父と娘
「ただいま」
リビングに姿を表した父は、あたしが「おかえり」と言うよりも先に、言葉をかけてくる。
「お風呂、溜まってるよ」
晩御飯の支度をしながら、父に言葉を返した。
「おかえりは?」
父はあたしの近くまで来ると、少し拗ねたように言葉を落とす。
「あ、おかえり」
「一番に聞きたかったよ、その言葉」
「あ、うん。おかえり」
小さい頃は、父に対して当たり前に「おかえり」と言っていたのかもしれない。
だけどあたしの記憶では、小学生の頃に「おかえり」とゆう言葉を使った覚えがない。
小学生の頃は、学童に預けられ、仕事を終えた父が迎えに来てくれていた。
だから、家へ帰る時はいつも父と一緒で、「ただいま」と言う事はあっても、「おかえり」と誰かを待ちわびる事はなかった。
中学生になれば、部活動が始まって、定時で帰って来る父の方が先に帰宅するのが当たり前になっていた。
そういった
だからって、父の所為じゃない。
そもそもあたしが、「おかえり」と言えるように習慣づけなかったからだ。
「遅かったね。父さんの方が早いと思ってた」
お風呂ではなく、晩御飯を選んだ父は、一人食卓に座って箸を進めていた。
「父さん、聞いてる?」
ソファーに座ったままのあたしは、父からの返事がない事に、見ていたテレビから食卓へと視線を向けた。
父はお皿の上に箸を置くと、ゆっくりとあたしへ視線を向けた。
「あ、ごめん。聞いてなかった」
「え?」
「何?」
「いや、帰ってくるの、あたしより遅かったなと思って」
「あぁ、うん」
「何?何かあった?」
「いや」
父は小さく微笑むと、あたしから視線を逸らして、再び箸を掴んだ。
何なんだろうと疑問に思いながらも、あたしも再びテレビへと視線を向けた。
「すず」
すると、父があたしを呼ぶ。
だから再度、父へ視線を向けた。
「父さん、すずに話があるんだ」
あたしの目をジッと見つめる父に、何を言われるのか、少しだけ予感した。
父と娘、2人だけの家族だから…
父とは数え切れない時間を共に過ごして、数え切れない程の会話をしてきた。
だから、あたしには分かる―…
父はあたしにこう言う筈だ。
「父さん、今日、会社の部長に呼ばれてな…」
いつだって、父はこの言葉から話を切り出してくる。
「すずも知ってるだろ?青山のおじさん」
「うん」
母が亡くなった時、父の会社の人が、私達にとても良くしてくれていた。
その中でも、青山のおじさんって人は、父が働く会社の部長でもあり、あたしにとっては、足長おじさんの様な人だった。
母の葬式の際に、一度だけ会った事があるらしいけど、あたしはサッパリ覚えていない。
まだ小さかったあたしに、ランドセルを贈ってくれたり、勉強机を買ってくれたりもした。
そんな青山のおじさんの話が出るとゆう事は、来たるべき時が来たとゆう事。
何せ、青山のおじさんこそが、父を転勤する部署へ移動させた張本人だから。
「すずには、辛い思いをさせて来たんじゃないかと思ってる」
父がこの話をする時は、決まってあたしに対する謝罪の言葉が含まれる。
「今回も、父さん悩んだんだ…」
だけど、父から謝罪を受ける覚えなんてない。
あたしは、父の苦労を知っているから。
「仕事の事なんだけど」
新たな環境への生活が、父の口から語られる―…
「転勤の話が来てる」
「うん」
分かっていた。分かっている。
「すずは、どうしたい?」
父が、あたしの様子を伺ってくる。
「え?」
「眉間に皺が寄ってる」
「ほっといてよ」
眉間の皺を無くすように、指の腹で眉間を
「すずが高校生になったら、すずの気持ちを聞こうと思ってたんだ。前からずっと考えてた。すずが小さい内はしょうがなかった。ごめんな、こんな言い方…でも、しょうがなかったんだ」
「うん」
分かっている。分かっていた。
「でも、すずも高校生になったし。将来の事とか、考えるだろ?父さんの仕事に付き合わせるのは、ここまでかなって」
「そんな…」
「すず?」
視線を落としたあたしに、父が食卓からソファーへと移動してくる。
「ごめんな、いつも勝手に決めて来た…」
申し訳なさそうに言葉を続ける父に、視線を上げる事が出来なかった。
父は、いつもあたしの事を気にかけてくれる。
だから、父の仕事をどうこう思った事なんて一度もない。
むしろ、あたしは、偉そうに…しょうがない事だとか、どうにも出来ない事だとか…
自分が置かれている状況を深く考えもせずに、偉そうに分かったような事を口走っていた。
父が、どんな思いであたしを育てて来たか分かる?
常に、父の温かい愛情の下で生かされていたあたしなんかに、分かりっこない。
…犠牲になっていたのは、父の方だ。
あたしとゆう存在の犠牲になって、働き
…あたしとゆう存在が、父の将来を潰している。
「…どうしたらいい?」
ゆっくりと、向かいに座る父へ視線を向けた。
「すずのしたいようにすれば良い」
父の口調が、とても優しかった。
「すずは、この町に残る事を望んでるんだと思ってた」
「え?」
「だって、すずが友達を紹介してくれたの初めてだったし。彼氏だって…」
「それは…」
「父さん嬉しかったんだ。すずが、初めて本心を見せてくれた気がして」
「あたしは…」
「分かってるよ。すずはいつだって、飾らない性格で、お母さんにそっくり」
口元に笑みを浮かべた父が、あたしを通して、お母さんを見ている様な気がした。
「この町に来てから、すずが良く出掛けるようになった。初めての事に挑戦したり、他人と関わる事が増えた。だから、父さん思ったんだ。すずを連れ回すのは、この町を最後にしようって」
「連れ回すなんて…!連れ回されたなんて思ってない…!」
「うん。ありがとう」
「思った事ない…」
「ごめん、言い方が悪かったな」
父の話し方が、いつもあたしを気にかけて話そうとしてくれているのは知っていた。
「すずがここに残りたいんだったら、父さんも、辞めようと思うんだ」
「え…?」
「すずを1人にするのは、まだ不安だし、すずと離れて暮らす事は考えてなくて」
「うん」
「父さんが、転勤を辞めようと思う」
「そんな事っ…」
「ん?」
「そんな事、して良いの?大丈夫なの?」
「今までみたいな働き方は出来ないよ」
「……」
「今までは、定時で帰れる事が条件だった。だから転勤がある部署を選んだ。でも、すずも高校生だし、父さんが定時に帰れなくても、もう大丈夫だろ?」
「あ…」
「ん?」
「あた、しの為に…してくれてたんだよね…」
「そうだよ、すずの為。当たり前だろ?娘の為に働くなんて当たり前。そんな事に、すずがどうして傷ついた顔するんだよ」
父が覗き込むように見て来るから、余計に顔を伏せたくなった。
「この町に残るなら、父さんは本社勤務に戻る事になる」
「うん…」
「帰りが遅くなる事もあるし、休日出勤なんかも出てくる」
「うん…」
「それでも、まだ、すずと一緒に暮らせる」
「うんっ」
「すずは、どうしたい?」
「っありがとう…」
「え?」
父が困ったように、笑いを含んだ声で聞き返して来た。
どれだけの時間を
あたしが、この町に残りたいと思っている事に、父は気づいている。
「父さん…」
「ん?」
「この町に連れて来てくれて、ありがとう」
あたし達は、父と娘。
親子だから、「犠牲」とゆう言葉は不釣り合いかもしれない。
だけど、父があたしの犠牲になってまで選んでくれた、あたしの将来。
幸せにならないと、父が報われないなと心底思う。
「あたしも、この町で暮らしたい」
「うん、わかった」
そう言って立ち上がった父が、食卓へ戻って行く姿を見つめながら、流れ落ちそうな涙を必死で
父さん…
父さんっ…
父さん…
…何度も、何度も、心の中で、父を想った。
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