43.空中ブランコ 後編
それからの数日間、サーカスはバタバタと忙しそうでした。
いつもとちがう、さわがしさです。
大男も来ません。
空中で過ごす娘には、事情がわかりません。
何日目かの夕方、大男がやってきました。いつもとちがい、人目を気にしているような、急いでいるような様子です。
「ないしょ話だ。耳をかしてくれ」
と言って、糸電話を投げました。娘が耳に当てると、これまでよりずっと近くで、大男の声が聞こえました。
「ハナハナは、いなくなっていない。ずっと、このサーカスにいたんだ。明日、本当にいなくなってしまう。今日なら会える。会いに行くか?」
糸電話から、いつもより低くてゆっくりな声がつづきます。
前にハナハナの話を聞いたとき、だまっていてすまなかった。もしやと思ったが、たしかじゃなかったんだ。たしかめてから、話そうと思っていた。これから本当のことを話すから、聞いてくれ。
年を取って芸ができなくなったハナハナを、団長は動物園にあずけたと言ったそうだが、それはうそなんだ。
芸ができなくても、ゾウは金になる。めずらしい動物だから、見たい人がたくさんいる。だから、見せ物にされていたんだ。
きみは知らないが、このテントのうらには、金属のオリがならんでいる。そこに、年老いた動物たちがとじこめられているんだ。
おれがいたサーカスから引き取った動物たちと、ずっとこのサーカスにいたゾウ――ハナハナだ。
じつは、ずっと団長に言っていたんだ。こんなことはやめてくれと。おれの力不足で、説得することはできなかったが……
とうとう、動物保護団体のレンジャーが、そのことを知った。調査が入って、新聞に載り、国中から批判を受けてる。いま、うちがたいへんなのは、そういうことだ。もちろん、悪いのはおれたちで、当然の報いだ。
その結果、動物たちを自然に帰すことになったんだ。レンジャーたちがむかえに来て、移送をしてくれる。
ハナハナは、ずっとサーカスで生きてきたゾウで、いきなり本当の自然には帰れない。しばらくは、レンジャーの管理する自然保護区で暮らすらしい。場所は、アフリカだ。
自然に帰れるのはいいことだが、ハナハナが輸送されたら、きみは会えなくなってしまう。輸送は明日だ。会いに行くなら、今しかない。
娘はひどくおどろき、とまどいました。
「……ど、どうしたら、いいの」
「会いたいか、会いたくないかだけ考えればいい」
「会いたい」
「じゃあ、会いに行こう。ハナハナは、おれとおなじで重い。空中には来られないぞ。きみが会いに行くんだ」
娘はなわばしごを見ました。体中が勝手にふるえます。
「こ、こわいわ」
「飛び下りちまえ。大丈夫。おれが受け止めるから」
大男は、うでを大きく広げました。娘は目を丸くします。
「つ、つぶしちゃう」
大男は大きな口で笑い、ジャグリングの手ぶりをしました。
「きみより何倍も重い岩を受け止めてるんだ。そこから何回も見ただろう」
娘は、目をとじてハナハナのことを思い出し……エイヤッと飛び下りました。
大男が、太いうでと大きな手で、しっかりと受け止めました。
娘は目をあけて、ぱちくりして――
「……な、ないすきゃっち」
「ははっ、きみこそナイスジャンプだ!」
そっと地面に下ろされ、息をのんで、地に足をつけます。
はじめはつま先だけ。そして、とんとんと足ぶみ。
「ゆ、ゆれないわ!」
「ゆれてたまるかい。こわくないだろう?」
「うん。ハナハナのところへ行ける」
「よしきた。こっちだ」
娘は、自分の足で土を踏みしめて、歩いていきました。
ふたりは、大テントの裏にやって来ました。
テントのかげに、いくつかのオリがならんでいます。
ゾウ1匹がやっと入るほどの、小さく、冷たい、鉄のオリ。
床には、1枚の毛布と、水皿だけ。
その中に、ハナハナは横たわっていました。
ひどくやせて、はだがカサカサにかわいています。
老いのためだけではなく、環境が悪いことは明らかでした。
ハナハナがステージに立たなくなってからの数年間、一度も外に出ることなく、ここに閉じこめられていたのです。
ハナハナを見て、娘はかけよりました。
「ハナハナ! ごめんなさい。ごめんなさい。こんな、こんなに、ぼろぼろになって……」
涙がぼとぼとこぼれます。
ハナハナのはなが持ち上がり、娘の頭にポンとふれました。
「わたしがわかるの?」
すると、あのころのように、せなかを優しくさすります。
「ハナハナ……! ごめん。ごめんなさい。こんなに近くにいたのに。勇気を出せば、助けられたかもしれないのに。わたしがなにもしなかったから、あなたをひどいめにあわせてしまった。こんなにせまくて冷たいところで、かたい床の上で、何年間も……」
ハナハナは、泣きじゃくる娘を見つめました。そのまなざしは、すべてをわかって、すべてをゆるしているように、おだやかでした。そんなわけない、と娘が首をふっても、温かいはなが、せなかをなでつづけるのでした。
「ハナハナ。ハナハナ。ごめん、ごめんなさい……」
娘はぎゅっと顔をうずめて、泣きつづけました。まるで、子どもにもどったように。
ハナハナのはだから、じんわりと温かさがしみて、いつしか涙がおさまりました。
すると、大男の声がしました。
「ハナハナ、ハンカチをその子にわたしてくれ。おれのうでじゃ、オリにつっかえちまう」
ハナハナは、はなをのばして、大男からハンカチを受けとりました。なれた様子です。ぐしゃぐしゃの娘の顔をふき、チーンとはなをかませてくれました。
娘は、ぽかんと大男にふり向きました。
「あなた、ハナハナとも友だちなの?」
「まあね。でも名前は知らなかったんだ」
このサーカスに来て、しばらくしてから、こいつらを見つけたんだ。
おれは、オリに閉じこめられているのが、見ていられなくてな。なんとかしようとしたんだ。
団長の説得はうまくいかなかったが、少しでもこいつらの環境をよくしたかった。
空き時間に掃除をしたり、体を洗ったりした。水と食べ物を替えて……その毛布はおれが入れたんだ。たいしたことはできなかったけどな。そのうちに仲良くなったんだ。
「どうして、そんなに親切にしてくれたの?」
「親切ってわけじゃないがね。自分が見ていたくなかっただけさ」
大男は、気まずそうに、少し口をゆがめながら語りました。
おれは……前のサーカスでは、オリに閉じこめられていたんだ。赤んぼうのころから、このサーカスに来るまで……
このぶかっこうなうでは、母親ゆずりでね。母親は、サーカスのオリに入れられて、見せ物にされていたんだ。おれが生まれたのは、そのオリの中だ。それからはおんなじさ。化け物として、オリの中で育った。
見せ物にされ、人々にさげすまれ、笑われていた。それを思い出しちまうから、人間だろうが動物だろうが、閉じこめられているのがいやなんだ。
娘は、まだ涙にぬれたひとみで、大男のうでを見つめました。
「あなたのうでは、みんなの荷物を運べるし、わたしを受け止めてくれた。すてきなうでだわ」
大男は、泣くのをこらえるような、笑うのをがまんするような顔をしました。それから、大きな手で顔をおおいました。
その夜、娘は、ハナハナといっしょに眠りました。
ハナハナの温かいおなかに丸まって、眠りました。
よく朝、様子を見に来た大男に、娘はきっぱりと言いました。
「わたし、もうハナハナとはなれない。ハナハナといっしょに行く」
目を丸くした大男に、つづけます。
「わたし、ハナハナのこれからの人生、ずっといっしょにいたい。子どものころ、たくさんお世話をしてもらったから、今度はわたしがする。このサーカスでつらい思いをさせたぶん、うんと幸せにしたいの」
「いっしょにはいられないかもしれないぜ。自然に帰すんだから」
「それでいい。それがハナハナの幸せなら。わたしは遠くから、幸せのお手伝いがしたい。レンジャーの人たちは、そういう仕事をしているんでしょう。わたしも、その仕事がしたい。ハナハナといっしょに、レンジャーの人たちについていく。それで、仕事を教えてもらう。いっぱい勉強して、ハナハナや、ほかのゾウや動物たちを助けられる人になる」
「サーカスはどうするんだい。このスキャンダルで、ほかの芸人もぬけている。そこへ、看板芸人の空中ブランコ乗りがいなくなったら、大ダメージだぜ」
「あなたがいるから、大丈夫。あなたは残るんでしょう?」
娘は、まっすぐに大男を見つめました。
見ぬかれた照れで、口元がゆるみます。
「まあな。ハナハナたちには悪いことをしてしまったが、おれはこのサーカスが好きなんだ。前のところでは、おれは怪物あつかいで、見せ物だ。だがここでは、芸を見せて、人々を笑わせることを教えてくれた。笑われるんじゃない、おれが笑わせているんだ。そのために、おれの得意なことをいっしょに考えて、芸の練習につき合ってくれた。芸だけじゃない、読み書きまで教えてくれたんだ。まいばん教えてくれたおかげで、看板の自分の名前を読めるようになった。団長は、ハナハナたちにひどいことをしてしまったが、それは団員たちの生活をよくしようと思ってのことなんだ。そういう優しい人だから、きっとやり直せる。もっといいサーカスに変わっていけるよ。おれがとなりで手伝うから」
そこへ、動物保護団体のレンジャーたちがやってきました。
娘は、いっしょに行かせてくださいと頭を下げました。
はじめはことわられましたが、大男もいっしょに説明して、頭を下げたので、見習いとしてやとってもらえることになりました。
ただし、とリーダーが言いました。
「われわれは、やとって、仕事を教えるだけですよ。アフリカに行ったあと、住むところや食べ物を、自分で用意できますか?」
「大丈夫です! 少し待っていてください」
と、娘はテントにかけもどりました。
するすると金属のポールをのぼり、暮らしていた足場にもぐります。ごそごそしたあと、大きな布袋をかかえて出てきました。
今度はためらいなく、大男のうでに飛び下りました。
「おい、ずいぶん重いぞ」
「これ、今までのお給金、ぜんぶなの。ずっと空の上にいて、どこにもあそびに行かなかったから。これだけあれば、部屋をかりて、一人暮らしができるでしょう?」
布袋の口をゆるめると、大量の銀貨。大男は目をチカチカさせて、うなずきました。
「お料理はしたことないけど、練習するわ。あとは……団長に、あいさつしなきゃ」
そうつぶやいたとき、テントに人影がゆれました。
それは、連日の騒動で、やつれてふらふらになった団長でした。
娘はゆっくりと歩みより、別れを告げました。
かかとをクロスして、少しぎこちないおじぎ。
歩き出そうとすると、団長が追いすがりました。
「行かないでくれ! ……娘よ」
「パパではなく、団長とよばせたのは、あなた、です。わたしは、わたしがやりたいことを、見つけた、の。これからは、わたしのために、生きるの」
そして、くずれおちる団長をかえりみず、歩き去りました。
テントを出てから立ち止まり、追いかけてきた大男にふり返りました。
「パパをよろしくね」
「おう、まかせろ。きみ、いいレンジャーになれよ」
「あなたはきっと、いいサーカス団長になるわ。そうなったら、動物たちをいじめるのはやめてね」
「もちろんだ。自分たちの芸で観客を楽しませる。そういうサーカスを広めるさ」
「あなたも、わたしの一番のお友だちよ」
「ははっ。おたがいがんばろうぜ」
大男はスイカのように大きいこぶしをつき出しました。娘は、そこに小さなこぶしを合わせたのでした。
数年後。
サーカスは危機を乗りこえ、経営が落ち着いてきています。
副団長となった大男は、朝刊を読んでいました。
毎朝、コーヒーを飲みながら、サーカスの発展に役立ちそうな記事を探すのが日課なのです。
すると、「自然保護区の獣医、奮闘」という見出しが目に入りました。
それは、密猟や山火事によってケガをした動物たちを治療し、何頭もの命を救っている、若い女性獣医の記事でした。
ふしぎと動物に好かれ、入院中のゾウになつかれて、背中に乗せてもらえることもあるといいます。
白黒写真には、ゾウの背に乗り、
日に焼けて、たくましくなり、見たことのないほど大きく笑っていますが、おもかげがあります。彼女です。
思わず口元がゆるみました。
「ふふ、なんだい。けっきょく、ゾウの背中――高いところでゆられているんじゃないか」
「ここは広くて落っこちないもの」と、彼女の声が聞こえた気がしました。
おしまい。
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