Ism-less Ism
紫鳥コウ
一
過去の相談者とのやりとりを記した書類をまとめたリングファイルの表紙を左手で
「災難だったね。
「相談者が来てくれたら退屈も
「授業がなければ、大学に残る必要がないからね。さっき図書館に行ったんだけど、勉強をしている人たちが何人かいたよ。でもそういう学生ほど、ぼくたちの助けを必要としないからね」
卒業論文や授業のレポートの書き方、ゼミの選び方など、学生の勉学に関する相談を受けるアルバイトをしている。
教授会のある火曜日の午後は退屈に過ごすことになると、なんとなく分かっていたから、シフトを入れていなかったのに。
二号館一階の小さな空き教室に
今日でなければ、日に三、四人は相談者が訪れる。廊下を歩く学生も大勢見かける。しかしいまは、隣の総務課分室で他愛もない会話をしている職員さんの声が、妙に大きく響いている。
「
「今日の夜……二時間くらいなら大丈夫だけど。〈ムンライ〉のイベントでしょ? いいよ、ぜんぜん」
「よかった。断られるかと思った」
「なんで断ると思ったの?」
「なんとなく。ぼくたち、昨年より忙しくなったし……それに秋原さんは、修論の進み具合がよくないって聞いてたから」
「だれがそんなこと言ってたの? べつに焦ってなんかいないし、先生にお尻を叩かれているわけでもないけど」
こういう根も葉もないうわさを垂れ流したのは一体だれだろう。そうだ、小薗に違いない。しつこいくらいの小薗からのデートの誘いを断るために、「修論が大変で……」という言い訳ばかり使っていたから。
忙しいから、という言い訳を
* * *
「部屋作ったから入ってきて。パスワードは『1210』だから」
「ちょっと待って。ノンアル忘れたから取ってくる」
冷蔵庫を開けると、ノンアルコールビールが十缶入っている。一桁になると心細いから、また買い足しにいかなければならない。
「通話の音量、大きかったりしない?」
「わたしは大丈夫だけど、そっちはどう?」
「ちょうどいいよ。始める前に乾杯をしようか」
二対二のオンライン対戦を何度も繰り返しているうちに、もう何人の見知らぬゲーマーたちと闘ったか分からなくなった。数をカウントするのも忘れていて、負け越しているという印象だけが頭の中にあった。
「今回も報酬をもらえなかったね。やっぱり二十勝って難しいなあ」
「じゃあ、わたしより上手いひととやったらいいのに」
その投げやりな言葉に、柏原は敏感な反応を見せた。
「ごめん、そういうつもりで言ったんじゃないんだ。軽率な発言だった。謝るよ。ごめんなさい」
「そこまで、謝らなくてもいいんだけど」
「これからもさ、秋原さんとゲームをしたいな。お互いこれから、もっと忙しくなると思うけど、息抜きにさ、こうして遊びたいって思う」
「ふうん。なんでそういう風に思うの?」
「なんでって……もう気づいてると思うけど、秋原さんのことが好きなんだよ」
柏原はきっと酔ってなんていない。お酒も飲んでいないに違いない。酔ったふりをして思い切って告白してきたのだ。
「うん、知ってた。いいよべつに。付き合ったって」
「秋原さん、もしかして酔っ払ってる?」
「ううん。ノンアルしか飲んでない」
「よかった。酔った勢いで言ってるんだと思った」
こうして、口約束ではあるけれど、柏原と付き合うことになった。
これからわたしの生活に、様々な形で、柏原が影響を及ぼすようになる。時間的にも、空間的にも、わたしの生活圏に彼が入り込んでくる。そのとき、わたしはどうすればいいのだろう。と、眠る前に考えて、
だけど、朝になり大学に行く準備をするころになると、わたしの生活は大幅に変わるわけではないような気がした。彼とともに過ごす時間も、彼と一緒にいる場所も、ドキドキしながら用意する必要なんてないのかもしれない。
柏原とわたしは、いままでと同じ関わり合いを維持しながら、少しずつ、友情を圧縮して愛情を膨らませていくことになるのだと思う。
* * *
二限目のゼミナールが終わり、二号館一階の空き教室の扉を開けると、柏原がいて、「昨日ぶり」と声をかけてきた。
彼氏としての柏原を見るのは初めてだったけれど、だからといって激しく動揺をするわけでもなかった。
「分かってるよ。今日も小薗の代わりでしょ? 災難だね。これから学食に行くんだけど、秋原さんはどうする?」
「わたしは行きにコンビニに寄ってきたから、ここで食べるつもりだったけど。でもべつに、食堂で食べても同じだから、いいよ」
「じゃあ、一緒に行こうか。でもちょっと待ってね。帰る準備をしちゃうから」
「今日はもう授業がないから、本当なら一緒に帰れたんだけど。さっき小薗に会ったら、急にバイトに行けなくなったっていうから……仕方なくこうして代役をすることになっちゃった。
「さっき、小薗の後輩が
自分には高尚な使命があるのだと
責任というものを、なんだと考えているのだろう。与えられた仕事をこなすことを軽視する人を、どうすれば好きになれるというのだ。とうやって信頼すればいいというのだ。
彼がしているのは、さぞかし立派なことではあるのだろう。しかしわたしには、尊敬に値するところがひとつも見つからない。わたしが魅力的に思えるのは、ちゃんとバイトに来ている、柏原のような責任感のあるひとだ。
「いまはだれもいないし、あまり人通りもないみたいだから、ちょっとだけキスしてみる?」
「えっ? 秋原さんは、そういうことがしたいの?」
そういうわけではなかった。
だけど、いままで通り大学で会えば話をして、たまに一緒にゲームをして……そうした関係に、なにを付け加えれば「恋人」というものになれるのかというと、それは、セックスとかキスとかではないだろうか。
どっちでもいいから、その儀式をはやく済ませてしまいたい。
それに、柏原とならしてもいいと素直に思える。だから、さっさとそれをして、わたしたちの関係が「恋人」であることを確認したい。なぜだか急に、そんな焦りを覚えてしまったのだ。
「柏原くんはさ、わたしとそういうことをしたくないの?」
「ううん……ここでは言いにくいな。それよりぼくは、秋原さんのことを下の名前で呼びたいかも。あと、ぼくのことも下の名前で呼んでほしいな。ふたりでいるときだけは」
「べつにいいけど。でもそれだと、通話をしているときくらいしか、下の名前で呼び合えないんじゃない? ふたりでどこかへ遊びにいくなら、別だけど」
「たぶん、そうだろうね」
「それって、いままで通りの関係でもいいってことじゃないの?」
気付いてしまった。わたしは、関係性があやふやなことに
「違うよ。まちがいなく違う。ぼくは秋原さんとの関係を、どこまでも続けたいと考えるようになった。そしてそれが、本当の恋なんだって思った。秋原さんとの関係性が、どこか適当なところで打ち切りになることを、仕方ないと割り切れない。ずっと、そばにいてほしい。だから……だから付き合ってほしい、彼女になってほしい、特別な存在になってほしいって思ったんだよ」
なんだか、一種の契約のように響いてくる。紙切れ一枚で繋がれた恋人というか。やっぱり、わたしたちの関係性を、堅固なものにするなにかが必要なのではないだろうか。わたしが、ちゃんとした彼女だと、自他ともに認められるようななにかが。
「そっか。分かったよ。そういえば、柏原くんの下の名前ってなんだっけ」
「ぼくは、
「そうだった。そう言われて思い出した」
「ぼくは秋原さんの下の名前を知ってるよ。
「じゃあ、ふたりきりのときは、そう呼び合うということで」
「うん、そうしよう」
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