3. 過去と仕返し

あんたの嫌う事なら何でもしたい。あんたが苦しむ事なら何でもしたい。その腹が立つほどのスカした顔を崩してやりたい。泣いて謝っちまえば済むのにさ。どうして謝らねぇのかな。


散々殴ったぜ? 散々蹴ったぜ?


その耳朶に開いた穴だって痛かったろ。なのにどーしてこうも反抗しねぇかな。非暴力が正義だとでも? そうだね。あんたはそうやって俺の首を絞めてたんだな。暴力じゃ何も解決できないと。暴力に屈しないものもあるのだと。お前の存在意義は簡単に崩れる、所詮は阿呆なお前だと。これだからヤクザの子は、と。



『……んっ、』 



そうだよなぁ。そうなんだよなぁ。だからこそ、あんたが嫌がる事は全てしたいのよなぁ。



『…っ』



自分を殴って蹴って暴力しか振るわない男を一度も殴り返さないのって、やっぱり将来刑事になりたいから? それとも殴り返すような価値なんてないから? 両方かな。



『……赤澤っ』 



あんたが嫌いな事、全部、全部、したい。だって俺、あんたの事は心底嫌いなんだ。反吐が出るほど嫌いなんだ。だから、さ。泣いて喚けよ。どーせ、殴り返す事すら出来ねぇんだから。


………な?



「……っ!」



はっと息を飲みながら目を覚ます。また嫌な夢を見た。気分が悪くなるような過去の出来事を悪夢として見ていた。寝ても覚めてもやっぱり無視は出来ないらしい。あいつの事を考えなきゃならねぇってとんだストレスの原因だなと俺は起きて早々溜息をつき、真っ白な天井をしばらく眺めた。憂鬱な気分のまま体を起こした時、ふと違和感を覚える。あぁ、ドアに鍵、つけた方が良いな。



「無用心なんだな」



男のやけに冷たい声を聞いた。俺は自分自身の無防備さに我ながら呆れて笑ってしまった。



「…そうかもな」



「ヤクザの若頭なら、もう少し警戒してるのかと思ってた。少なくとも寝室に鍵くらいは付けてんのかと思ったよ」



「若頭になったばっかでね」



「こんな最期、哀れだな」



「そうね」



「良い死に方だよなぁ。お前らしくクズ丸出しで。趣味の悪いセックスドールでも横に置いておこうか」



「あんたの夢を見てた」



カチャリと安全装置を外す音がした。遮光カーテンの隙間から漏れる朝日がやけに明るく感じた。その差し込む光を背中に、青木は引き金に指を引っ掛けた。窓際に置いてある椅子に腰を掛け、優雅に脚を組みながら俺に銃口を向けている。



「あの日の夢を、見てた」



鍵のない寝室、静かなものだった。高校時代苛めていた男は立派に復讐を遂げようとしているらしい。そんな度胸があったとは。ちょっと意外だった。



「最期の言葉は聞いてくれないのか?」



聞くはずもないだろうなと思いながら青木を見ると、青木はふっと鼻で笑った。



「聞いてどうする? 死ぬ奴の無様なセリフなんて聞くに耐えないだろ。あの世で喚いてろよ」



青木はそう言うとあっさりと引き金を引いた。瞬間、走馬灯が駆け巡り、俺はこいつにした数々の酷い仕打ちを後悔し、…なんて事はなく、銃弾は俺の脳天を弾くわけでもなく、ただ可笑しそうに笑う青木を見た。



「こうしてお前の頭を吹き飛ばせたら、どれだけ最高なんだろ」



カチャリと軽い音を再び鳴らした。撃たねぇんだ。青木の方に体を向けて片眉を上げて青木を見る。



「弾ァ、どこやったよ」



「抜いて俺のポケットの中」



青木はポケットの中に手を入れてジャラジャラと5発の弾を鳴らした。



「なんで抜いた」



「間違えて殺さないように」



そう言いながら弾を銃に戻し、それをベッド横のシェルフに置く。青木は「使いにくい銃だな」と俺の目を見ながら頬を緩めて口端を上げた。瞬間、これは本当に厄介な事になったと思った。



「なぁ。…なんでヤクザなんかやってんだ」



「そんな事、聞くようになったんだな」



そう言って青木は昨日俺がつけたタバコの痕を撫でている。



「それよりも銃を仕舞ってる棚くらい鍵付けたら? あれで隠してるつもりだったなら、お前って相当馬鹿だよ。やっぱ頭の悪いやつって死ぬまで頭悪ぃのかな」



こいつはいちいち腹が立つ事を言う。



「初めて家に入れるやつが、人ン家の棚の中を物色するような頭のおかしい人間だなんて予想できなくてね」



「ふふ。学べて良かったな」



青木の小馬鹿にしたような笑みに、つい高校時代を思い出していた。こいつは変わらないのか、変われないのか。本当に腹が立つ。朝から苛立ったがこんな事でいちいち腹を立てたくないと、一度あからさまな深呼吸をした。青木はそれを見ながら、「殴る?」とまた鼻で笑っている。



「……殴らねぇよ。お前がここにいるの、未だに信じられなねぇけどさ、こうやって話してイライラしてっと嫌でも現実を突きつけられるな」



「俺がヤクザになった理由、お前にあるって言ったら更にイライラする?」



眉間の皺が更に深くなる。俺に理由がある、って何だ。どういう事なんだよ。何かを言おうとした俺を見て、青木は目を細めて楽しそうに言った。



「これが俺の仕事だからさ」



訳が分からない。



「答えになってねぇよ。意味分かんねぇ」



「大丈夫。心配しなくてもお前を地獄に落とす為にここにいるんだから」



そう人を小馬鹿にしたように青木は笑い、その笑顔に俺はまた苛立ちを覚えた。やっぱり、どうしたって俺はこいつに腹が立つ。それは大人になっても変わらないものらしい。



「落とせるもんならやってみろよ」



けれど高校の時と違うのはこいつと俺の立場の違いだ。この世界に自ら足を踏み入れたのはあんただ。見下すのはあんたじゃねぇよ。俺だ。



「そう焦るなよ。カシラ? なぁんて、ダセェな」



それでもこの男は立場なんて微塵も気にしないのだろう。



「俺があんたを殺したって誰も文句は言わねぇ。適当に理由さえでっち上げればそれでカタが付く。瀬戸組長だってきっと何も言えない。あんたがわざわざ飛び込んだ世界はそういう世界だ。分かってンだろうな?」



脅すように凄んだつもりだが、青木は飄々とやけに冷めた面をして「そうだね」と返して続ける。



「分かってるよ。だからこそ、お前を苦しめるには最高の舞台。もしあのじーさん組長を気にしてンのなら、そんな必要ねぇよ。瀬戸組長も安藤のカシラも出てくるまでにどれくらいかかると思ってんの。そんな存在なんて気にせず、殴りたいのなら殴れば良い。殺したいなら殺せば良いよ。それとも何、そう言われたら急に怖気付く?」



こいつ…。自分でも驚くくらい、俺はその言葉に苛立っていた。高校の時みたいだった。まるで戻ったみたいだ。


あの頃はこいつの視線に苛立ち、殴り、蹴り、それでも満たされず、更に苛立っていた。こいつを殴ろうが何をしようが満たされないのは、こいつがいつも殴り返す事もなく受け身だから。そんなのもう分かってる。喧嘩にならないただの暴力は、一方的で何ひとつ得られるものはない。だから俺は溜息を吐いて、こいつから離れたいと寝室を出ようとした。


しかしベッドから出ようと青木に背中を向けたその瞬間、ぐんっと腕を引っ張られ、体重を下へ掛けられる。もちろん体はベッドへ再び沈み込み、目の前にとても楽しそうな青木の顔がある。こいつが俺を組み敷いた現実にぎょっとした。油断していたとはいえ、今、こいつは完全に俺のマウントを取っている。するりと手が首に伸び、俺の喉仏を親指で少しだけ押し込む。青木の膝は俺の肩に重石のように乗っかり、俺は文字通り抵抗できない体勢で、ひたすら冷静になろうと頭を回転させている。



「そりゃぁ、驚くよな」



青木はこの状況が心底可笑しいのだろう。やけに楽しそうに笑っていて、俺はその表情にぞくっと鳥肌を立てた。



「ふふふ、ひとつ良い事を教えてやろうか。俺はお前に負けたと思った事は一度もない。抵抗しようと思えばいつでも抵抗できたんだよ。むしろ、お前を力で組み敷く事も簡単にできた。赤澤さぁ、36には見えない良い体してるけど、どーせこれ、見せかけの筋肉だろ? モテるためにつけた筋肉にすぎない、だろ? だから今、こうして俺に首絞められて殺されるかもしれないのよ。なぁ、…怖い?」



「……っ」



喉に食い込む細い指に俺はゴクリと生唾を飲み込んだ。満足そうに笑ってる青木の顔をじっと見上げながら苛立ちと悔しさから唇を噛み締める。これは厄介で面倒で、そしてかなり危うい。



「あ、喉仏動いた」



へらっと青木は笑う。そのままグッと親指に力を込め、体の重心を徐々に前へ、俺の首へと掛けていく。もちろん苦しい。当たり前に苦しい。 



「…はな、せ…っ」

 


俺は必死になって青木の手首を両手で掴み、解こうとするが絞める力は強くなる一方だった。



「お前が思ってる事を言ってやろうか。今すぐにでもこの手を解いて俺を殴りたい。俺が嫌がる事ならなんでもしたい、そうでしょ? けど今のお前にはなーんにも出来ないよ」



なんだよコイツ。すげぇ楽しそうだな。死ぬほど楽しそうな顔してんな。そんな顔なんてすんのな。でもやっぱ、腹ァ立つな。その鼻、折ってやりてぇ。


けど今はこいつの言う通り何も出来やしない。苦しくて涙が出てきて、意識が遠のくように、頭がぼうっとしてきても何も出来やしないのだ。ただこいつにも復讐心っていうのかな、反抗心っていうのかな、それがあると思うとちょっと興奮した。落ちるとこまで落ちてきて、性格まで変わっちまったらしい。



「青、木…」



「もがけばもがくほど苦しくなるよ。だから受け入れてよ。自分の死を、ね? そうしたら苦しくないから」



出来るかよ、阿呆が。けれどもがいたって脳に酸素は届かず、手に力が入らなくなりふわりと一瞬飛んだ。その瞬間、青木はパッと手を離して俺は目一杯に呼吸をする。ぜぇはぁと肩で呼吸をして嬉しそうに笑う青木を横目で見た。



「苦しかった? でも殺さないよ。お前を殺すと厄介なんでね。殺しはしないから安心して」



「…楽しそうだなァ、あんた」



「だって楽しいもの」



「今まで抵抗は一切しなかったクセに、今ンなって復讐心芽生えたか? あぁ? チンピラんなって、何も背負うものなくなって俺に仕返ししたくなったか?」



喉がまだ苦しい。ケホケホと咳き込みながらそう睨むように言うと、青木は楽しそうな表情は変えず、そのまま俺の頬に手を寄せる。それはまるで愛おしい何かに触れるようだった。その触れ方にひくりと眉間に皺が寄る。怪訝な俺の顔を青木はじっと見下ろしながら口を開いた。



「赤澤ァ。お前にはさ、しっかりお前の仕事ってのをしてもらわないといけないんだよ。だから、さ、お前はちゃーんと稼げよ?」



こいつは何を言ってんだ。というか、待て。仕事をしてもらわないといけない? こいつは一体何々だよ。



「今はチンピラだけど、そのうちお前の座を奪うかもね」



いつまで俺を馬鹿にすれば気が済むのだろう。怒りを堪えようとしては頭が痛くなる。



「だから頑張ってよ。若頭の赤澤くん」



一発くらい殴っても文句は言われねぇだろうな。こいつだって俺の性格は十分過ぎるほど知ってる上でそう煽ってんだ。いい加減、黙らせようかと考えていた俺に青木は揶揄うような笑みを浮かべると、頬を鷲掴みして顔を近付けた。それはあまりにも突然の事だった。



「……おい…ッ」



呆気に取られるとはまさにこの事である。



「キスはまだした事なかったよね? 俺もさ、お前の嫌がる事は全部したいよ」



噛み付くようなそれを、こいつはキスだと言って口角を上げている。青木の考えている事が全く分からない。お手上げというほど分からない。なぁ、青木。本当に何を考えてんだよ。



「あぁ、でも、そうか。お前、俺とシたのが良かったんだっけ? じゃぁもしかしてこのキスも嬉しかった?」



そうだった。こいつはいつだって俺を見下したいんだ。それはチンピラと若頭の関係になった今でも、こいつは俺なんて怖くない。ただ見下し、哀れだと鼻で笑って馬鹿にしたいだけなのだろう。すげぇ腹立つな。やっぱりあんたはすげぇよ。死ぬほどあんたの事、嫌悪しちまうんだからな。俺はとうとう苛立ちを抑えきれずに、こいつの顔面を思いっきり殴った。はずだった。


しかしその拳はあっさりかわされ、挙句に両腕をまとめ上げられて頭上で束ねられる。俺は頭の血管が切れるんじゃないかと思うほど苛立ち、ジタバタともがいた。青木はそんな事、お構いなしのようだった。そりゃそうだろう。今、まさに、こいつは証明したのだから。


自分の方がお前より力も上だ、と。



「逆転したと思ってる? だとしたら違うよ。俺は昔から強い。ただ殴り返さなかっただけ。お前は一度も俺に勝てた事ないんだよ。じゃぁ、なぜ今更? って思ってるよね。復讐心だとお前は言ったね? そうだなぁ、確かに復讐心かもなぁ…でも、」



青木は空いている方の手で顎を撫で、うーんと口を歪めた後、また柔らかく口角を上げて優しく笑顔を作って俺を見下ろす。



「それに火をつけたのはお前だよ。今まで燻っていたのに久しぶりにお前の顔を見たら引いてた熱が振り返したんだ。倍になってね。止めらんないくらいの熱になって歯止めの効かない炎になっちゃった。…だからこれから起こる事はお前の招いた悲劇だと受け入れてよ」



青木は俺の股の間に割って入ると、すごく悪戯な顔をした。なるほどなと、俺はまるでこの状況を赤の他人のように考えていた。そうすれば少しは落ち着きを取り戻せる。だって何をどうしたって、これはもう避けられないのだから。



「今度は逆だな」



青木は腹が立つほどとても愉快そうで、心からこの状況を楽しんでいるようだった。もしかすると、いつか、こいつは無邪気な顔をして嬉しそうに俺の息の根すら止めるのかもしれない。



「お前が苦しめば苦しむほど、俺は嬉しいよ」



手を振り解こうと身を捩るが全く動じない。むしろ、そう抵抗を見せれば見せるほど、こいつは楽しくて仕方ないようだった。



「そんな怖い顔すんなよ」



「…後悔すんの、あんただぞ」



「ふふ、そうかもね」



青木は何の躊躇いもななかった。ただ楽しそうに快楽を飲み込んでいるようだった。お前の嫌いな事を、お前を苦しめる事を、そう口を開けば煽るように言葉を並べるけど、俺達は今、何をしてる? 仕返しのつもり? 暴力つもり? なんだっていいよ、青木。



「…青木よぉ」



「……ん?」



「あんたって、…っ…すげえ、…阿呆だな」



「ふふ」



けど青木は笑ってる。そしてやけに柔らかな表情で俺を見下ろす。



「…お前は昔から阿呆だろ?」



手を重ねて指を絡めると、熱を与えて、満足そうに笑う。時間が経つにつれて、互いの体温が少しずつ上がっていった。



「あーあ、スッキリしたし、シャワー借りるな。借りたら帰るわ。服、貸してね」



青木は淡々としながら、ベッドから下りた。



「…好きなの持ってけ。あとこれからどうするつもりだよ。あんた、今日からうちの組員だろ」



「エンコでも詰める?」



なんだろうな、こいつ。やけに嬉々として、満足そうで腹が立つ。



「詰めてそこに置いておけ。そしたら許してやるよ」



「あはは。そっか」



青木はそう頷くと俺にまた柔らかく笑いかける。そしてドアに手を伸ばして出て行く瞬間、ぽつりと呟いた。



「……その背中の墨、良いな」



いつから部屋にいたのだろう。寝ていた俺を、どれほど眺めていたのだろう。その時、何を考えていたのだろう。俺は深い溜息を漏らして、静かな部屋でひとり、ベッドの背もたれに寄りかかった。ギシッと軋む音だけが響いていた。

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