洗濯女
「月曜日は暇だから」と呼び出された店は、開店前だというのに慌ただしく動いていた。その割にギスギスした空気を不思議と感じることもなく、むしろ和気藹々といった雰囲気すらある。もっとも準備中の居酒屋を覗いたことなんて初めてだから、僕が知らないだけでこういうものなのかもしれない。もっと怒号が飛び交ったり殺伐としているイメージを持っていた。みんな包丁持ってて。
「こんにちは。どうされましたか?」
入り口で突っ立っていると、厨房にいた眼鏡の男性が僕に気が付いて声をかけてくれた。「こんにちは」と返事をすると隣にいる男性も一緒にカウンター席の前まで出て来てくれる。二人とも裸足に雪駄を履いて膝下まで裾を捲っている。どちらかが依頼主だろうかと考えるが35年前にはどちらとも幼いだろう。生まれてもいないかもしれない。
「お忙しい時間にすみません、仙田さんとお約束している者なんですが」
「・・チーフ?」
眼鏡の男性が言い淀んで傍らの男性と目を合わせる。見上げると言った方が良いだろうか。相手は驚くほど背が高い。その彼が答えてくれた。
「チーフは辞めたんですよ。先週いきなり」
「あ、」
店に来るようにと先方から連絡があったのは先週のことだ。五時に開店だから、それまでに話が終わるようにと時間の設定も曖昧だった。いきなりというところに若干の棘が含まれているのを否めない。嫌な予感がしてくる。
「店のことであれば私がお話しますが」
「ありがとうございます。よければ、そのチーフという方のことを少し聞かせてもらえますか?」
「―――わかりました。その辺に座ってください。ウーロン茶くれ、二つ」
背の高い男性が眼鏡の彼に声をかけた。ついでに仕込みの指示を出している。談笑し合うような和やかさがあったのが、もっと上下関係に厳しい世界だと思っていた為か意外に思える。カウンター席に座る。正面の棚に茶色の一升瓶がずらりと並べられていた。ガラス張りの冷蔵庫もあって中が見えるが、やはり一升瓶だ。こっちは緑色が多い。
「チーフについて、ですか」
服部さんと名乗った背の高い男性はため息交じりに呟いた。ウーロン茶はジョッキで飲むのが流行っているのだろうか。隣に座るとそれほど身長差を感じないのはどういうことだろう。
仙田さんは腕のいい板前さんでセンスも有り、オーナーがオープンに際して別の店から引き抜いてきた。ただ気性の面で問題があったようだ。それを聞いて僕は背筋を正して身構える。これから会おうという人物には品行方正とまではいわなくても穏やかで在って欲しい。
「金曜日の営業中にマジありえねえッスよ」
先週末オーナーと口喧嘩になって、営業中だというのに怒りに任せて帰ってしまってそれきりらしい。ここはこの沿線周辺では結構人気のある有名店のようだった。調べてみたところ、週末は少人数でも予約をしなければ入るのが難しいとある。
「会いたいなら給料日には顔出すと思いますよ、手渡しだから」
「はあ」
オーナーは連絡が取れているが復帰についてではなく、目下補償についての話し合いだそうだ。本人はクビになったと主張しているらしい。これはなかなかのモンスターなのではないか。
「大変だったんですね」
「まあね。忙しくはなったけど皆せいせいしてますよ」
仙田さんは少なくとも人気者というわけではなさそうだ。親しい仲だと思われてとばっちりを受けるのは避けたい本心から、自分で連絡を試みると伝えて僕は店を後にした。ひとまず駅に向かうことにする。ここからは歩道橋を昇る必要はあるものの、それを含めても五分とかからない距離だった。さすが人気店である、立地が良い。
駅を降りた場所にあるイベント広場から何度か仙田さんに電話をかけてみたが、すぐに留守番電話センターに切り替わる。もう三十分もすれば五時という時刻にもなると僕の方から電話をかけることはやめていた。店を辞めたから仙田さんももう僕に会う用事は無くなったかもしれない。しつこくしてはいけない。正直なところ会わずにこのまま済む方向にはなることを期待していた。
人の通りが多くなり始めている。五時前だからか制服を着た学生が多かった。大人は今のところ少ないが月曜日だから早く帰れるのか、月曜日だから遅くなってしまうのか、自分が働いていた時にはどっちだっただろう。
五時を過ぎたのを確認して、残念だが諦めて帰ろうかと立ち上がった時にメールの着信音が鳴った。こういう時の嫌な予感は当たると昔から相場は決まっている。
無情にも仙田さんからだった。
場所を変えたいから駅前まで来てほしいとのことだ。僕は仕方なくエスカレータに乗って指定された場所へ向かう。
「店辞めたっていうの忘れてた」
ヘラヘラと笑う仙田さんは非常に酒臭い。酔っているのは明らかで、ここまでくれば泥酔と言っても差し支えないだろう。
店に入るなり「二階に行ってる」と大欠伸をする彼を慌てて呼び止めた。
「何にしますか?」
「俺は水でいいよ」
「 」
アイスコーヒーを二つ注文して僕は会計を済ませる。持ち帰り用のカップにしてもらったから一つは持って出ればいい。水浸しになるとは思われるが、できればそうなる前に帰ろう。
二階へ上がるとガラス張りの喫煙スペースに仙田さんはいた。ガラスが酒の汗をかくのではないかと心配になるくらい酒臭い。
「あんた過去に行くんだろ?」
大きな声に喫煙スペースの外にいる客までが顔を上げて仙田さんを見る。そして「なんだ、酔っ払いか」とすぐに顔を逸らす。それが正解だ。絡まれでもしたら大変な思いをすることになる。仙田さんは一人で大笑いしながらストローに口を付けた。飲むんじゃないか、と僕は突っ込まない。
「君には出てった洗濯女を連れ戻してもらいたいんだよ」
「・・・何年前ですか?」
「十年くらい前だな。今はなんとか書士になったとかで稼いでるんだってよ」
洗濯女とは何ですか?という疑問が先に浮かんだが、数十秒後の自分の精神衛生状態を気遣って口には出さないでおく。話を極力広げずに一刻でも早くこの場を立ち去りたかった。
「急に出て行っちまったんだよ、俺の顔色ばっかり見てたくせになんでかなあ」
そういうところだろ。
仙田さんが妙な発言をする度にチラチラとでも振り返る人がいてくれることに、自分は正気であると確認できる。
「出会ったのは、いつ
「洗濯女が・・ああ、真帆っていうんだけどさ。真帆が大学ん時に、俺が働いてたイタリアンでバイトしてたんだよ」
僕はノートに書き込んだ。これは大事なミッションだ。
真帆さんの就職を機に一緒に住むようになり、家賃を全額払わせて家事を押し付け浮気三昧を楽しんだそうだ。当初は真帆さんから家賃をせめて折半にしてほしいと交渉したこともあったらしい。きっと話にならずに諦めたのだろう。仙田さんは誇らしげに
「あいつが仕事がキツイって辞めた時なんか養ってやったんだぜ」
偉そうに言っているわけではなさそうだが、とても不本意であったことは伝わってくる。感覚の種類で言うなら、「損をさせられた」と思っていそうだ。
養ったというのがもし事実だとしても、きっと数ヶ月にも満たない期間なのではないか。仕事を辞めたのだってこの男のせいのような気がしてならない。きっと遅くまで飲んで泥酔して帰って来て、こうやって一人で騒いだのだろう。相手にしなければ相手にされるまで騒ぐのだ、こういうタイプは。普通の会社勤めをしていては身が持たない。真帆さんへの同情を禁じえない。
「熱があるくらいで会社休んで仕事がキツイなんてどの口が言うんだよ。会社行くって嘘ついて寝てるから、俺わざわざ確認しに帰ったんだから」「店の近くに引っ越して良かったって思ったね」
やけに喉が渇くと思えば口を開けっぱなしだった。アイスコーヒーを流し込んで潤いを取り戻す。これは推測でしかないが、その引っ越しで真帆さんは会社から自宅が遠のいたのではないだろうか。この調子だと転職活動も急かして喚き散らしたであろうことは想像に難くない。
「随分とお飲みになっているようですね」
「こんなの飲んだうちに入らねえよ」
違うんだ、褒めてないから。
その後も「買い物も光熱費も全部払わせてた」と武勇伝のように話す仙田さんを振り返る人が何人かいた。その誰もの眉間には皺が寄っている。あるいは単にうるさく思っていたのかもしれないが、浮かべた表情はきっと僕も同じものだった。
「だからあいつは逃げられないと思ってたんだけどさ」
自分は賢く立ち回っていたのにとでも言いたげに聞こえる。何だろうか、この不快感は。とても懐かしい。
「出て行かなければ結婚してやるって言っといてくれよ」
仙田さんが大きな声で笑うのが本当に楽しそうに見えて腹立たしい。明日にでもあっちに行けるのであれば強めに叩きたい気分だった。できれば鈍器のようなもので。死なない程度に。
なんでも、一度結婚したいと言ったら「三十までは考えたくない」と真帆さんから濁されたのだそうだ。なんだか被害者のような言い方だった。ざまぁ。僕はちょっとニヤついてしまいそうになるのを隠しながら
「だから何回か他の女に乗り換えようとしたんだけど結婚までは無理でねえ」
「あてつけんの面白かったなあ。なあ、早く連れ戻して来てくれよ」
恍惚とした表情を浮かべる彼は、もはや自分が何の話をしていたのか忘れてしまっているのだと思う。相手にしていては僕の身も持たない気がした。こんな種類の危機感は初めての経験だった。
「出て行かれた当時、真帆さんはお幾つでしたか?」
「25くらいだったな、一回り下だから」
なんて甲斐性のない男なんだろう。十年前であれば確かに見た目はイケメンと呼んでも遜色なかったのかもしれない。パーツは悪くないと思われる。それにこの人にも酔っていなければ良いところはあるのかもしれない。でもダメだ、この人はもう治らない。真帆さんに出会う前に一度結婚に失敗しているというのも大いに頷けた。絶対に仙田さんが悪い。一度で済んで良かったくらいだ。
相手が譲歩してくれたことに感謝もせず、図に乗って更に自分に尽くすよう要求し始める。服部さんから聞いた話と擦り合わせれるならば、酔っていなければ外面も身内以外に対してへの気前も良さそうだ。こういう性質の人間を見たことがある。邪推ついでに多分その“他の女”というのはお店の嬢だろう、バカめ。ウンコ踏め。
「頼むよ」
「わかりました」
絶対にこの人と彼女を出会わせてはならない。少なくとも、お付き合いに発展することは阻止してみせる。
********************
[俺たぶん今日>1のこと見た]
[マジか]
[kwsk]
[何処で?]
[カフェ。酔っ払いに絡まれてた]
[それは草]
【草じゃねえよ全然】
【なんで助けてくれないんですか】
「>1オツ。とんでもねえ
【マジでウンコ踏めって思いましたよ】
[1が好青年みたいな話し方になってる件について]
[好青年だった]
[ウンコ踏めって思う好青年]
[1はいい奴だよ]
[Cさんかな?]
[俺も1と会いたくなったんだが、良いかな?]
僕を好青年だと言ってくれた彼だった。今日あの場所にいた誰か。
【メールください】
[ありがとう。じゃあ今日と同じ場所で、日時はメールする]
[同じ場所は草]
[また酔っ払いいたらどうすんだよ]
[ウンコ踏んだ奴と同じ店に入りたくないよな]
[間接的に踏む恐れがあるよな]
[よろしく]
この人に会ってガッカリさせたくないな、と思う。
僕は好青年なんかじゃない。そう在りたいとは思っているけれど。
―――――――—――――
スピンオフです;真帆の話
【夜間ヒコウ】
https://kakuyomu.jp/works/822139842493734468
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“あのスレ”に居合わせた彼らを繋ぐ合言葉をひっそり募集します。チーム名みたいになると嬉しいですが、そうでなくても何でも結構ですので、ダサいのください。後半の
応募作は全て作中で登場させていただきますが、一番ダサいことを言った方が優勝です。
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