マスター

 最初に会うのは都内に住む五十代の男性だった。レコーディングスタジオ兼ライブハウスを経営しているというので、そこへ会いに行くことになっている。


 蒸し暑いから駅からはタクシーで向かおうかと一瞬だけ迷って歩くことにした。鳥海社長から支度金は頂いているが毎回タクシーを使うわけにはいかない。僕は貧乏性なんだ。これから何人に会いに行くか計り知れないし、動くのは七月中だから暑いに決まっている。どんどん気温は上がってゆくことだろう。タクシーは切り札だ!車を手放してしまったことを早くも後悔していた。


 渋谷区の住宅街を抜けるまで散々迷いながら発見した目的地に着くや、僕は自動ドアに飛び込んだ。極楽かと思うような涼しさに溜息が出る。濃いブラウンのサロンを装着した女性が「こんにちは」と声をかけてきたので、僕は息も絶え絶えに“マスターと約束している片石です”と名乗った。




「ああ、聞いてます。ちょっと待ってて」

「はい。お願いします」



 カオリさんと名乗った女性がカウンターの奥へ引っ込むのを見て、洋風レストランのような匂いがすることに気が付いた。そういえばホームページに名物オムライスの写真が載せられていたのを思い出す。施設の利用者に賄い価格で提供しているらしかった。


 店、と呼ぶのだろうか。館内の奥行きは広く、板張りの廊下と赤を基調とした壁が続いている。個室が並ぶ通路の手前にはジュークボックスと無料のコーヒーマシーンが設置されていた。小さな窓のある防音と思しき個室は廊下を挟んで、向かい合わないよう互い違いに四つ点在した。その前を通り過ぎる度に地面からも壁からも振動だけが伝わってくる。


 1階がスタジオで地下がライブハウスという造りらしかった。あまりの暑さに外観をゆっくり見ている余裕などなかった僕にカオリさんが歩みを進めながら教えてくれる。やっと汗が引いてきた気がする。



「機材の搬入とか業者とか、観客も外の通路から直接出入りするようになってるの。受付も地下」



 突き当りを右に曲がったところで staff only と書かれた重そうな扉を開くと薄暗い空間が現れた。階段を降りるそばから煙草の煙が籠ってきて徐々に濃厚になってゆく。空気清浄機が激しい音を立てて回っているが追いつかない状態のようだ。何かの休憩時間なのかTシャツ姿の若い男女が階段の折り返し地点で灰皿を囲んでいた。



「ごめんさないね、煙いでしょう」

「いいえ。副流煙吸うの好きだから大丈夫です」



 カオリさんが立ち止まり、二段下から振り返って「ニッ」と笑った。



「優しい嘘を言う人だね、>1は」

「あっ」



 このカオリさんという女性とも、あの掲示板で僕は何か言葉を交わしたことがあるのだろうか。赤と黒のギンガムチェックのパンツの腰からはシルバーのチェーンがぶら下がっている。ロックだなあ、と僕はロックをよく知りもしないくせに心の中で呟いた。


 地下は一階のように部屋ごとには区切られていないようだ。フロア全てが一つの空間になっていて、ステージと客席、あとは開場後にはドリンクの売り場になるのであろうカウンターのそれだけがある。


 カオリさんから「マスター」と呼びかけられた男が顔を上げる。客席の隅っこに彼は居た。組んだ足の上にギターを乗せてチューニングをしていたらしい。ギターがアコースティックなのかフォークなのか僕には判別ができなかった。

 

 

「やあ、>1かよ!」



 迎えてくれたのは日焼けした髭面の男だった。薄い水色をしたモヒカン頭でなければきこりみたいだな、とぼんやり思う。バーベキュー焼けだろうか。座っていた丸椅子が切り株に見えてくる。焚火の前でボンレスハムを丸かじりしそうな力強さが感じられた。



「やあやあ、待ってたよ」



 僕はライブハウスというところに来たのが初めてなので360度の全方面が珍しくて、壁中に張り巡らされたライブのポスター(フライヤーと言うんだそうだ)を口を開けて眺めていた。かっこいい。


 

「かっこいいだろ?俺も昔は自分でもやってたんだよね」

「やってそう!かっこいいいです!!」



 この豪快さはドラムが似合いそうだと思ったら、やっぱりドラムを叩いていたらしい。 



「何飲む?」

「コーラをください」



 メニューに500円と書いてあったから財布を出そうとしたら、「ふぁーっ!」と声を出してマスターが手を叩いて笑った。その姿は豪快だった。



「金なんか取るかよ!」



 律儀か!


 

 この建物は音が響きやすい構造になっているのだろうか、それともマスターの声が特別響きやすいのだろうか。フロア内にいる何人かが振り返るので僕は少し恥ずかしくなる。



「こっちは頼む立場なんだぜ、むしろ払わなきゃおかしいだろ」

「えっ!そうですか。じゃあごちそうになります」



 開店前だったけれど若い男女が何か作業している。軍手をして紙を折っているように見えるが、それはライブハウスでする作業なのだろうか。僕は思ったことが顔に出てしまうタイプらしく、マスターが教えてくれた。


「あれは当日パンフレット作ってんだよ。他の劇団のチラシとか挟んで椅子の上に乗せとくの」

「ああ、ああやって作るものなんですね」



 芝居なんて学校の行事以外で観た記憶が無い。自分には関係のない世界の方がたくさんあるのだということは例の掲示板を通して知った。世界はそこで広がって、今もこうやって広がっている。



「あの子たち明日から本番なんだ」



 舞台の方では大道具の製作がされている。足場から組むものなんだと何処かで見たことがあった気がするが、ここはその必要が無いのだそうだ。



「最初っから奈落じゃねえからさ。うちは劇団にも貸すけど劇場ではないんでね」

「ははぁ」



 説明されてもよく解らないまま、僕はカオリさんが運んでくれた中ジョッキのコーラにストローを挿す。マスターは更に大きなジョッキのウーロン茶をグビグビ飲んだ。傍らにペットボトルが置かれているからアルコールが入っているわけではなさそうだ。





*****   *****   *****   *****





「母ちゃんを看取りたいんだ」



 そういった依頼が多くなるとは予想していた。




「俺をぶん殴ってでも、その日は田舎に帰らせてくれないか?」

「———何年前でしょう?」




 社割で買ったノートを開く。宮前さん、52歳。出身は大分県。

 宮前さんは当時22歳、一年の留年を経た大学卒業前の夏休み。同級生達と組んでいるバンドを脱退して実家へ帰ると決めていたが、それでも迷いがあった。記録しておくのは大事なことだった。



「田舎で就職が決まってたんだよ。諦めて帰る覚悟はあったんだ」



 ところが転機が起こった。とある有名バンドの野外コンサートで、彼らのバンドが前座に任命されたのだ。疎い僕ですら耳にしたことがあるバンド名を宮前さんは言った。胸が熱くなるのを感じる。




「やるだろ、そんなの」

「やりますよ、そんなの」




 業界の誰かに見初めてもらえるかもしれない。現に抜擢されたのだ。チャンスだと思って然るべき運命の時が訪れる。




「前日んなってさあ、田舎の姉ちゃんから母ちゃんが倒れたって連絡が入ったんだよ。下宿のピンクの公衆電話だったなあ。懐かしいなあ」

「お母さんの病気を何とかすることはできないんですか?僕が薬とか持って行ったりして」

「難しいと思うよ。昔からの持病だったみたいでさ。できるなら俺が産まれるのを阻止して欲しいくらいだ」




 心臓がギュッとなる。


 遡れるのは35年前までだ。52年より前に戻れないだろうかと鳥海社長に交渉するだけでもできれば良かったのだが、こればっかりは申し訳ない。能力者のギリギリが35年前だと聞いている。



「そうだよなあ。しょうがねえよ」



 しょうがない。


 うんうん、と頭を揺らす彼の言葉に嘘は感じられない。本当に「しょうがない」なんて思うのかな。年月を越えればそんな風に思える時期が来るものなんだろうか。




「ああ、それでな。迷ったんだよ、バンドの奴らはドラムなんかいなくても良いから帰れって言ってくれたんだよ。そんでムカついちまってさ、いなくていいって何だよ、どういうことだよ。絶対帰らねえ、俺が叩くって」

「素敵なメンバーじゃないですか」

「そうだな。素敵なんだよ。そいつらとは今でもよく飲むよ」




 宮前さんは満足そうにジョッキを呷った。飲む頻度も高いのだろうな、となんとなく思って、もう会えなくなる友人たちを思い浮かべて僕は少し泣きたくなる。




「母ちゃんは大丈夫だとも思ってたんだ。少し前に電話で話してたし、そういうことは初めてじゃなかったから」





 でもさ。



 なのに、とマスターは言う。





「運命なんて、どうしようもないことを諦める為にある言葉だとは思ってるよ」



 宮前さんはお母さんの最期に立ち会うことはできなかった。悔やまれるのはバンドの方も上手くはいかなかったことだ。続きのオファーが来ることはなかった。そうだと判っていれば彼の人生は。




「わかりました。必ず立ち会わせます」

「頼むよ」



 宮前さんは太い腕で髭面を拭う。ノートとは別に用意した大きめの付箋に自分への伝言を書いてもらった。これをノートの宮前さんのページに貼る。



「ご本人の筆跡と署名があれば、当時のご本人も少しは信用してくれるのではないかと思ってるんです」



 突然現れた人間に説得なんかされて頷くような素直な人たちだとは思えない。それ故に後悔していることだってある筈だ。



「なるほどなあ。よく考えたもんだね」

「事務用品を取り扱う会社で働いていたので思いついたのかもしれません」

「ははあ」



 それもあるが鳥海社長から頼まれたことを忘れないようにメモをしているうちに思い付いたことだった。それを話すと宮前さんが口を大きく横に広げて、新しい悪戯を思い付いたみたいに目をキラキラさせる。



「あのスレの1からは何を頼まれたんだい?」

「変なことばっかりですよ」


 指定の日に指定のコンビニに行って指定の銘柄の煙草を買い占めるだとか、この通りに行って何番目に通った人を自転車で追い抜かせだとか、本当にわけのわからないことばかりだった。依頼人たちに話せる範囲で言えばの話だが。



「どんなバタフライエフェクトが起こるのか考えたらワクワクしちまうね」

「そうですよねえ」

「俺たちにも気が付ける何かを残してもらえるんなら面白いよな」

「おまえらに意見を聞いてみましょう」

「そうしよう」



 宮前さんとは今日初めてあったばかりなのに、普段から話している相手のような親しみを感じていた。少なくとも僕はそうだった。人と親しくなるのが得意ではない僕にとって滅多にあることでない。


 それからしばらく他愛無い話をして席を立った。次の「おまえら」に会わなければならない。壁に直接堀り込まれた時計が11時20分を示していた。壊れたらどうやって直すんだろう。そもそも原動力は何なのだろう。気になることを質問してしまえばキリが無さそうだったので、時間を割いてもらったお礼を述べて席を立つ。



「なんだ、飯食っていかねえのかよ?うちのかみさんの飯はうめえぞ」

「すみません。この後も何人か会うんです」

「全部で何人くらいに会うつもりなんだ?」

「可能な限りは」




 本名と連絡先と勤務先を記載するようにと条件を出したところ、メールは100件ほど来た。三割がプロフィールの記載が無い明らかな冷やかしで、二割はプロフィールも相談内容も嘘くさい内容だったから後回しにする予定だ。




「頑張れ!っていうのは変だよな」



 宮前さんも立ち上がってくれて僕に頭を下げた。




「ありがとう。その節は何卒よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

「今度は昼飯食いに来いよ。店は1998年からやってるから。確か12月くらいだ」

「はい・・!」



 ドアを開けただけで陽射しと熱風と湿度が猛威を振るってくる。過去は涼しいって聞いているけど、本当だといいな―――――――



「コーラごちそうさまでした」

「うん。ありがとうな」

「僕の方こそ、本当に」


 


 熱い握手を交わして店を出てからも、振り返ればドアの窓越しに頭を寄せ合ったマスターとカオリさんが手を振ってくれているのが見えた。僕も手を振った。


 宮前さんは店の外まで見送ってくれようとしたが、「暑い!」と叫ぶので辞退してもらうことにした。本当に猛烈に暑い。ドアが閉まる寸前に、ふと僕は振り返った。





「僕が52年前に戻れたら、宮前さんを生まないようにお母さんに頼みたいって思いますか?」



 ドアを閉めなければと思うと早口になってしまう。それでも不躾だとは承知で確認しておきたかった。もう会えないかもしれない。




「ううん、どうだろうな」




 マスターが少し振り返ってカオリさんを見る。まあ、それに越したことはないのだろう。生まれてきて良かった理由が彼にはあるのだ。





******************




 次の「おまえら」に会うまで少し時間があるから僕は公園で木陰のベンチに座った。心配しなくても、この暑さの中ゆっくり時間を潰すほど酔狂ではない。ノートを取り出して宮前さんのページを開く。ライブハウスのオープンは1998年11月。・・・間違ってんじゃねえか。


 怪しいからオープンしたかどうかは必ず確認しに来よう。営業していたら絶対にランチを食べることを心に誓った。








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