会いたくない人

「さて、行きますか」



会計を終えたアイが出て来て、あたし達の元へ近づくなりそう言った。



率先そっせんして駅の方へ向かって歩き出したアイは、「送る」とか「送らない」とか言った訳じゃないけど、送ってくれるつもりなんだと思う。


小走りにアイへ近づいて、「ご飯、ご馳走様」と、奢って貰った事へのお礼を口にすると、「律儀な奴だな」と呆れたように笑われた。



だけど嫌な気分に成らなかったのは、笑ったアイの表情が、優しかったからだと思う。



アイの半歩後ろを、岸田ゆり子ちゃんと並んで付いて歩いた。


人通りの多い場所なだけに、絡んでくる人も少なくない。


だけどアイが、ボディーガードみたいに前を歩いてくれるから、難なく進む事が出来た。



駅周辺ともなると、何の勧誘だか分からない人達が、若い女の子に必死で話しかけている。


それを横目で見ながら、何があってもアイからはぐれちゃならない。と、鞄を持つ手に力が入った。



タクシー乗り場の辺りまで来ると、人通りの多かった通りよりはまだ、行き交う人達のスペースに余裕があって、少しだけ落ち着いたように見える。



「じゃあ気をつけて帰れよ」


後ろを付いて歩いていたあたし達に振り返ると、アイは入れ替わるように駅を正面にして立ち、あたし達は駅を背にしてアイへ向き合った。



「アイも気をつけてね」


岸田ゆり子ちゃんが心配そうな声を出すと、サラリーマンに紛れたスーツ姿のアイが、「じゃあな」と手を挙げた。



デザインは違えど、着ているのはスーツなのに、サラリーマンとホストじゃこうも違って見えるものかと、関心さえしてくる。



「気をつけて帰れよ!」


「うん!じゃあね!」



最後の最後まで声をかけてくれるアイに、岸田ゆり子ちゃんが大きく手を振って答えた。



「あぁ…人が多いとダルイね」


アイに背を向けて歩き出すと、彼女は憂鬱そうな声に変わる。


だけどそれは仕方のない事で…


すぐそこに迫る駅の構内には、さっきから絶えず人が出入りしている。



満員電車に揺られるのは嫌だな―…と、あたしも共感していた。



連なるタクシー乗り場が徐々に遠ざかる。


タクシーに乗り込む人を見るあたしの顔は、きっと羨ましそうな表情になっている筈だ。



「まぁでも、電車乗ってすぐだから。ちょっとの我慢だよ」


「そうだね」


「空いてる席あったら、あたしがすずの分も取りに行くから!」


「うん…」



また一台、タクシーが駅の前でゆっくりと停車した。



「でもね…この前女子高生に先越されてさぁ」



岸田ゆり子ちゃんの不服そうな声が、あたしの耳に届く。



「その子がちょっと寄ってくれれば座れるのに――…」



だけど、話してる内容は全く入って来ない。



「ほんと腹立って——」



タクシーのドアが開いて、女性がゆっくりと降りてくる。



――あぁ…あたしがあのタクシーに乗り込みたい。



「——しかも!その女子高生と降りる駅が一緒でさぁ…!」



岸田ゆり子ちゃんの話し方が、苛立ちからか、興奮に変わっていた。



「やっと目の前の席が空いて座れると思ったら、あたしも降りなきゃいけないしさ―…」



タクシーを降りた女性は、電話を耳に当てていた。



「…―って、思わない?」


「え…?」



全く岸田ゆり子ちゃんの話を聞いていなかった所為で、突然話を振られたから思考回路が上手うまく働かない。



「ほんと腹立つよね…!」



そう言った彼女の言葉が、あたしが聞いてなかったから出た言葉じゃないと分かったのは、



「あたしなら気を遣ってちょっと寄るよ!」



そう言って話を続けたから。



「…そうだね」


頷いたあたしが、話を聞いてなかった事に岸田ゆり子ちゃんは気づいてない。



だから、彼女の話に「うんうん」と頷いて視線を前に向けた。



と同時に、あたしの足はその場に張り付いて動かない。



「すず?」



岸田ゆり子ちゃんが、すぐに立ち止まったあたしに気づいた。



「すず?」



もう一度名前を呼ばれたけど、目が離せない。




…――最後に見たのは、いつだったかな。


最後に会ったのが、いつだったかな。


最後に声を聞いたのは―…



「ねぇ、すず?」



すぐ側まで近寄って居た岸田ゆり子ちゃんに、腕を掴まれ揺すられた。



最後に見た時は制服姿だったのに、今は黒いスーツから白いシャツを覗かせている。



「ミヤチが…」


「え…?」


「ミヤチだよ」



その名前を口にしたあたしに、困惑の声を漏らす岸田ゆり子ちゃんが、ゆっくりとあたしが見ているのと同じ者へ、視線を向けたのが分かった。



「…何でっ」


驚きと嫌悪感が混ざったような、彼女の声が耳に届いた。



駅の壁を背に、電話を耳に当てたまま、黒いスーツに身を包んだ兄ミヤチが、こっちを―…あたしを、見ている。



先に気づいたのは、きっと兄ミヤチの方。


あたしが何気なく向けた視線の先で、彼があたしを見ていたから。



逸らされない視線を、どう交わして良いのか分からない。



「行こっ!」


岸田ゆり子ちゃんが、咄嗟にあたしの腕を強く引っ張った。


揺れた視界から、兄ミヤチが姿を消し―…



「ユウト!」



同時に、女の人の声が耳に届いて、岸田ゆり子ちゃんの動きが止まった。



「居た居た!ごめんね!待たせちゃった?」



パタパタ走りながらそう声をかける女性は、さっきタクシーから降りて来た人。



あたし達は、それを自然と目で追う。



「いや、大丈夫。俺も今着いた」


電話をゆっくりとしまう兄ミヤチが、その女性に微笑みかけた。



「どこ食べに行くか決めた?」


「いや」


「もう、考えといてって言ったじゃん!」



言葉とは裏腹に、嬉しそうな表情の女性と、それを優しく見下ろす兄ミヤチの会話が、嫌でも耳に届く。



「じゃあもうあたしが決めるね?」


「あぁ」



頷いた兄ミヤチをキッカケに、女性は兄ミヤチの腕にしがみつくと、


「行こ」


寄り添うようにして歩き出した。



…あたし達なんて、まるでその辺のオブジェと一緒。



見た事に意味なんて無い。

そこに有ったから、見た。



兄ミヤチからしたら、その程度の感覚。



現に――



「行こうすず」



あたしの腕を掴んだまま歩き出した岸田ゆり子ちゃんに動かされるまで、兄ミヤチがもう一度こちらへ視線を向ける事は無かった。



あれだけ懸念していた人混みも、気にならない程あたし達は無言のままで。


満員電車に乗り込み、されるがままにズルズルと奥へ追いやられた。


先に次の駅で降りるあたしは、その時になってやっと口を開き、「じゃあね」と、一言告げて、岸田ゆり子ちゃんに背を向け、また降りる人達の波に巻き込まれながら降車した。



プシューっと音を立てて閉まるドアを一瞥いちべつし、見えない岸田ゆり子ちゃんに何とも言えない感情が湧き出た。



駅構内に流れるアナウンスと騒音が、あたしに考える事を諦めさせてくれる。



そのお陰で、家路に着いてすぐにお母さんへ「ただいま」を告げた時も、何も考えてないから何も報告する言葉が浮かばず、すぐに父の夕飯に取りかかり、暫くボーっとしていたと思う。



お母さんに聞いてもらいたかったけど、何を聞いてもらいたいのか分からない。


誰かに何かを伝えたい時―…例えば、さっきの岸田ゆり子ちゃんみたいに、腹が立った事を、どれだけ腹の立つ出来事だったかを、あたしに聞いてほしくて、共感してほしくて、思いを言葉にしたはず。



そうゆう感情に至るまでの過程を説明しなきゃならない。


「誰が」「何が」「だから」


でも、あたしは兄ミヤチと視線があっただけで、腹立つ事をされた訳じゃない。


視線が合ったのに何もなかったかのように立ち去られたけど、別に傷つけられた訳じゃない。



知らない人じゃないのに、知らない人みたいな態度をされたけど、じゃああたし達はそれを悲しむ程の関係だったのかと言われれば、よく分からない。


あたし達の関係は何?って聞かれても困るし、兄ミヤチは友達のお兄さんで、あたしは兄ミヤチからしたら、妹の友達になる。



そんな事を言えば、見たくなかった兄の姿を見てしまった岸田ゆり子ちゃんの方が、思うところは色々あると思う。



だからあたしなんて、怒る理由も無ければ、傷ついたり悲しむ関係でもない。



じゃあ、だったら…この胸に突っかかったようなわだかまりは何なのか。


どうして胸がこんなにもざわつくのか。



――自分が気持ち悪くてしょうがなかった。

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