30.のら犬とかちこちのパン

 ある公園のすみっこに、のら犬がうずくまっていました。

 ここが、のら犬のねどこでした。集めた紙くずが、ふとんの代わりです。

 のら犬は、やせて、毛並みはぼろぼろでした。

 朝から食べ物を探し、夕方になるとねどこに帰ります。でも、たいしたものは見つけられず、いつもはらぺこでした。

 いつも、「さむいなあ」「はらがへったなあ」と思っていました。


 ある夕暮れ、のら犬の前に若い男がやってきて、黒パンをおきました。今まで見たことのない人間です。くだものと、インクと、酒場のにおいがしました。

「きみもはらをすかしてそうだね。ぼくもはらぺこさ。はらぺこ同士、仲良くしよう」

 人間が去ってから、パンをよく見ました。パンくずやかじりかけでない、いっこ丸々の黒パンでした。

 のら犬は、とてもとてもうれしくなりました。

 全部食べたかったけれど、明日からのことを考えて、ひとくちだけかじって、がまんしました。

 ――はらぺこだけど、まだ死ぬほどじゃない。明日、食べ物にありつけなければ、これを食べよう。

 残りは、紙くずの下にしまっておきました。


 けれど、残した黒パンの出番は来ませんでした。

 次の日も、あの男が来て、黒パンをおいていったからです。

「ぼくは、さいきんこの町に来たんだ。まだ友だちがいないんだ。きみと話ができてうれしいよ」

 2回も食べ物をくれる人間は、はじめてでした。こうして語りかける人間も。

 のら犬はその黒パンも、ひとくちかじって、紙くずの下に入れました。


 男は、まいにちか1日おきにやってきて、パンをおき、少し話し、どこかへ行きました。

 あるときには、

「ぼくはかけだしのピアノきなんだ。まだ売れてないけどね。でも、いつかりっぱなピアノ弾きになりたいんだ」

と言いました。次のときには、

「いつもこの公園を通るのは、仕事に行くための近道なのさ。小さな酒場の演奏だけど、ピアノの仕事ができるだけでありがたいよ」

と言いました。その次のときには、

「昼間は工場ではたらいているんだ。フルーツの缶詰を作っているんだよ。本当は指を大切にしないといけないけど……まだ、ピアノだけじゃ食べていけないからね」

と言いました。

 残しておいた黒パンたちは、数日たつと、かちこちになっていました。

 それでも、のら犬は取っておきました。

 ――かたくても、食べられないわけじゃない。この人間が来なくなったときに、食べるんだ。

 少しごろごろするねどこで、そう思いました。


 あるきりの日、ピアノ弾きは、黒パンをおいてこう言いました。

「ねえ、犬くん。きみはのら犬なんだろう。よかったら、ぼくのうちにおいでよ」

 のら犬は、ついていきませんでした。

 ピアノ弾きのうちが、いいところかどうか、わからないからです。それに、ねどこの下にためた、かちこちのパンを手放すのがおしかったのです。


 それからときどき、ピアノ弾きはおなじことを言いました。

 のら犬は、ねどこから動きませんでした。

 ピアノ弾きは、

「そうかい。気が向いたら、いつでも来ておくれよ」

と、そっとのら犬をなでました。


 食べ残しの黒パンは、どんどんふえていきます。

 ある日、ピアノ弾きは、白パンをくれました。

「今日は給料日でね。たまには、ふんぱつさ。きみにもおすそわけだ」

 のら犬は、白パンを食べるのは、はじめてでした。

 遠くからにおいをかいで、あこがれていた白パンが、目の前におかれています。

 丸くて、やわらかそうで、とてもいいにおいです。

 のら犬は、うれしくて、もったいなくて、ひとくちしか食べられませんでした。

 全部食べたら、なくなってしまいます。明日も、そのまた明日も食べようと思ったのです。

 けれど次の日も、もったいなくて、食べられませんでした。やがて白パンも、かちこちになってしまいました。

 冷たく、かたく、小ちゃくなりました。

 それでも、それを見ると、白パンをもらったときのうれしい気持ちを思い出しました。

 のら犬は、白くなくなった白パンも、ずっと取っておきました。


 ねどこの下が、かちこちのパンでいっぱいになったころ、ピアノ弾きがまた言いました。

「犬くん。冬がはじまるよ。うちに来ないかい」

 のら犬は、のそりと起き上がって、ついていきました。

 きっといいところだと思ったからです。それに、石ころのようなパンたちをおいていっても、もうおしくありませんでした。


 ピアノ弾きのうちは、ぼろアパートのすみっこでした。せまくてほこりっぽいけれど、あたたかくて、いいにおいがしました。

 ふかふかの毛布が、犬のねどこになりました。

 その夜のごはんは、黒パンだけでなく、ミルクやチーズもありました。

 犬は勇気を出して、全て平らげました。それはおそろしいことでした。だって、明日から何ももらえなかったら、ひもじくなってしまいます。

 でも、この人間は明日もくれるとわかっていたから、食べることができました。

 ピアノ弾きは、目を細くして、ながめていました。口のはしも上げています。

 犬は「なんだかうれしそうだ。うれしいとき、ぼくらはしっぽをふるが、人間はこの顔をするのかな」と思いました。


 ピアノ弾きは、昼も夜もはたらきに出かけ、うちではピアノの練習をしています。羽ペンとインクで、楽譜がくふを書いていることもあります。

 その中で、まいにち犬に話しかけ、食べ物をくれました。

 犬は、お返しをしなければと思いました。

 ――そうしなければ、明日にでも、追い出されてしまうかもしれない。

 でも、犬は何も持っていません。料理や洗たくのやり方も、ピアノのこともわかりません。

 そこで、ピアノ弾きがくれる食べ物を食べずに、彼にあげようと思いました。


 その夜のごはんは、ステーキでした。

 ピアノ弾きと犬に、うすい牛肉が1枚ずつ。

「犬くん、聞いておくれ! 今日はお祝いだ。大きい仕事が決まったんだ。高級レストランのピアノ演奏さ……グランドピアノが弾ける! その仕事をしたら、ぶあついステーキが食えるよ。これは前祝いさ!」

 犬は、ステーキを目の前にするのは、はじめてでした。

 よだれが出たけれど、がまんして、はなの先で皿をおしました。

 ピアノ弾きの前に、ステーキを返します。

 ピアノ弾きは、

「どうしたんだい。食べたくないのかい?」

と言って、まゆげを下げました。

 犬は「あの、うれしいときの顔をしないぞ。2枚も肉を食べられるのに。おかしいな」と思いました。

 とつぜん、犬のおなかが鳴りました。よだれはがまんできても、おなかの音をがまんすることはできません。

「なんだ、はらがへっているんじゃないか。やわらかい肉だよ。さあ、お食べ」

 ピアノ弾きは、いちだんと目を細めました。

 ふたたび差し出されると、がまんができず、犬はステーキにかみつきました。

 犬ががつがつと食べるのを、ピアノ弾きは、いつもの顔でながめていました。平らげると、犬をそっとなでました。

 そのとき、犬は思いました。

 ――ぼくが、出された食べ物を食べて、うれしくなると、彼もうれしくなるらしい。

 それがなぜかは、犬にはわかりません。

 考えようとしたけれど、まんぷくで、あたたかいねどこにいると、ねむたくなりました。犬は、むにゃむにゃとねむりにつきました。


 おしまい。

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