第10話 一年ぶりの再会

 バリバリと木の幹が割れる音が血だまりの中鳴り響く。


 黒く爛れた修羅は一心不乱にこちらを睨みつけていた。


 右腕と脇腹を欠損しながら、捕食霊の腕と思われるものを咀嚼している。


「え……た……」


 スミレはか細く声を漏らす。返事は返ってこない。


「エタ。私です、スミレです。今帰りました」


 優しく声を掛ける。返事は返ってこない。


「エタっ……エタぁ……! 私の声に……返事してください……!」


 息を荒げて声を絞り出す。修羅の口元が動く。


 声にならなかった二文字。「あ」と「え」の形。


 その意味を理解したとき、スミレは膝から崩れ落ちてしまった。


 心が持たなかった。私が遅すぎたから。私がエタを待たせすぎたから。


 目元が緩み、今まで我慢してきた雫が流れる。


「うあ~~~ん……あ゛ぁ~~~ん……」


 年相応の少女に見合わない大きな声で泣く。


 その慟哭さえ、世界は気づかない。


 巖咲の幽霊は、暴れ狂う捕食霊を相手取ったり、おむすびの準備だったりで手が空いていない。


 ただ一人の幽霊少年を除いて。


 再び修羅は天に吠え、捕食霊の元へ猛りだす。手には何も握られていない。


 残された少年霊は泣きじゃくるスミレに声を掛ける。


「お姉ちゃん、大丈夫?」


「私がっ……エタの約束や゛くそぐを……破っぢゃったがらっ…………エタがっ……私のこと……忘れちゃった……」


「まだ何とかなるはずです」


「無理です……私はエタに……なんて謝ればっ……!」


 ボロボロと零れる涙は彼女の言うことを聞かない。手で拭っても拭ってもとめどなく押し寄せ、幾度も心を手折ってくる。


 しかし少年霊にとってはここで彼女に挫けられるとやるせないのだ。


「……大丈夫だよ」


 小さな霊魂はスミレの前に立つ。その幽霊は一年前、彼らを立ち上がらせてくれたたった一人の少女を思い起こしていた。


「あの時……お姉ちゃんが僕たちに呼びかける時まで、僕たちは途方に暮れていたんだ。でもお姉ちゃんたちが来てくれて、一生懸命頑張って、みんなが希望を望めたんだ」


「だから……だからまだ間に合うよ。きっと希望は潰えていない。お姉ちゃんが僕たちに頼んだように……お願い。あの人を助けてください」


 少年霊はペコリと頭を下げる。


 いつの間にか涙は止まっていた。


 ……今は泣くときじゃない。泣いている場合じゃない。エタを信じないと。


 ぐいっと目を拭い去る。泥のつかないワンピースを浮かせ、立ち上がる。


「ようし、負けてられない! おむすびの準備は出来てますか?」


 スミレの問いに、今しがた握り終わった女性の霊が答えた。


「もちろんよ。それよりどうやって桜の木に食べさせるの?」


 確かに私たちでは束になっても捕食霊に敵わない。だから――、


「エタに手伝ってもらいます」


「エタって、貴女がよく口にしていた霊媒師さん?」


 首肯する。


 エタの速さなら捕食霊にも十分渡り合っている。ただ問題は、


「でもその子、さっき飛んで行った子でしょ? 大丈夫?」


 そう、今エタは傷だらけの体で走り回っている。そのうえ私のことを忘れているのか正気を保っていない。


「私がおむすびをエタに食べさせます」


 エタはおむすびをとてもおいしそうに食べていた。一年間何も食べていない彼ならあるいは……。


 女幽霊から笹の葉におむすびを受け取る。滑らかな手触りの笹が炊き立てのご飯のおかげで温い。


「じゃあ……行ってきます」


 頷いてくれたおむすび班の霊魂たちから振り返って前を見る。


 薄紅の花弁がついた無数の腕を振りかざす捕食霊。自分たちの作戦を遂行するために命を顧みず立ち向かう巖咲の幽霊。そして、全てを忘れたように暴れ回る無法の霊媒師エタ。


 私は彼に近づかねばならない。


「……よし!」


 スミレは覚悟を決めたように息を吐き、エタに近づくのではなく、荒れ狂う捕食霊へ一直線に近づいた。


「ちょっと、どこいくの嬢ちゃん!?」


 幽霊たちが驚くのも無理はない。数多くの腕に武装している捕食霊に生身で近づくことは自殺行為に等しい。


 まもなく捕食霊の目に留まる。


 戦闘能力は他の有象無象と変わらなかったが、あの霊媒師キチガイを置いて行った張本人を無視するわけにはいかなかった。


 既に弾を使い果たしていたため、硬質の樹皮を土塊で固め、銃弾の代替として装填する。


「危ない!」


 狙いすました一発。


 捏ねられた弾丸は音を置き去りスミレの頭を撃ち抜かんとしていた。


 しかし、スミレの前に大きな影が飛び込んできた。


「……よく来てくれました」


 エタだ。


 スミレが撃たれる事態を察知し、本能で身を挺したのだ。


 胸に受けた弾は、骨にあたって肺を挫滅し体内に残ってしまう。


 狙撃された部分から血が大量に噴き出す。


「エタ……」


「……」


 エタはスミレに何か言わんとしたが、力なく倒れてしまった。


 口から血を吐き、絶命――。10万6028回目の死であった。


 ほどなくして血が泡立つ。腐食音と沸騰音が混じり、銃創が塞がってゆく。


 スミレはその様子をまじまじと眺めた。


 男は死の淵から目をゆっくりと覚ます。


「ただいまです……」


「……スミレか」


 その声に思わず瞳が潤んでしまう。でも、彼には涙を見せたくない。


「……はい。スミレは帰ってきました」


 後ろ手に隠していたおむすびをエタの前に差し出す。


 エタは何も言わずにおむすびを受け取り、おおきなを口いっぱいに頬張る。両手の米塊はあっという間に無くなってしまった。


わりい、手を掛けさせちまったな」


「謝らないでください。本当はすぐ終わらせるはずだったのに、一年もかかってしまいました」


「一年? 思ったよりも早かったな」


「そうなんですか……?」


 スミレは気を遣わせてしまったのではないかと心配する。エタの口周りについた米粒を取ってあげる。エタは心地よさそうな表情をしていた。


「それより、お前撃たれること分かって飛び込んだだろ」


「はい。エタが私のことを忘れるはずがないと信じました」


「お前いつから……」


 お互い一緒にいた時間はそこまで長くないのに、なんだか見違えた気分だ。


 エタの言葉を遮るようにスミレが口を開く。


「こうしている場合じゃありません! 捕食霊を止めないと」


「そうだったな。スミレ、作戦は?」


「はい。こっちに来てください」


 スミレはエタの手を引いて巖咲の幽霊のところへ戻る。すでに準備は出来ているようだ。


「米の山?」


 出来上がったおむすび群を触ろうとするエタを幽霊たちが必死に止めている。


「捕食霊と桜の話は皆さんから聞きました。彼らは心からの満足を望んでいるそうです。ですから、私たちが丹精込めて作ったこのおむすびをたくさん食べさせてお腹いっぱいにさせます」


「ではどうやって食べさせるんじゃ?」


 年老いた幽霊が質問した。たしかに今もなお暴れ回っている捕食霊におむすびを大量に食べさせるのは至難の業かもしれない。


「そのためにエタに来てもらいました」


 エタの運動神経と継戦力ならこの作戦を十分遂行できる。


「なるほど、俺が奴の陽動か」


「わしらがおむすびを食べさせるんじゃな」


「逆です」


「エタがおむすびを食べさせて、皆さんがおとりになっていただきます」


 動揺が一帯に走る。死にに行けと言っているようなものだ。


「確かに危険かもしれないですけど、これしかないと思うんです」


 ざわめきが収まらない。


 スミレの顔が曇ったのを見て、エタが声を張り上げる。


「テメーら何様だぁ!!」


 混乱の声が吹き飛び、注目と不安の目が集まる。


「どうしようもなくてスミレに頼ったんだろ! そんな奴らがスミレを不安にさせてどうすんだ殺すぞ! 俺はテメーら幽霊の声なんて分からねえが、害意がねえことぐらいは分かる。だから黙ってスミレの言うことを信じろ!」


 エタの声を聞いた幽霊たちは熱を帯びて賛同する。


 エタはスミレと少年霊のやり取りを遠目ながら見ていたようだ。


 ……またエタに助けられてしまった。反省している場合じゃない。


「それにもっといい作戦がある」


 ニヤリとほくそ笑むエタ。


 エタにはまたスミレとは別の景色が見えているようだった。

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