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 雪穂と見に行った映画はSFだった。舞台は近未来、理想の人間をヴァーチャル・リアリティで限りなく現実に近く具現化できるようになった世界で、人間から人同士のつながりが喪われていくという話だった。

 アニメで表現するには余りに皮肉なその内容に、興行収入を心配する僕を他所に客入りはそれなりに良く、恐らく製作会社が丁寧な作画で有名なところだからだろうと思われた。

 実際、アニメの映像は美しかった。確かにこんな『理想の人間』が目の前にいたら、現実なんてどうでも良くなってしまうかもしれない。そう思っては、シナリオ的にまずいのではないか。そんな映像を見ながら、僕は箭内との会話を思い返していた。

 馬鹿にされるだろうと思った。高校生にもなって碌に恋愛もしたことがないなんて。

 だけれども箭内は違った。

『お前、アセクシャルなんじゃない?』

 初めて聞く単語だった。

『恋愛感情を持たない人のことをそう言うんだよ』

 家に帰ってパソコンで検索した。ウィキペディアには『無性愛』として載っていた。その他のサイトも見たけれど、馴染みの無い単語が多く、理解するのに時間を要した。恋愛的志向、性的志向、人類の一%、第二次性徴、恋愛未経験。

 難しい単語が並んでいたけれど、確かにそれは要すれば——本当に、本当に単純に言ってしまえば——『恋愛感情を持たない人』のことをそう呼ぶらしい。

 何かが違う。そう感じた。それはもしかしたら自分がマイノリティに陥ることへの恐怖だったのかもしれない。人類の一%。箭内が言っていたよりも少ない数字。自分がそれだと言われてすぐに受け入れられる人間はそういないだろう。

 映画の中ではそんなヴァーチャル・リアリティに囚われた人々を救い出すべく二人の刑事が奮闘している。この二人が良いのだと雪穂が言っていた。刑事の一人は既婚者だ。だけれどそんなことは雪穂の妄想の上では関係無いんだろう。結婚。その言葉も、なんとなく自分から遠かった言葉だ。多分自分には無縁だと、どこかでそう思っていた。

 ネットの記述で気になったのが、アセクシャルの人間は性的欲求を持たないというものだった。だけれど、自分はオナニーをしている。振り返れば確かに、常にオナニーには何か罪悪感みたいなものがつきまとっていた。どこかで、「皆していることだから」と思っていた。だけれど自分は射精するときに間違いなく興奮していた。あれは性的欲求ではないのか?

 映画では若手の刑事が窮地に陥る。ヴァーチャル・リアリティに飲み込まれそうになるその若手を、ベテランが救い出そうと奮闘している。雪穂が喜びそうなシーンだと思った。

 つまり雪穂みたいな人たちは、友情や信頼といった感情を、敢えて恋愛感情の発露だと『誤読』するのだ、と思った。誤読。息も絶え絶えな若手に、渋面のベテラン刑事が声をかけている。確かに見ようによっては、まるで死にかけた恋人を前にした婚約者の表情みたいにも見える。

 友情と恋愛はどう違うなんて、Jポップの歌詞に良くあるけれど、果たしてそこの間に明確な違いはあるんだろうか? Jポップなら大抵、本当は恋愛感情だったんだ、君が好き〜♪なんて言って一件落着だけれど、それはきっと二人が男女だからこそ認められるんだろう。同性の間では、それは認められない。同性の間には友情しかないと、多くの人間が信じている。

 そういえば僕はその検索の過程で、「ホモ」というのは差別用語で、「ゲイ」と言うが正しいのだと知った。そして同時に、雪穂が今まで一度も「ホモ」と言ったことが無いことに気づいた。雪穂は雪穂なりにそういう人たちについて配慮していたのかもしれない。僕は深く考えずホモと言っていた。僕は考えを進めた。

 雪穂みたいな人たち——いわゆる『腐女子』と言われる人たち——が一部から猛烈に嫌われるのは、その暗黙のルールを破るからだ。同性の間にある「友情」としか形容しちゃいけないはずのものを、「恋愛感情」に塗り替える。でもそれはあくまで空想上、妄想での話だ。

 実際はどうなのだろう。箭内みたいな「ゲイ」の人たちの間では、友情と恋愛感情は明確に違うものなのだろうか。それともそれはとても境界の曖昧なものなのだろうか。友情だったと思っていたものが恋愛感情になったり、恋愛感情だと思っていたものが友情に過ぎなかったりするんだろうか。

 もしその境界が曖昧なのだとすれば、今まで自分は全てを友情と片付けてきたけれど、恋愛感情というものを持っていたのかもしれない。それが同性であれ異性であれ。

 気がつけば映画は終わっていた。

「これをオタク向けに公開するって、結構すごいよね」

 雪穂がそう言った。はっきり言ってほとんど身の入っていない鑑賞だったけれど、雪穂の言うことは尤もだと思った。

「要するにお前ら現実見やがれ、ってことでしょ?」

 映画館のロビーでは、グッズを買い求める客が列を作っていた。作中に登場する『理想の人物』の一人である女の子が、あられもない格好をしたクリアファイルやポスターが売っていた。この人たちはあの映画の何を見ていたのだろうと思わずにはいられない。

「まあそれでもあの二人に萌えちゃう自分もさ、結局同じだよねえ」

 雪穂はしみじみと言う。

 久しぶりに繁華街に出てきたので、二人で一緒に漫画やアニメのグッズなどを売っている専門店に行くことにした。勿論目的はBL漫画だ。

 女性だらけのフロアに踏み込むことにも、もうすっかり慣れっこになってしまった。時々物珍しそうに見られることもあるけれど、今日は雪穂と一緒なのでそんな視線もなかった。あくまで付き添いの人だと思われているのだろう。実際フロアには自分の他にも男性がいた。一人はものすごく居心地悪そうにしている。多分彼女か誰かに無理やり連れて来られたのだろう。もう一人は、熱心に棚を一つ一つ確認しているようだった。

 昇だった。

「え、昇?」

 僕が思わず声をかけると、昇は大袈裟なほど体を震わせて、びくびくとした目でこちらを見た。

「なんだ、朗かぁ」

 相手が僕であることを確認すると、安心したように笑った。手には漫画が握られていた。『空想少年』と『ハッピーエンド』だ。

「お前らがすごい盛り上がってたから、どんなんなのか読んでみようと思ってさ」

 そこで雪穂の存在に気づいたようだった。

「ああ、えっと、同じクラスの、土井」

 雪穂は頭を下げた。

「こんにちは。いつも朗がお世話になってます」

 お世話になってるってなんだ。お前は俺の保護者か。

「えっと、こいつがそのBLを俺に貸してきた野中雪穂」

「ああ、この子が」

 昇はなるほどといった顔をした。

「丁度良かった。他にも何かオススメあるなら教えてよ。あんまりハードじゃないやつね」

 昇は雪穂に言った。昇はこういうとき人との距離をあまり気にしないというか、あっさりと人のプライバシーゾーンに踏み込んでくる。だけれどもそれが不快感を与えないのは、彼の人懐っこい笑顔とか、持っている雰囲気によるものなのだろうと思った。自分には無理な芸当だ。正直羨ましいと思った。

「うーんこういうのって、すごい好みが細かく分かれてるから気に入ってもらえるかわかんないんだけど」

「大丈夫大丈夫、俺全然まだこういうの知らないし。そうだなあ、でも絵がかわいい感じだと良いかも」

「それだったら……」

 言いながら二人は他の漫画の棚へと移動する。俺はそんな二人の姿を見ながら、普段だったら自分がいるはずの場所に昇がいるということに、微かな不快感を覚えていた。

 やがて昇は合わせて五冊の漫画をレジに並んで買うと、新刊の並んでいる棚を見ている雪穂を見ながら、

「お前らって付き合ってんの?」

 と聞いてきた。

「付き合ってないよ」

 中学でも何度もされた質問だった。男女が二人でいると、人はすぐにくっつけたがる。そうか、それは雪穂がしていることと同じことだ、と思った。友情と恋愛感情の書き換え。

「でも映画まで二人で見てきたんだろ? それで友達って、よっぽどだよ。お前がどうかはわかんないけど、絶対向こうはお前に気ぃあるって」

 僕は何も言えなかった。そんなことは考えたことも無かったからだ。僕は雪穂に恋愛感情を持っていない。当然向こうもそうなのだろうと、ずっと思っていた。棚を覗き込む雪穂を見る。雪穂は漫画の品定めに夢中で、こっちなんてまるで見ていなかった。僕は笑って、

「それはないよ」

 と言った。

「ていうか昇こそ彼女できたんでしょ?」

「え、なんで知ってんの」

「野球部の樋山、声でかいんだもん。全部聞こえてたよ」

「ああー、まじか、ああ、まあ、うん」

 昇は決まりの悪そうな顔だった。

「別に隠すつもりはなかったんだけど。そのうちちゃんと言うつもりだったんだけどさ」

「どこまで行ったのさ」

「え?」

「もうヤった?」

 下衆な質問だと分かっていたけど、思わず聞いてしまった。自分がされたら嫌な気分になる質問だ。でもなんというか、反射的にしてしまった。

 昇の方を見ると、なぜかちょっと泣きそうな顔をしながら、

「ばっか、まだだよ、さすがに」

 と言って笑った。

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