エージェント契約

「貴方のご両親は、多額の借金を残されて蒸発されました」

――声は淡く、記録的な無味さで届いた。

「……」

 息をしていることだけが、やけに重く感じられる。

「ですのでその借金の肩代わりとして、貴方には怪人と戦ってもらいます。その命を代償として」

 ペンが渡される。机の上でインクの光が微かに揺れた。

「この契約書にサインを」

 指先が震えるのを無視してペンを取った。契約書はどこまでが事実で、どこからが忠告なのか、境目が曖昧だった。……もしかしたら、忠告なんてなかったかもしれない。

「この契約書は、貴方が己の生死を問わず怪人と戦うということを示す契約書です」

「サインをしないと、どうなるんですか」

「死にます」

 言葉はあまりにも平坦で、山のように重かった。耳の奥に冷たいものが這い上がる。

「……え?」

「貴方はこれから、この契約書に書かれた通りの戦いをしてもらいます。そして、もしも負けた場合も死ぬのです」

 死、という単語が、部屋の空気を硬くする。

 両親の顔が浮かんだが、そこに慰めはない。怒りや抗議を口にする前に、自分の選択肢の薄さを知る。断れば何が来るか分からない。断らなければ、こちらから死に向かって歩くことになる。どちらも『望む』ものではなかった。

「その戦いって、どんな戦いですか」

「戦えば分かります」

 説明ではなく、ただの事務的な通告。そんなめちゃくちゃさを胸に収めながら、俺はペンを走らせた。拙い字が、いつもよりも一層頼りなかった。ため息は出なかった。ただ、指先が乾いていくのを感じた。

「では、戦いに必要な装備に一瞬で変身するための処置を行うので……奥にどうぞ」

「変身するための装備?」

「アニマライズスーツ……平たく言えば、そうですね」

 奥の部屋へ案内されると、白衣が整列していて、機械の匂いと消毒の匂いが混じっていた。手術台は思ったより冷たく、表面が自分の体温を奪っていく。断る手段が自分から消えたことを、肌で知った。

「どうぞ、手術台へ」

 一瞬、躊躇した。だが胸のどこかに、違う恐れがある。生かされるために使われる恐れ。死ぬより先に消耗していく恐れ。

 立ち上がる力は残っていたが、声にして抗う理由は見当たらなかった。ため息をつく代わりに、俺は手術台に仰向けになった。

「すぐに終わりますからね」

 意識が、ゆっくりと薄れていった。


 ○


「終わりましたよ」

 声で意識が戻る。ゆっくりと目を開け、体を撫でる。違和感は大きくない。だが、口の中に固い違和感が残っていた。金属と歯茎の間に、確かな異物感。

「奥歯に変身装置をつけています。強く噛みちぎるようにすると、アニマライズスーツに変身出来ますよ。ただ」

 低く続く言葉に、背筋がひんやりした。事務の女は、冷たく言った。

「変身するたびに、その時間が長ければ長いほど、貴方の命は削れていきます。それは仕方のないことです」

 説明口調だ。慈悲も同情もない。ただ、前提を並べるだけの口調。恐ろしさはそこにあった。

「……怖いこと言うんですね」

「事実ですから」

 手術室はいつの間にか、俺だけの空間になっていた。静寂が重たい。怖かった。だが、怖さは決意の輪郭を濃くする。どうせこれから、この装備で戦うのだ。選べる道は少なかった。

 指が奥歯に触れる。ぎこちなく、確かめるように。口の中で金属の輪郭を噛みしめる感触が、心臓の音を押し返す。


 ガリッ。


 歯に圧が走り、世界が刃物のように切り替わった。皮膚の感覚が収束して、薄い鎧が肌と一体になる。装甲は硬く、だが自然に馴染む。守られているのか、包まれているのか。わからない。胸の奥で、小さな恐怖が確信へと変わる。

――これは代償だ。

 装着感と同時に、どこかで確かに針で刺されたように「減っていく」感覚があった。未来の時間が少しずつ削られていくような、乾いた痛み。思考がそれを数える余裕はなかった。拳を握りしめると、指先に力が集まる。

「やってやる」

声は小さかった。だが、震えと一緒に言い切った。静かな決意はここにある。敵の輪郭はまだ見えない。けれど、これが俺の戦いの始まりだと、体が知っていた。

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