家族の話(妹)

夏休みがひどく長い気がするのは、楽しみが一つも無いからなのかなって思う。



今日はお父さんも仕事が休みで家に居るから、私は朝から自分の部屋にこもりっきり。



別にお父さんが嫌いな訳じゃない。


ただ、一緒に居ても話す事がない。



だから、すずの家の父子関係を羨ましく感じたのを今でも良く思い出す。


それに比べて…朝から自分の部屋にこもって参考書を開いている私を、10年前の私が見たら、どう思うのかな。



考え事をしながら勉強する事に、すっかり慣れてしまった。



静かな部屋だけに、階段を登る足音が微かに聞こえてくる。



「ゆり」



聞き慣れた声が扉の向こうから聞こえた。



…お父さん出かけるのかな。



「なに?」



参考書の内容をノートに書き留めながら、言葉を返した。



「話がある」



出かけるんじゃないのかな?



「どうぞ」



扉が開いたのと同時に、振り返る。


話しってなんだろう。



「どうした…の…」



どうしたの?とお父さんに向けた筈の言葉は、振り返った先に見えた、兄の姿を捉えた瞬間、最後まできちんと言葉にできなかった。



ここはどこ…と考えて、ここはうちじゃないか…と冷静になる。



ちょっと待って…



「お父さんは…?」



…お父さんはどうしたんだろ?



「下にいる」


兄から発せられた言葉に、居るんだ…と、酷く安心した。



久しぶりに、声を聞いたからかもしれない。


声が…まるで父だった。


父の様な言い回しで、父の様な低いトーンで、父しか居ないと思い込んでいるこの家で、誰が父以外の存在を連想する…?



お父さんは知ってたの?


いや、お父さんが知ってる筈ない。


え?じゃあお父さんは知らないの?



「ここにいるの、知ってるの…?」


「今話してきた」


その様子からして、兄が突然来たんだと理解した。



「入っていいか?」


この人はこうゆう人だった。


いつも思いついたまま、自分の思いのままに生きているんだ。



兄に背を向ける。


ダメだと言ってわめいたところで、この人には効かない。


下には父がいる。


心配はかけたくない。



部屋の扉が閉まったのがわかった。


そして、溜め息が聞こえた。



「…傷つけた事、悪かったと思ってる」



この人の言葉は、いつも唐突。



ペンを手に取り、カチカチと芯を押し出す。


参考書の続きを目で追った。



「俺に言いたい事あるだろ」


ノートに書き写していた手がほんの少しだけ震えた。



考え事をしながら勉強をする事はできるのに、



「話し、聞くから」



人と話をしながら勉強する事は出来ないみたい。


完全にペンを持った手が止まってしまった。



「何言ってんの…」


「話を聞きに来た。言いたい事あるだろ」


「あのさ…」


いい加減にしてほしいほんと。



顔を見たくなかった。


目を合わせたくなかった。


なのに、あまりにも理不尽な発言をする兄に、振り返ってしまった。



「いい加減にしてよ…」



顔を見てしまった。


目を合わせてしまった。



「俺に言いたい事、あるだろ?」


悪者になるのは、いつも兄だった。



私達兄妹きょうだいは、どちらかと言えば仲が良い方だった。


小さい頃は、食べ物やおもちゃを取り合ってよく喧嘩をしていたみたいだけど、小学生になる頃には、兄は私に何でも譲ってくれた。



学校に居る時でも、公園で遊んでる時でも、兄は私のおりをしてくれた。


お母さんがいつも兄に言っていた。


「お兄ちゃんなんだから、ゆりの事頼むよ」って。


私にとっても兄の存在は、とても心強かった。



中学生になると、一緒に居る時間は減ったし、お互いに友達と居る事の方が増えた。


だけど、私達の関係は変わらない。


それを疑いもしなかった。



兄がモテるんだと気付いたのは、私が中学に入学してすぐ。


高校生になっていた兄は、家に居る時と何も変わらない筈だった。


私にとっては…



入学してからすぐ、女の先輩達に兄に彼女は居るのかと、根掘り葉堀り聞かれる様になり、友達からは兄を紹介してくれと言わんばかりに、私の家で遊ぶ事が増えた。


友達に対して優越感に浸っていたのは最初だけ。すぐに、煩わしい感情へと変わっていった。


だけど兄を責める気持ちにはならなかった。


私の事なんてどうでもいいくせに、兄目当てに近寄ってくる友達に対して不信感を持っていた。



兄はいつだって私の味方で、私のりをしてくれる…筈だった。



中学一年の夏、お母さんが家を出て行く事になった。


お母さんは私が小学5年生の時に仕事を始めた。その頃から、離婚の危機だったんだと、後になって知る。



兄は知っていたのかもしれない。お母さんの変化に、気付いていたのかもしれない。


呑気な私は、何も知らずに、何も知らされずに…気付いた時には、お母さんが出て行く時だった。


当時の私は、兄だけが頼りで、兄さえ居てくれれば何とかなる様な気さえしていた。



あの日…私は、お父さんの言葉に耳を疑う事になる。



「お兄ちゃんは、お母さんと暮らす事になった」


「え?どうゆうこと?」


「ゆりは今迄いままで通り、お父さんと一緒だ」


「え?どうして?私は?お兄ちゃんだけ?」


「お兄ちゃんが選んだんだ。お兄ちゃんがお母さんと暮らしたいって言ったんだ」


「じゃあ私もそうしたい!私もお母さんと…」


言った後で、後悔した。


お父さんが悲しそうな顔をしていたから。



中学一年の夏休みが終わり、新学期に登校した時、私達兄妹きょうだいは、別々の姓を名乗っていた。



お母さんはいつ荷物をまとめていたのか分からないけど、私達が夏休みに入る前には出て行ってしまった。


私と兄が学校へ行っている間に。


兄は夏休みの間に荷物をまとめて、お母さんを追う様に出て行った。


お母さんにも、兄にも、何も聞けないまま…私はお父さんと暮らす事になった。



離婚した事はすぐに周りにも知れ渡り、私達兄妹が違う姓を名乗っている事に、興味を持つ人も多くいた。


その頃から、兄を見かける事が減った。


たとえ別々に暮らしていても、私達は兄妹だから、私達の関係は何も変わらないと…思いたかった。



年が変わり、友達から兄が留年していたと聞いた。私が知らない事を友達から聞かされた事に、寂しさが募った。



そんな時、兄がホストを始めたと聞いた。


どうしてホストなのか、高校生がホストなんてできるのか、中学生のあたしには、何が何だか全く分からなかった。



私達の家の近所に、昔から仲良くしてくれていた女の先輩がいた。年上だけど、敬語を使わない程、親しい関係だった。


親が離婚して、兄が出て行った事も知っていて、そんな私の相談に乗ってくれて…友達でありながら、姉のように慕っていた気がする。



その子が、その子の友達が、兄の働いているホストクラブに行っていたと知るまでは…



それからは何もかもが悪い方へと進んでいった。


兄と私の関係も、私と友達の関係も…



兄を恨む事で、私はどこに向けていいか分からない怒りを解消していたにすぎない。



兄を恨む事で、私はこうして生きている。


兄を恨む事で…



「ずるいよね」



…違う。



「いつもそうやって、私に決めさせる」



そうじゃない…


兄は、最初から自分の非を認めて、私に選ばせた。



兄と一緒にお母さんの元へ行く事ができたのに、お父さんを選んだのは私自身。



兄に話を聞く事だってできたのに、兄から離れる事を選んだのも私自身。



それなのに兄は、自分が悪者になる事で、私を正当化してくれた。



私が選んだ未来が間違いだったなんて、思わせない為に。


私に、後悔をさせない為に。



兄は今でも、私のりをしてくれていた。



それに気付いていながら、一度とってしまった態度は、元に戻せなくて…




「私は、」



私は、兄の言う通り…ただ、話を聞いてほしかった。



「私は、お兄ちゃんと一緒にお母さんの所に行きたかった。お兄ちゃんがお父さんを選んだなら、私はお母さんと暮らせなくても良かった」


「そうか…」


「私は、お兄ちゃんと一緒に居たかった」


「…悪かった」



やっぱり、あなたはいつだって悪者。



いつ会いに来てくれるのかと…今か今かと待ちわびて。


自分からは動かない私を、あなたはどう思っていたのかな…



嫌われるくらいなら、嫌いになろう…


そうやって、あなたを恨む事でしか前に進めなかった私に、あなたは会いに来てくれた。



もういいよ…なんて、私が言うのは烏滸おこがましい。



「また、来てもいいか?」



最後まで悪者の兄は、私を正当化させてくれる。



「好きにすれば」


俯いて出た言葉。



「そうか」


なのに、兄が口元を緩めたのが分かった。



兄は最初から気付いている。


全て気付いていて、全てを分かった上で、悪者でいてくれる。



私が兄と同じ高校を選んだ時点で、兄は悟ったのかもしれない…




…私が、どれだけお兄ちゃんとゆう存在を、求めていたのかを。

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