桜坂 ~幕間~ デッドゾーンの橋を渡って
「庁舎よりも向こう側になるので往復40分程度かかりますが大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
軍師の仕事が終わるのは閉庁と同じ17時だった。よく考えたことがあるわけではないけれど、銀行は15時までだから銀行員さんの仕事は15時までなのだと漠然と思っていた。そのことを道中で由樹さんに打ち明けた。でも考えてみたら、その日に発生した手続きの処理をしなくちゃならないよね。
「ああ、だから
「役所もそうですか?」
「僕のいる時代だと窓口関係は余裕を持って早めに受付を締切ることが増えました」
この時代ではそうでもなかったようだ。閉庁も受付終了も17時、きっちりシャッターを下ろす。会社帰りにギリギリで来庁した人と早く帰りたい職員との攻防戦だ。
[せっかく駆け込んだのに追い返そうとしやがる]
[余裕もって行かない奴が悪い]
[公務員は定時で帰れるって言われてたよな]
[駆け込むのが悪い]
[閉庁と受付終わる時間が一緒なのが問題]
[マ?]
[朝一で行って遅れて会社いけばよくね?]
[ゆとりか?]
[一時間早く帰るとかyo]
[おいマジか]
[出た]
[時間休なんてできたのは最近だぞ]
[地球の誕生から現在までを一日で例えると?]
由樹さんは
「原戸籍っていうのが平成9年くらいまでは一階で印刷したものを二階の発行する部署に風圧で送ってたって聞いてて、パーンッって下から、シュルンって。それを見れたのが凄く嬉しかったんです!」
なんで平成9年かというと、その年に入職した上司にそう聞いたかららしい。AIに聞いたとかじゃないんだ?彼の珍しく興奮気味に話す内容がちょっと何言ってるかわからないけど、嬉しいのはいいことだ。今日の由樹さんは顔色もよく生き生きしている。足取りも軽い。
庁舎と市民駐車場を横切った先に川原が見えてきた。川は遠目から意識していたよりも大きく横たわっていて果てしない。いざ渡る距離まで近づくと向こう岸はずっと遠くに見えた。土手には木製のベンチが幾つか置かれていて、僕たちはそこで煙を吸ったり吐いたりした。
河川敷の広大な緑色は秋が深まる頃に黄色へと変身し花粉症を患う者にとってデッドゾーンになるらしい。その時期には絶対に近寄らないようにしようと僕は心に決めるけれど、その頃には此処を訪れる理由はなくなっている。
***** ***** ***** ***
橋と道路を一つずつ渡ると、すぐに上り坂が現れた。車がすれ違えそうな幅があるのに路側帯もガードレールも設けられていない。右手は公園のようだった。木々が鬱蒼と生え散らかしている。
「ここを心の中で“桜坂”と呼んでいるんです。誰にも話したことは無いんですけど」
背の高い樹木が並ぶ坂道の途中で彼は言う。影を落とす並木には日除けの効果が期待できそうだ。
桜坂だなんてロマン溢れる優しい名前とは裏腹に、なかなかに急な勾配で二日酔い気味で食べ過ぎの僕には一歩一歩足を踏み出すのに力を要した。息が切れるし足が重い。でも消化している実感もある。歩き慣れているせいか由樹さんの足取りは軽快だった。思えば彼は昨夜早々に眠りについたため僕よりもアルコール摂取量は少ない。
やっとの思いで桜坂を上り切ると住宅街が広がっていて、ところどころに植えられた木の多くはやはり桜らしかった。2軒目の家では門の奥でおじさんが車を洗っている。夕飯の匂いが漂う道を進んだ。集合住宅は見当たらず一軒家ばかりだ。右折したその先で、一度通り過ぎた家の前を由樹さんが引き返した。
「―――――ここら辺のはずなんですが」
そのリアクションには身に覚えがある。過去へ来てから幾度となく僕も経験した虚しさだ。切れた息が整っていないので僕は頷いて返事をする。
「でも…ああ、航空写真で見た景色です。こっちへ来る直前に」
―――――改築予定の市民会館だかが載っていたという情報誌か。彼がそれを捲ったことには何か意味があるのだろうか。未来で由樹さんの住むアパートがある場所には、同じ形をした古い平屋が六軒並んでいた。お爺さんが庭先で革靴を磨いている。庭にこれでもかと花や木が植えられている家や、向かい合った形の籠型ブランコが設置された家もある。
「まだ面影もありません」
そう呟く横顔が寂しそうだった。僕はその寂しさが想像できる。でも、未来でまた見ることができるということも知っている。
「夏海さん、ありがとうございます。このような機会をいただいて」
「・・・そんなこと」
「私は部外者でありながら、小谷次長から島野さんに事情を話すことを許可してしまいましたが本当によかったのでしょうか?勝手なことをして」
「由樹さんは部外者ではありません。この件に関しては主導者ですから、僕が従います。頼りにしているんです」
これはマジで。マジ・リスペクト。
「由樹さんのおかげで話が進んでいます。僕一人だったら」
きっと何もできずに「あばばばば」とでも言うしかない。
「これからだって」
「なつ」
「やだぁっ」
「ひえっ」
ドォンッと大きな音―――声だったようだ―――がして大きな犬小屋から貫禄のある大きな犬が出てきた。優秀な番犬は僕たちを吠え始めた。声に反応して人が出てくるかもしれない、というか、その目的もあって吠えているのだろう。こっちを向いた庭先のお爺さんに愛想を振りまきながら僕と由樹さんは後ずさりして、そのまま立ち去った。完璧な不審者だ。
「夏海さん、こっちです」
「はい!」
来た道とは逆方向へ歩き出した由樹さんを速足で追いかける。しばらく歩くと住宅の切れ間に公園へ降りる階段が出現した。やっぱり草が鬱蒼と茂っていた。
***** ***** ***** ***
「夏海さんのおかげなんです。ありがとうございます」
「いいえ、僕は本当に何も――――――」
何だね一体、いきなり。照れるじゃないか。デッドゾーンの橋の中央付近で由樹さんは立ち止まった。チャイムの音がやけに大きく鳴り響く。令和なら近隣から不満が聞こえてきそうな大きさだった。その音が鳴り止んでから由樹さんは口を開いた。
「私がもしも未来へ戻ったら、きっと真っ先に夏海さんの住んでいるあの家を確認しに行くんだろうって考えていました」
風が吹き抜ける。枯れ葉こそ舞い散らないけれど、僕の知る九月にしては冷たい強い風だった。
「会いに行くと決めています」
「―――――お会いすることができたら嬉しいです」
でも、ちょっと照れてしまうんだと思う。その頃の僕はアラ還で、小谷次長や今まで出会った依頼人たちの多くと同じくらいの年になっている。由樹さんが再び歩き出した。しっかりと前を向いている。
僕は――――—自分はダメだな。僕が好きになったあの人は既に生まれているんだな、と思う。何気なく桜坂を振り返るけど、もちろん桜は咲いてなんかいなかった。
この時代は空気が澄んでいるのだろうか、それとも都会から離れているせいだろうか。夕方、紫の空。雲の隙間から覗く天使の梯子は、降りてきたのか、あるいは昇ったのだろうか。寺谷くんのくれた葉書を思い出している。あれは審判の天使だ。
タロットカードにもある大天使ガブリエルのラッパを図書館で見た。でも審判を下すのはミカエルだ。今後この知識が役に立つ日がくることはないだろう。
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