10. 思惑

「ご無沙汰しております」



男の事務所で挨拶をする。男は高級な黒革の椅子に腰を掛け、ゴルフクラブを磨きながらこちらを一瞥した。男は細身で、病弱な印象を与えるほど色が白く、ヤクザという言葉はあまりに似合わない。顎先まで伸びている長い髪はゆるくウェーブがかかり、いつもラフに下され、後ろに撫で付けているところを見た事がなかった。だからだろう、組織の重鎮のひとりではあるが、貫禄ある極道、といった雰囲気はなく、不気味でミステリアスな金貸、といったイメージがあった。この男が、佐野 清巳、佐野組組長であり、保谷さんと敵対する男である。



「よく、のこのこと来れたね。今、この状況でお前がここに来る意味、どう捉えようか」



「勝手ながら、自分自身の判断でここへ来ました。龍稜組としてここに来たわけではありませんので、自分がここに来る事は、組の人間や保谷組長には知らせていません」



「ふーん。じゃ、お前がここで死んでも、俺に疑いの目が向けられる事はないのね」



さすがに急にゴルフクラブを振り下ろされる、という事はなさそうだが、それでも佐野組長の妙な圧に背筋が寒くなる。



「はい」



肯定すると、佐野組長は「なるほど」と呟き、ゴルフクラブを磨きながら淡々と言葉を並べる。



「なら、外に待たせてるアレはどう説明するの。ひとりで来たわけじゃないのに、組とは無関係だなんてよく言うよ。一応保険は懸けてるって事なんじゃないの」



外に待たせてるアレ、とはシュウの事であった。俺は本当に組として来たわけじゃないと、咄嗟に言葉を返す。



「あいつは自分の運転手ですが組の人間ではありません。口は堅いので、口外はしません」



ひとりで来るはずだった。だがシュウは俺が何処へ行こうとしてるのか、見当をつけていたようで、車を用意し、「佐野組事務所まで行くなら俺が送ります。保谷の親分さんには言わないんで、安心して下さい」と言ってきたのだ。加えて、「俺は龍稜組じゃなく、ミツキさん、あんたについて行くんで」とまで言い切った。そんな男の目から逃れる事はできず、俺はシュウの運転を許可してしまった。


だから連れて外で待たせていたものの、佐野組長はそれに気付いていた。



「専属の運転手が付くほど偉くなったんだね。たかが5年、されど5年か。良いご身分だ。近いうち、保谷組長の跡を継いじゃうんじゃない?」



揶揄うようににやりと口角が上がった。気味の悪い笑みだ。



「その事で今日はお話が」



「へぇ、その事で、ね。どーぞ」



「自分が龍稜組を継ぐという噂が立っているようですが、自分は継ぐつもりがないという事をまず先にお伝えします。そして佐野組長にお尋ねしたい事があります」



「何?」



「あなたが樋上若頭についたのは何故ですか」



「んー。俺は昔から保谷組長が好きじゃないからね。ずーっとタイミングを見計らってたの。ずーっと、この時を待ってたの。それが答えかな」



この時を待ってた、その言葉を頭の中で何度も繰り返す。佐野組長は相変わらず俺の方は見ず、ゴルフクラブを見つめたままである。佐野組長の物言いが、妙に引っ掛かる。この人が、好き嫌いで動く人間とは思えないのだ。



「このタイミング、つまりおやっさんが組織のトップを狙うこのタイミング、でしょうか」



「まぁ、そうね。そういう事」



だとするならば、さきの言葉、「保谷組長の跡を継いじゃうんじゃない?」に繋がるのかもしれない。



「佐野組長、あなたが保谷組長につかなかったのは、自分が原因、ですか」



佐野組長は、そこで初めて俺に視線を移した。切れ長の細い瞳が、弧を描くようにさらに細くなり、わずかに口端だけが持ち上がった。目の奥には温度がなく、薄い膜のような静けさが張りついている。



「そうだよ」



その言葉が落ちた瞬間、空気がひとつ、静かに沈んだ。

佐野組長は背もたれに体を預け、そのまま続きを語った。



「お前が後を継ぐ気はない、と言ってもね、お前はきっと保谷組長の命令であれば継がざるを得ないだろうから。まぁ、そうだなぁ…。とは言っても一番の理由は、保谷組長の考えに賛同できないって事なんだけど。警官だったお前がトップ取るってのも賛同できないけど、お前が保谷組長の忠犬だから、って理由の方が大きい。だってお前、組長になったら本家幹部の仲間入りもするだろ? お前がいくらNOと言っても、保谷組長はお前を引き上げる。俺はそんなの御免だね。それなら保谷組長を今のうちに潰すしかないじゃない?」



言葉に熱はなく、むしろ淡々としているが、それがかえってこの人の恐ろしさを際立たせている。粛々と、着々と、保谷さんを本気で潰そうと考えているという事が、嫌でも伝わってくる。この人は今の今まで、牙も爪もひたすらに隠し続けていたのだろう。保谷さんにとっては良いビジネスパートナーだと思っていたが、それはどうやら大きく異なるらしい。



「おやっさんが何と言おうと、後は継ぎません。自分が後を継いでしまえば、おやっさんを敵視する勢力が増える事は目に見えてますし…」



「保谷組長を思って後を継がないって事か。優等生な回答で恐れ入るよ。けど、お前は後を継ぐ事になる。だって、慕う保谷組長の頼みなんだ、お前、断れないだろ」



「そんな事は…」



「ないって否定するのは難しいよね。保谷組長はさ、昔から男気あるやつだって人気だけど、俺はあの人の本性を知ってる。あの人の時代をいい加減、終わらせたいの。ふふ、あの老いぼれ、早く引退させなきゃ仕方ないじゃない」



アキを殺せと命じてきたが、保谷さんは俺にとっては恩人。それには変わりない。そんな保谷さんのことを悪く言われ、内心、ぐつぐつと腹が煮えたぎった。正直、殴ってやりたかった。拳を握れば、自分でも分かるほど指先が痺れていて、怒りは確かにそこにあった。


けれど、できない。今の俺には、その一線を越える事ができないのだ。拳を振り上げた瞬間に、すべてを壊すことになる。何もかもが崩れ、この人から得たい情報も得られない。佐野組長は分かっていた。俺が、何を言われても飲み込むしかない事を。



「ところでさぁ、藤君。今日来た本当の目的って何?」



アキの裏切り、そして保谷さんの指示、本当の事を言えるはずがなかった。だから遠回しに自分の得たい情報を引き出そうとした。



「……思い直してもらえないかと。おやっさんとの敵対を、どうにか」



だがその思惑を分かっているかのように、佐野組長は溜息を深く吐くと、「そうじゃないだろ」と俺の目をじっと見上げる。



「その裏に何が隠れているのか、真相を知りたくて来たんだろ?」



この人の読みが怖かった。佐野組長は動揺した俺を静かに観察していた。片眉をゆっくりと持ち上げると、少し笑みを含ませて口を開く。



「お前みたいにさ、親を第一に思う子は素晴らしいよ」



その口調は柔らかいはずなのだが、冷えた刃物のように心に刺し込まれる。そのまま佐野組長は言葉を継ぐ。抑揚を押さえたまま、感情を見せずに。



「忠誠心を掲げて、健気に頑張る事は素晴らしい。けど、親の事を信じるがあまり視野が狭くなるようじゃねぇ。お前はさ、保谷組長がニコニコと気前よく、お前を仲間に迎えたと本気で思ってるの?」



「思って、ます…。指まで詰めて、俺やアキを守って…」



「ま、指を落とすくらい、どうって事なかったのかなぁ。それで花柳組とナシがつき、お前が手に入る。そこまでお前の"首"が大切だったんだよなぁ」



「何が言いたいんです…」



「お前に対する愛情や優しさで指を詰めたと思ってる? だとしたら違うよ。花柳組にお前の首を取られたくなかっただけなんだよ」



長年、思っていた事がある。あの時、保谷さんは確かに俺に居場所を与えた。後ろ盾がなくなってしまえば、花柳組に潰されるかもしれないと、俺の命を案じて仲間に引き入れた。


元組対の刑事だった、だからこそ、俺が欲しかったのだろうと思っていた。それは菊島という兄弟分を逮捕した刑事だとしても、俺の価値はそれほどまでにあるのだと。


でも、もし、そうじゃなかったら。俺はただ、もうひとつの可能性を、考えないようにしていただけなのかもしれない。



「忘れてないよね。保谷組長の兄弟分を、ムショに入れたって事」



「自分は職務を全うしただけで……、おやっさんもそれは理解していました。刑事だった自分を仲間に引き入れる事が、おやっさんにとっては価値のある事だったので…」



「お前、あの人がお前に対する感情が何か、気付いているのに、気付かないふりを続けてるだけなんじゃないの?」



「違う……」



「親に裏切られたって思ってる? だとしたら辛いよな? でもあの人にとったら裏切りでもなんでもないんだよ。最初からこうするつもりだったんだから」



俺は何も言えなかった。何かを言おうとすれば、喉に引っ掛かり、言葉として口から溢れる事がなかった。佐野組長は首を傾けた。



「藤君、そもそもお前と原の関係、警察にリークしたの誰だと思ってる?」



冷たい視線に、鼓動が跳ねる。ひとつ、ひとつと、受け入れ難い現実を突き付けられ、否定することもままならない。



「……そんなの、能鳥さんでしょう。当時の若頭、その人が俺とアキの事を…」



「能鳥と話した事ないよな?」



「ありません、が…」



「その人、どうなったか知ってる?」



「飛んだ、とおやっさんから聞いてます。密告文を送ってから忽然と姿を消した、と」



「そうよね。お前の不祥事を密告文として警察に送って、姿消した、そういう事になってる。長い月日が経ったよね。もう遺体も出てこないだろうなぁ」



言葉の意味が頭に届くより先に、背中を冷たい風が這ったように感じた。ぞわりと鳥肌が立ち、鼓動が速くなる。息を吸おうとしては胸が詰まり、喉奥に何か硬いものが引っかかったような不快感が残る。そんなはずはない。いや、あってはならない。思考がうまくまとまらないまま、言葉が漏れる。



「い、遺体って…、そんな、まさか…」



「そ。あいつは今、山の奥深くに眠ってる。万が一骨が出てきたとしても、身元が特定できる物がないから成人男性って事しか分からないだろうね」



「な、何故、佐野組長はそれを…」



「だって保谷組長に遺体の始末を命じられたの、俺だから」



瞬間、佐野組長の言葉にひどく信憑性が出てしまった。



「俺が見た時にはもう冷たくなってた。首絞められた痕をくっきり残して、もがき苦しんでから死んだってのがよーく分かった。保谷組長の腹の底を読む為に俺はずっと近くにいたんだけどね、あいつの始末は読めなかった。まさか殺すなんてさ、思わないじゃない。で、あいつは自分の名前まで利用されたんだ。誰の為に利用されたかは、分かるよな?」



保谷さんが俺を引き入れる為に、能鳥という密告者を作り出した…。俺は拳を握った。爪が肉に食い込んで痛みを増す。



「能鳥はさ、保谷組長とあまり馬が合わなかったんだよね。組長と若頭だけど、保谷組長の考えに徐々に反発していって、能鳥の考えに賛同する者が多くいた。大半は下っ端衆、それから傘下の組からも。上納金なんか特に保谷組長の考えと違ってね。上納金を減らさないと傘下の組が潰れるって考えの能鳥と、今の体制を維持したい保谷組長と、何かとぶつかるようになってた。上納金を減らされてしまえば困るのは上の連中でさ。だから本家会長にとっても能鳥はうざかったでしょうよ。だから保谷組長はあいつを使ったんだろうなぁ。丁度良かったろうね。あいつを使って、お前が手に入るんだから」



保谷という男の印象が、傲慢な男に変わっていく。ただただ、信じられなかった。



「………確証は、ない、ですよね」



佐野組長は俺の言葉を聞くと、小馬鹿にしたように鼻で笑った。



「確証かぁ。じゃぁ密告文の話をしようか。死人に口無しで保谷組長に能鳥は名前を使われただけ。保谷組長はね、お前を引き入れる為に、能鳥を殺したようなもん。お前には、密告文を送ったのは能鳥だと伝えたって事が全てを物語ってるだろ。能鳥が菊島の死に暴走し、お前をムショ送りにした。で、保谷組長はそんな部下の行動に怒り、能鳥は飛んだ。お前には、能鳥を叱りすぎた、と悔やむ姿まで見せたんだろうよ。確証が欲しいとは言うけどさ、物的証拠が今更出るわけないよな。だったら当時を知る人間の話から判断するしかないよな? お前の頭できっちり考えてごらん。そうすれば自ずと分かるはずだ」



「おやっさんがそこまでする理由が俺には分かりません…。だって、そんな、俺を引き入れる為に…」



「お前を手に入れる事がどれほどあの人にとって重要か、まだ分からないって言うのかい? 兄弟分を死に追いやったお前から仕事を奪い、地の底まで落とし、極道に引き摺り込み、口上手く首輪を嵌め、原という弱味を握る。あの人はね、お前を前科者にして手元に置いたんだ。優しさでお前を花柳組から助けたわけじゃないんだよ」



佐野組長は淡々と言葉だけを並べ、俺はその言葉に動揺を煽られる。違う、と否定したくて、でも分からなくて、心臓がキリキリと痛みだした。



「し、しかし…指を詰めるなんて…」



「するよ。あの人はそういう人だ。怖いよなぁ」



俺を手に入れる為、つまりヤクザにして手元に置く為。俺を刑務所に入れて、出所したところに声を掛ける。アキが狙われていた事に切羽詰まっていた俺にとって、花柳組と話をつけられる保谷さんは仏に見えた。


実際、保谷さんは指を落として、花柳組から俺とアキを引き離してくれたが、それも何もかも、保谷さんが俺を手に入れる為だとしたら、保谷さんが持つ恨みはきっと底知れない。


花柳組とのイザコザがなければきっと俺は、組には入ってなかったろう。今のように保谷という男に心酔する事はなかったろう。


もし、本当に何もかもが保谷さんの計算だったら…。辻褄が合い、ひやりと悪寒を感じる。



「……そんなわけ、ない…」



この5年間、全てを否定する事になる。勘弁してくれ。俺はあの人の為に死ぬと決めたんだ。保谷さんは俺を嵌めるような人間じゃない。そう頭の中では否定の言葉が繰り返される。



「否定したいよな? ずーっと恩を感じて、あの人の為に命捨てる覚悟までしてたんだ。でもさ、もう分かってんだろ? だってお前、俺のところに来たんだ。つまりは頭のどこかでは理解してんだろう」



「違います、俺は、ただ、佐野組長に保谷さんとの敵対を……」



「藤君、動揺してるだろ。それが全てを物語ってんじゃない」



ふっと鼻で笑われ、俺は唇を噛み締めた。佐野組長は片眉を上げると、ゴルフクラブをデスクの上に置き、言葉を続ける。



「お前がここにいる理由は、保谷組長の事を信用出来なくなったから。離れたいと思ったから。認めなさいよ。お前は親を裏切る材料を集めてるんだ」



「……っ」



その言葉を聞いた瞬間、背筋を撫でるような冷気が走った。氷のように冷たい瞳が、こちらの嘘も迷いも、すべてを見通している気がした。思わず目を逸らしてしまう。心底、心地が悪い。



「頑なに認めないなら、お前の背中、押してやろうか。あの人の目的が何か、どうしてお前を助けて手厚く保護するように組に入れて、今度は跡目にしようとしているか、ハッキリ口に出して教えてあげようか」



やめろ。違う。そうじゃない。保谷さんは、刑事だった俺を買っていて、だからこそ花柳組に話をつけてくれた…。それ以外の理由は何もない。ぎりりと奥歯を噛み締める俺に、佐野組長は首を傾けて乾いた口調で言い放つ。



「菊島さんを死なせたお前を、苦しめ、そして息の根を止める為」



冷たい刃で静かに喉を切っ裂かれるような現実だ。拳を握り締め、受け入れたくない現実を飲み込むように深呼吸を繰り返した。



「跡目、お前が継いだらどうなるか分かるだろ?」



跡目を俺に。そうすれば組は割れ、俺自身、安全とは言えないだろう。


だが、同時に疑問が生まれる。だってもしそれが真実だとしたら、龍稜組が崩壊するというのに、何故、保谷さんは…? 綻びが生まれてほしいと、どこかで願うように俺は口を開く。



「確かに俺を邪魔だと思う連中によって、俺は潰されるかもしれません。しかし、保谷さんが俺を跡目にして反発を食らえば、あの人だって無傷じゃいられません。今まで大切に守って来た龍稜組を俺に渡して、俺のせいで崩壊するかもしれない事を分かった上でやってるとは思えません。…だとしたら、やはり、俺を跡目に置くのは俺を殺す為だ、と考える方が無理がある。そんな事、あるわけない」



佐野組長は何かを考えるように顎を撫でて目を細める。



「あるとは思うよ、あるとは、ね。ただ、そうだね…。あの人はお前をじっくりと長い時間を掛けて嬲り殺しにしたいのだろうね。お前を殺す事が目的なら、もうとっくにやってるだろうよ。でもそうしなかったのは、あの人はお前に自分を信用させたかったから。だから手元に置いて、いつでも突き落とせる居場所に自分自身がいたかったから。お前に手を汚させて、堕ちていく姿を見たかったから。理由は何とでも想像できる。ただ、お前にとって何が一番のダメージなのか、あの人がそれを利用しないわけがないんだよなぁ。ね、藤君。お前、保谷組長に何か厄介な依頼をされたんじゃないの? 藤君が保谷組長を裏切る為の情報を得ようと考えるほどの何か」



「……それは、」



言いたくないと口を噤むが、無言は時として多くを語ってしまう。佐野組長は「へぇ」と目を細めると、「やはりね」と片眉を上げる。



「君達は本当に互いが弱味なんだなぁ。可哀想に」



その言葉に俺はふと疑念を抱いた。もしかして…。



「佐野組長、もしかしてアキと、あいつと繋がってるんですか」



アキは、保谷さんを裏切っただけでなく、佐野組長についたのではないか…。佐野組長はふっと相好を崩す。



「さすがに気付くよね」



そう答えると、佐野組長は奥の部屋を見つめる。



「おーい、もう良いよ。やっぱり、お前も出てきて話すべきだね」



その時、ギィと軋む音を立てて奥の部屋のドアが開いた。顰めっ面をした男が、のそのそと部屋に入って来る。



「……みっちゃん、」



アキは気まずそうにぽつりと名前を呼んだ。アキが佐野組長についてると分かった以上、俺はいよいよ自分の立場を決めなければならないのだろう。



「いつから保谷さんを裏切ってたんだ」



「そう怖い顔しないでよ。……言ったよね。俺がみっちゃんに全てを話す時は、みっちゃんがあの人を殺せる覚悟が出来た時だって」



「保谷さんが俺を苦しめたい理由は、俺自身にある。これは俺への復讐だ。…だとしたら、お前は関係ない」



「関係あるよ。あるから俺はここにいるんだろ」



「保谷さんは俺を苦しめる為だけにお前を利用してる、違うか?」



「それは…」



一瞬の戸惑いが、全てを物語っているようだった。



「図星だろ。だったらお前は関係ない」



「………みっちゃんは、どうするつもりなの? 佐野組長が語った事は事実だ。俺は保谷さんと対立する事になるから、みっちゃんには、ある程度の覚悟を決めて欲しい」



ある程度? ふざけるな。ある程度の覚悟で済むわけがない。そして、その覚悟はもう既に試されてると、こいつは分かってないのだろうか。俺は深く息を吸い、深く吐く。



「アキ、俺はな、保谷さんに踊らされていたとしても恩は感じてる。この5年間、お前と生活出来た事が何よりの救いだった。お前と生活を送れたのも、保谷さんが花柳組と話をつけてくれたからだろ。例え、あの人が俺を苦しめる為に生かしてるのだとしても、俺にとっては、お前との時間をくれた感謝が大きい。…あの人が俺に対して復讐したいと考えるなら、俺はそれを、受け入れるしかないのかもしれない、そう思うほどにはな。だからあの人が俺に優しく微笑みかけ、待遇を良くする度に怖くなってた。反対に、あの人が俺に冷たい欲望をぶつける時だけは、こうあるべきだと安堵していた。……だから、俺に保谷さんの命を奪う覚悟は、これからもない」



アキは俺の言葉を聞くと、沈黙を置いて、何かを考えている。数秒が経ち、こくりと頷いた。



「そう、か。…うん、分かってた。みっちゃんがあの人の事を心底慕っているのは。だから俺は、みっちゃんに何かしてほしいと望んでるわけじゃない。ただ俺に話してほしいなら、みっちゃんにはこっち側にくる覚悟を決めてほしいってだけ」



そう言葉を並べると、アキは首を軽く曲げて、口の端に笑みを浮かべた。



「みっちゃんは、覚悟がないのに俺に話せだなんて、言わないよな?」



アキの瞳がやけに冷淡に見えて、途端に鼓動が速くなる。ゾッと悪寒を感じていた。まるで、俺はお前と敵対する覚悟がある、そう言われた気がしたのだ。


たじろいでいた俺に、佐野組長は間を割って入るように口を開いた。



「藤君、本当は既に、原と保谷組長を天秤にかけたんだろ。だとしたら答えは出てるはずだけど、違う?」 



天秤にかけるまでもなかった。それでも俺は、保谷さんを殺せない。佐野組長の言葉に、アキは眉を寄せて俺を見つめる。



「どういう事…?」



俺はアキを見ずに、佐野組長に視線を向けたまま答えた。



「俺は、保谷さんの命令に従う事は絶対にありません。佐野組長は、保谷さんが俺に何を命じたのか、既に分かっていますね。だから俺は保谷さんに反旗を翻すつもりです。でも、保谷さんを殺す事は、できません」



固い決意を口に出すと、佐野組長は「だってさ」とアキへ視線を移した。あまりに無感情で、無表情だ。



「仕方ないよね?」



問われたアキは、「……そっか」とぽつりと言葉を漏らし、視線を落として数秒、顔を上げた。



「みっちゃん、保谷さんに、俺を殺せって言われたんだね?」



佐野組長との会話からそう推察できたろう。



「あぁ」



肯定すると、アキはぐっと拳を握った後で、何かを考えるようだった。自分の中で自問自答を繰り返しているのだろう、少しして拳はゆるりと解かれた。



「俺は俺の成すべき事をしなきゃならない。俺は保谷さんを潰すよ。それは俺自身の為に」



恐ろしいほどアキの目が真剣で、殺意に満ちている。ここまでアキを駆り立たせるほどの動機とは一体何だろうか。アキは、俺が保谷さんを殺せると明言しない限り言わないつもりだろうが、アキが裏切りを決意して、殺意を抱く事って…。



「お前も保谷さんに何か…」



命令されたのか、そう聞こうとすると、「藤君、」と佐野組長が再び割って入った。



「ひとつ、聞いてほしい事がある」



佐野組長は立ち上がると、複雑そうに顔を顰めるアキの横を通り過ぎ、ソファに腰を下ろした。



「お前達も立ってないで座りなよ」



まぁ、アキを問い詰めたところで、きっと答えは変わらないか。そう考えてアキへの質問をやめて、そのまま佐野組長の対面に腰を下ろした。


聞いてほしい事、とは何だろう。眉を顰めてアキと視線を合わせるが、アキも分かっていないらしい。二人揃って頭に疑問符を並べていた。



「たぶん、藤君も一番疑問に思ってる事。さっきの話しの続き」



「何、ですか…」



「藤君さ、さっき疑問視してたろう。俺が保谷組長の思惑を伝えた時、そんなわけがないって。自分の大切な組を俺に渡すなんて、ってさ」



「はい。保谷組長が自分の組を、殺したいとまで思う相手に渡すか、と…。だから佐野組長が仰る事に、疑問を感じていました」



「うーん。ね、その疑問、もう少し詳しく教えてくれない?」



「はい…。保谷組長が大切な龍稜組を復讐の対象に渡す、という行為がおかしいと思ったんです。佐野組長は俺を追い詰める為、と言いましたが、それは保谷組長自身にも影響がある事です。確かにそうする事で俺はまわりから反発を買い、恨みを買い、もしかしたら保谷組長は自分の手を汚さずに俺を葬り去れると考えて、その手段を取った、とも言えますが、リスクが高い。そのせいで龍稜組は崩壊するかもしれませんので」



「崩壊しても良いと思うほど、自分の手を汚さず、お前に復讐したい、と考えてんじゃないかなぁ、…と最初は思ってたんだけど。でも、手を汚したくないなら、どこかの殺し屋にでも頼めば良い話だし、それに、お前を5年前救ってなければ、勝手に花柳組の連中がお前を殺してたろ? だから改めて考えているとね、疑問が湧くねぇ」



何を言いたいのか、何を思っているのか。佐野組長はしばらく何も言わなかった。数分だろう、佐野組長は「こう仮定しよう」と背もたれから背を離し、身を乗り出す。



「そもそも保谷組長は龍稜組を滅ぼしたいと考えていたら。龍稜組自体を嫌い、恨みの対象としていたら」



「…え…… 龍稜組が恨みの対象、ですか?」



あまりにも予想していなかった言葉に、真の抜けた声が出てしまった。



「どういう事っすか」



アキは難しそうに眉の皺を更に深く刻むが、それは俺も同じだった。



「そもそも俺はね、昔から保谷組長には目をつけていたんだ。最初からあの男には、腹の底に冷たいような、妙なものを感じていた。だからこそ、良い距離感ってのを保ってきて、監視するように行動を見てはいた。…で、ここからが本題。昔ね、あの人、何度か組を抜けて、別の組に行こうとした事があったんだ。先代に何度も組を抜けさてほしいと相談したらしいけど、先代は保谷組長を手放さなかった。だからもし、保谷組長の移動したかった組が菊島さんの組だったら、どうだろう。昔、菊島さんがいる組と龍稜組は敵対にあってね、そうなると、先代は断固として拒否するだろうよ。ま、そりゃそうだよね? 組抜けて、敵組織に行く事が明白だったなら、殴ってでも、縛り付けてでも、止めるのが当然だ。だって戦争になるもの。その結果、保谷組長は組に留まる事になる、と」



「待って下さい、それが龍稜組への恨みに繋がったと? いくらなんでもそれは…」



「変だろうか」



「保谷さんは組に留まり、先代が亡くなった後、組長になってます。そこまで恨むのなら、解散すれば良かった。それに先代だって保谷さんを評価してたんでしょう。だから…」



「詳細は分からないし、これは憶測でしかない。でも歴史ある龍稜組の解散って難しいんじゃないかなぁ。それにもっと他に何か思うべき事があったのかもしれない。組に留まり、組長の座を得る事で、何か目的を果たそうとしたのか。そして組に留まる事が、龍稜組に対しての恨みではないなら、何が恨みとなったのか。でも結果として、保谷組長は先代の跡を継いでる。…うーん。龍稜組に対して壊れても良いと思ってる節がある、ってのは確かだと思うんだけどね、釈然とはしないか」



「はい…。やはり先代に組抜けを断られたから、ってのが恨む理由だとは考えにくい、かと」



「何か理由があった、って事なんだろうなぁ。でもまぁ、理由なんて探りようがないかもしれない。ひとまず、龍稜組に恨みを持っているからこそ、お前に跡を継がせて、崩壊しても良いと思ってる、これが俺としては一番しっくりくるわけだ。だから、あの人はお前を必ず跡目に指名する。お前を指名する事で、望月さんと対立させる。そして組が割れて、ごたつく事を見越してる。あの人ならそう考えるはずだよ。俺の考えは近からずとも、遠からずってところだと思うな」



保谷さんが望むのは俺の苦しみだ。唇を噛み締めると、佐野組長は淡々と吐き捨てる。



「そうやってお前を追い込み、首を絞めて、嬉しそうに笑ってんのが、お前の親だよ」



あまりにも酷な現実だった。自分が命を捧げようとした恩人が、ずっと長年、怒りと恨みを溜め込んでいた。それを受け入れろ、という方が無理があるのではないか。



「藤君。保谷組長はお前が思う以上に計算高く、傲慢で、冷酷だ。そんな男が次期本家会長だなんて、いよいよ止めなきゃならない。だから俺は動いてるの。お前は原の為に保谷組長に反旗を翻すんだろ? だったら、どう? こっち側に来ないかい」



佐野組長の優しい声色は不気味すぎるほどだった。



「殺すことは、俺には出来ません…」



改めて口に出すと、佐野組長はふっと笑って背もたれに寄りかかる。



「まぁ、本音を言えば、俺としては命まで取らなくても良いけどサ。原がそれを良しとしないから」



佐野組長がアキへと視線をくばると、アキは真剣な眼差しを俺に向けた。



「あの人は、殺さなきゃならない。組織から追い出すだけじゃ、あの人はまた戻って来る。…だから俺は俺のやるべき事を、やらなきゃならないの。俺の意思は変わらないよ」



その言葉に何も返せなかった。俺はぐっと拳を作ると、佐野組長に訴える。



「佐野組長、俺に、…時間をくれませんか」



「今の状況が、どれほど危険か分かってる? 先手を打たれてしまえば、お終いになるかもしれないんだよ」



「分かってます」



意思を固く頷くと、佐野組長は興味なさそうに答える。



「あ、そう。あまり悠長にはできないよ」



「はい。……正直、俺は、今すぐアキを連れてこの街から出てしまいたい。一緒に逃げ出したい。そうすれば、何もかも解決になるような気がするんです。……でも、アキ、お前はそうじゃねぇんだよな?」



アキはこくりと頷いた。



「うん、俺は、決着をつけなければならないから」



決着、その言葉が放つ異様な緊張感を、俺は飲み込んで、分かったと頷く。



「佐野組長、3日間だけ俺に下さい。きっちりと結論を出します」



「3日、ね。…分かった。良い返事を期待してるよ」



佐野組長の言葉を聞いた後、アキはそっと俺の袖口を掴んだ。



「みっちゃん、危険な事はしないでよ…」



「危険な事、か。……それはお前もだろうが」



「俺にとって最も重要なのは、みっちゃんが生きる事。俺の側でいつまでも笑ってる事。…ごめんね、みっちゃん」



ごめんね。…こいつは何を思って謝ったのだろう。


それ以上、何も言うつもりがないだろうアキの苦しそうな表情に、喉が絞まるような感覚を覚える。アキの覚悟はもう揺るがないだろうし、もう後には引けない。


俺は深呼吸をした。



「…今日も、ちゃんと帰って来いよ。また、後でな」



アキから離れると佐野組長に一礼をして、俺はその場を後にした。

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