉はそれだった。それ以上言葉を続けるなと言うような、話の流れに繋がらない礼。これ以上ここに居たくなかったし、教師の言葉に耳を傾けたくも無かった。

「とにかく一回、お母さんとも話してみると良い。深く立ち入るのは無粋かもしれないが……一度ちゃんと話し合ってみるのも大事だと思うぞ」

「……」

 教師が一言一言を紡いでいくたび、それを否定したい気持ちに駆られていった。今、それを否定出来たらどれだけ楽か。

「……考えて、みます」

「……そうか」

 教師が小さく頷きながらそう言った。

「まあ話はこれだけだ。すまんな、わざわざ呼び出して」

「いえ……失礼します」

 教師に小さく頭を下げ、職員室を出て扉を閉めた。誰も居ないでくれと願いながら、周りを見る。そして自分以外の人の気配がその長い廊下に無いことを確認してから、階段に向かう道を走り出した。出来るだけ早く、何もかもを置き去りに出来てしまう事を願いながら。



 小さい頃から、走るのが好きだった。風を切って進むような感覚、滲み出る汗も、足を動かす瞬間も。そして何より、ノゾミは足が早かった。自分が走れば皆追いつけない。自分が走れば何もかも置き去りに出来てしまう。そんな感覚が何よりも大好きだった。けれど、母からは逃げられなかった。

 母は周りから見ても優しい親だったし、実際に普段もそうだった。しかしノゾミを叱る時だけは違った。小さい頃から、母はよくノゾミに手を上げた。テストで悪い点を取った時。帰りが遅くなってしまった時。食事を残した時。そういった理由で叱る度、いつも母の大きな手がノゾミの顔を襲った。

 中学生になった時、陸上部に入った。部活の中でもノゾミは足が速く、一年生の中の誰よりも足が速かった。部活の顧問や先輩は可愛がってくれたし、期待してくれた。それに応えたかったし、陸上部に入ると今まで知らなかった楽しさをより知ることになり、走る事が余計に好きになった。

 部活以外の時間も、走ることを考えていた。授業中も、休み時間も、ホームルームの時間も、掃除の時間も。美術の授業の時もそうだった。自分が好きなものを描いてみましょうというお題に、ノゾミは走っている人の絵を描いた。視界を流れていく景色、吹き付ける風、一番前を走る快感。自分が走っている時の幸せの形を、ありのままキャンバスに描いた。

 やがてその絵が完成して家に持ち帰った時、ノックも無く部屋に入って来た母にその絵が見つかった。『絵を描いたの?』と聞かれたためその絵を見せると、母はそれを痛く褒め称えた。今までしてきた何もかもが霞むほど。ノゾミは、絵を描くのが少し好きになった。


 母が望む度、絵を描いた。母はノゾミが絵を描き始めた事が気に入ったようで、画材やキャンバスを自分が満足するまで与えた。ノゾミは母が自分の絵を褒めてくれることが嬉しかったし、段々とその期待に応えたいと思うようになった。しかしどれだけ絵を描いても、一番好きな事は走る事のままだった。


 ノゾミの部屋が次第にキャンバスや画材で埋まっていった頃、母からこう聞かれた。

『ノゾミ。今の部活、陸上部だったよね?』

 それを聞かれた時も、絵を描いていた。母のために。自分の絵を描いて欲しいと、そう頼まれたから。

『そうだよ』

 キャンバスに描かれた母の肌を塗りながら返した。

『今の学校って……美術部とかってあるの?』

『あるけど……』

『美術部に入ろう、とかは思わないの?』

 肌を塗る手が、一瞬固まる。

『……思わないよ。私、陸上部に入ってるし……』

 キャンバスの中の母の肌に色を塗り付けながら答える。

『でもノゾミの絵、凄く上手いわよ?』

『そうかな? そんなこと無いよ』

『でも絵がこんなに上手なんだから、走るよりも絵を描いた方が良いんじゃない?』

 その言葉に、腕だけでは無く全身が固まったのがわかった。キャンバスに、筆を強く押し付けた。母の肌に濃い色が滲む。

『走るよりもって……なに? 陸上部を、やめろってこと?』

 そうでは無いけど、と。母は誤魔化すように答えた。しかしノゾミは、母が走る事を辞めさせ、絵を描かせたがっているのだと強く思った。自分が初めて夢中になれたもの。それを奪われると思った。

そこから、母と数度言葉を交わした。最初は理性的に話そうとしていた語気が、次第に荒くなっていった。そしてやがてその声が大きなものへ変わっていき、やがて怒りをぶつけるような声に変わった。人生で初めて、母と喧嘩をした。今まで上げたことも無いくらいの大きな声を上げ、喉の痛みにも気付かない程互いに怒鳴り合った。

 口論の末、やがてノゾミの口から『私が部活で走ってる所見たこと無いくせに』という言葉が出た。母はノゾミが部活の話をしても褒めたことなど無かったし、部活で走っている姿を殆ど見たことも無かった。

その言葉を聞いて、母は手を振り上げた。その瞬間口を衝いたノゾミの謝罪の言葉は何処かに霧散していった。そこから先はあまり覚えていない。ただノゾミは一週間学校を休んだ後、陸上部を辞めた。


 手を上げると母は、いつもその数日後にそれを謝罪した。そしてノゾミがそれを受け入れ、母の機嫌が治って関係も修復される。ノゾミの気持ちを置き去りにしたまま。受け入れるしか無かった。また次に叱る時、きっと手を上げるとわかっていても。その予想通り母は二か月後、ノゾミを叱る時にまた手を上げた。

 しかしノゾミが大きくなるにつれ、母は手を上げなくなった。高校生になってからはもう一度も殴られていない。母は段々と子供を殴らない母親としてノゾミに接するようになっていった。

未だに母の手が顔の近くに来ると内心怯えてしまったし、話しかけられるたび何か叱られるような事をしただろうかと体が強張った。しかしそれを母に伝えることは出来なかった。子供を殴らない親として振舞う母に対してそれを指摘することは、過去の過ちを掘り起こす身勝手な行為であるように思えた。だから、全てを押し込めた。未だ陸上部へ戻ることが出来ていなくとも。



 淀んで思える廊下の空気が肌を撫でる。走っているのに、今日授業で走った時とはまるで違う。何もかもが自分にまとわりつく。どれだけ走っても逃げられない。この世の全てが自分に味方しない。そんな感覚。

 階段を駆け上がり、やがて教室のある階へ着いたところで走るのをやめた。走る必要の無い場所で走っている所を見られると、本当は走る事が好きだと知られてしまうと思った。そのまま歩いて教室へ向かい、窓の外を見た。陸上部の部員達は笛の音に合わせて走り出し、走ることの幸せを噛み締めているように見えた。瞳が潤むのを無理矢理心で抑え込んで、再び教室へ歩き出す。

ノゾミは誰よりも走りたがっているのに、誰もノゾミに走って欲しいとは望んでいなかった。求められているのは、美術への道。自分から走る事を奪ったもの。

母に見つかった、あの絵を思い出す。自分の幸せの全てを描いた一枚の絵を。ノゾミにとって大切なものになる筈だったその絵は、今はもう手元に無い。美術部に入ることになった際、部屋の壁に飾ってあったそれを破り捨ててしまった。

 いっそ、何処かへ逃げてしまいたかった。このまま走る事の出来ないまま絵を描き続ける事に耐えられる気がしなかった。最初は、ただ走りたいが為に絵から逃げたいと思っていた。ただ月日が経つと、いつの間にかこの状況逃げ場の無い状態から逃げられるのなら何でも良いとさえ思うようになっていった。

友人の顔が浮かぶ。好きなアイドルの話をする友人の姿は、確かに今のノゾミには無い輝きを放っていた。歩調が速くなる。今自分の中にある不安や思いを告げることはせずとも、少しの間だけでも自分を逃がしてくれるもの。それが欲しかった。

やがて教室の前に着き、ドアにはめられたガラス越しの教室を見た。そしてそれに重なるように、自分の顔が写る。それを見ると、今自分の周りに降りかかっているもの全てを直視している気分になって、ガラス越しの教室へ視線をやった。

しかし、友人の姿は見えない。嫌な予感が過ぎる。

「翔子……?」

 教室に入り、友人の名前を呼んだ。ガラス越しには見えない場所に居るのだろうかと、そんな期待をしながら。しかし教室にはやはり誰も居らず、先程まで居た席を見ると友人————翔子のカバンも無くなっていた。

 そこで、スカートのポケットに入っていたスマートフォンが振動した。息を切らし、鬱屈とした空気を灰に押し込めながらスマートフォンを見た。

『チケット当たってた!!!! ちょっとライブの映像とか見て予習しとかなくちゃだから先帰るね! ごめん!!』

 絵文字の付いた、そんな浮かれたメッセージ。スマートフォンが手から零れ、音を立てて地面と衝突した。拾う気など一切起きなかった。足に力が入らず、地面にへたり込む。

「……はは……」

 乾いた笑いが漏れ出る。何もかもに拒絶されたような感覚だった。お前を連れ去ってくれる人は誰も居ないと、そう突き付けられたような。

 誰かが自分を連れ去ってくれる妄想を繰り広げる。手を引いて、何処か遠く。別の場所へ連れ去ってくれるような妄想。

 誰かじゃなく、何かでも良い。お願いだから自分を連れ去ってと、ずっとそう望んでいた。

「死にたいな……」

 少女を覆う深い暗闇が、不意に明確な意思となって口を衝いた。

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