二
食堂は
わたしは二人で座れる席を見つけて、もう片方に自分の荷物を置いて、
誰かから連絡がきていないかを確認してみたが、通知はひとつも入っていない。こちらからなにかメッセージを送る用事もない。
わたしが大学院に進むと、それまで仲が良かった子たちは社会人になり、置かれた環境の違いから連絡を
それに、話の内容もわたしには身近でないものばかりになった。社会人の友達二人との食事会では、わたしは
「お待たせ」
ようやく周が来た。わたしは持て余していた手でサンドイッチの包装を破った。周はカツカレーの大盛りと、おくらの
プラス料金を払って、白米を玄米にしていた。栄養バランスが良いのか悪いのか、わたしには判然としないけれど、そのこだわりのようなものは、なんとなく好きだった。
前から知っていたことだけれど、周は、わたしよりも上品に食べる。ルーとライスの間にスプーンを運び、ライスをルーの方に寄せながら食べると、お皿を綺麗にすることができるということを知った。
食事中に会話はなかった。わたしはそれが、なんとも心地よかった。
「
いきなり声をかけてきたのは
「今日もバイトを代わってくれてありがとう。そして申し訳ない。また今度、お礼をさせてくれたらと思うんだけど」
「べつに。大事な用があるんでしょう」
わたしは用もないのにスマホを取り出して、誰かと連絡を取っているふりをした。
「そう。どうしても外せない用があってね。だから今度、夜ごはんでもおごるよ」
それに答えることはしなかった。周の手前だからというより、どのように答えても
「早くお昼ごはんを食べてしまわないと、討論会に遅れちゃうんじゃない?」
返答の代わりに、知らなくても構わないことを
すると小薗は得意そうに言う。
「山田先生は四限目に来ることになっているんだよ。お忙しいからね。なんたって、ぼくたちの理論的な支柱となっている人なんだから」
わたしは「山田先生」という人を知らなかった。あとで調べてみようとも思わなかった。それよりも、学食の
「じゃあ、三限目のときくらいは、学生相談のバイトをしてもいいんじゃないの。ひとりふたりの相談に答えてあげればいいのに。知りつくしていることを、知っていないと決め込んでいる相手に教えることが好きなんでしょう」
カツカレーは、小薗がいるせいで、ライスが崩されることもルーがすくわれることもなかった。湯気はもう立っていなかったし、どんどん冷えていっているのが分かる。
自分に酔いしれて勝手に熱くなっている小薗。「山田先生」の業績とか影響力とかを熱弁しなくていいから、周に温かいごはんを食べさせてあげてほしい。
「小薗くん。たまにバイトを代わってあげるのはいいけど、わたしだってすることがあるんだからね。あと、あまり休みすぎると、
せめてもの反抗に、こんな嫌味を言ってやった。自尊心の強い小薗からしてみれば、こういうことを言われるのが一番傷つくだろう。しかしそのプライドの
「でもね、ぼくたちは巨悪と闘うという重大な使命を持っていて、そのためにはいくらかの犠牲が必要なんだよ。限りある時間を自分のためではなく、みんなのために使わないといけない。それは、駆け出しの研究者であるぼくにとって
こういうところだ。こちらが
犠牲にされているのは、大学に慣れない学部生のために様々なことを企画して、頭を下げて人を動かしている安野さんの方だ。だからこそ、わたしたちは、限りある時間を、安野さんのその努力のために費やしている。
それに、わたしだって、わたしを脅かし圧迫する存在と、いろんな形で闘っている。社会に生起する課題に関心がないわけではないし、
なぜ、おおっぴらに「活動」をしていることこそが、抵抗のための唯一の手段だと思い込めるのだろう。わたしたちを馬鹿にしすぎじゃないか。
* * *
周はバス停へ、わたしは二号館へと行かなければならない。
別れようとしたとき、わたしの頭を
わたしは生まれて初めて、家族ではないひとに、髪の毛を撫でることを
わたしは周のことが好きだし、周にもそうであってほしいと思う。そして、ふたりとも同じ量と質の愛情を持ちつづけたいと思う。今度はわたしが、周の触れられてこなかった身体のどこかを優しく撫でたい。
* * *
キスもセックスもしない。一緒に帰ることも滅多にない。別れるときは、事務的な挨拶を交わすだけ。いや、別れるときは、周はわたしの頭を撫でてくれるようになった。
だけど、デートといえるものは一度もしたことがなく、わたしたちが共同ですることといえば、オンラインゲームくらいである。それも、それぞれの部屋で通話をしながら。
「右から侵入してる」
「了解、わたしが処理する」
「拠点おさえた」
「ナイス! こっちも処理した!」
「ナイス!
「オッケー」
恋人どうしになろうと、わたしたちの使用する言葉は変化しなかった。
しかし、いままでだと捨て置いたはずの言葉で動揺してしまうようになった。周に言われた「ナイス!」のなかに、今までにない響きがあるように感じた。
ちょっと
「うわっ!」
「大丈夫?」
「ヘルプ、ヘルプ。西の方。後ろから撃たれた」
「了解、右から回りこむ」
昨年の夏、うちに遊びにきたハヤテに教え込まれたこのゲーム。
一年間でこれだけの腕前になるのは、中々のセンスではないだろうか。ハヤテの遊び相手になっていなければ、こうして周とゲームをすることはなかっただろうし、付き合うこともできなかっただろう。
突然、ドアがノックされた。「ごめんね」と言って、コントローラーを置き通話を切った。
お母さんはドアを開けることはなかった。わたしはいつの間にかドアノブを
「取り込み中?」
「うん、オンライン会議をしてるの。大学院のことで」
とっさに嘘をついてしまった。周と共有している空間と時間を守るために。
「ああ、そうなの。それは、ごめんなさい」
「なんの用?」
「明日なんだけどね、お父さんからちょっと話があるって。それだけ言いに来たの」
「お父さんから? なんの話?」
「やっぱりね、大学院生どうしがお付き合いするっていうのは、ちょっと思うところがあるのよ。お父さんには」
「……わかった」
彼氏ができてから、わたしが家族に向ける態度が変わった。もちろん、わたしへの家族の態度も変化した。そうしたことは、ちょっと不愉快でもあった。
「ごめんね、周。お母さんが用事を言いにきたから」
「大丈夫だよ。気にしないで」
わたしはそれから、ゲームを楽しむことができなかった。周との会話のなかに、いま抱えている
「そうだ、明日は学生相談の月一のミーティングだったね。一緒に昼を食べてから行こうか?」
「うん、そうしたい」
いままでなら、「そうしよう」と言っていただろう。それなのにいまは、「そうしたい」と言ってしまった。
明日は、いつもとは違うかわいらしい服で大学に行こうかという考えが、ふと頭をよぎった。だけど、そうした姿は、周にだけ見せたいものだとも思う。だとしたら、折角買ったあの服たちは、まだまだクローゼットの中にしまわれたままになるのだろう。
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