Vol.4:老害(〜2019年3月)

【部活離れ】

2017年春。

晴れて大学生となった私。

『群青』の句会はもちろんのこと、俳句方面でも東大俳句会や早大俳句会などの学生俳句会にも足を運んだりと、俳句に明け暮れていた。

もちろん、立教大学のサークルにもいくつか入っていましたよ。どのサークルもそれなりに頑張ってたし。


とはいえ、この頃の僕は俳句甲子園に未練タラタラだったこともあり、「部活離れ」ができていなかった。

一言で言えば、「自称コーチ」。高校生からしてみれば一番きしょい存在だ。

後輩に交じって句会をし、後輩の句を見て推敲して、ディベート練習して……の日々。これも全て「全国大会へ彼らを送り出すため」という大義名分の皮を被った独りよがりだったので、後輩のためになっていたかと言われたら「わからない」としか。少なくとも、僕がいることによるやりづらさは絶対にあったはずだ。

その真意は、当時高校生だった彼らに聞くほかない。

俳句甲子園が近づくにつれ、講義をサボってまで居候する日も次第に増えていった。


ときたま、OBの鈴木啓史(鈴木総史)さんや、先述したご縁よりゲストとして永山智郎さんをお招きして句会やディベート練習を行っていたが、彼らにとって外部指導はそれで十分だったのかもしれない。


ああ、書いていて嫌すぎる。絵に描いたような老害。それが大学1年生の私です。



【『俳句雑誌「奎」』との出会い】

ひたすらに俳句に明け暮れる生活をしてはいたものの、どの句会に参加しても、僕は結果を残せていなかった。自分の力不足を感じていた。

特に、同期の柳元佑太のレベルの高さを、句会のたびに思い知らされていた。歳は同じのはずなのに、その差は何だと。

そして、『群青』の句会に出した句も、良くて3点止まり。今までの句会で上手いと思った句の表現を踏襲して作ったはずなのに、何故だと。


僕は、俳句は「読み手の文学」だとずっと言い続けている。

もちろん、作り手は作りたいものを作ればいいと思うし、世間に媚びる句なんか必要ないと思う。

それでも、良し悪しは「読み手」が決める。


「読み手」に評価されなければ、自分の句には価値が無い。

そのプレッシャーが次第に重くのしかかり、このまま俳句を続けていてもいいのか……とはならなかった。


「僕の作品を上手いって言ってくれる人はいないのか?」


一言で言えば、承認欲求だ。そして、現実逃避でもある。

「上手い句」を作ること、そうであることにばかり固執していた僕は、もっと自由に俳句を詠みたくなった。というより、自由に俳句を投稿できる場所を探していた。


そこで、目に留まったのが、『俳句雑誌「奎」』だ。当時は、故・小池康生先生が代表を務めていた、関西を中心とした同人誌だ。(現在は仮屋賢一さんが代表を務めています。)


ここなら、何でも出せる。そう思った。上手い下手は関係なくやらせてもらおうと思い、俳句雑誌「奎」への参加を決めた。


だからこそ、僕はこの「奎」に長くいるつもりはなかった。

やりたいだけやって、その先のことなど後で決めればいいと。

ああ、本当にどうしようもない19歳だ。



【リベンジ】

地方大会の本番まで、句の理解もディベートの練習も選手の時くらいやった気がする。(いや、いくら何でもそれは烏滸がましすぎる。)

僕は特にAチームを見ていたのだが、彼らにそこまで熱を注いだのには理由があった。

このチームなら、勝ち上がれると思っていたからだ。

メンバー間に多少の齟齬こそあれど、「勝利」に焦点を当てるなら良いチームに仕上がっていた。と思う。それは現役の子たちに聞かなきゃわかんないけど。

鈴木さんの力添えもあり、句のクオリティも申し分なかった。


そして当日。地方大会、東京会場の幕開け。

第20回大会と記念の年だったため、前年優勝の開成高校Aチームは「シード」として地方予選には参加せず、全国大会への出場が決まっていた。


立教池袋高校Aチームは、東京第一会場を見事優勝。

4校の総当たり戦を全勝し、全国大会への切符を手に入れた。

嬉しかった。自分のことのように。いや、自分は地方大会では勝っていないので、それ以上だったのかもしれない。

とにかく、彼らが報われてよかった。特に、昨年Aチームを切望していた吉澤が、今年キャプテンとして誰よりもアツく俳句甲子園と向き合ってきた吉澤が、自らの手で「優勝」を手にできて本当に良かった。


その後、シードの開成高校Aチームとエキシビジョンマッチを行うことに。

結果は敗北。選手たちを思うと、せっかく地方大会で優勝したのに、どうも歯切れの悪い結末で何とも言えない気持ちになった。

それでも、全国大会ではいずれ彼らと戦うことになる。その現実を突き付けられたのだった。


記念撮影の写真にも、まるで選手かのように高校生と肩を組んで映っている。恥ずかしい。

気になる方は『俳句甲子園公式作品集 第6号』をご覧ください。僕が初めて編集部として製作に携わった一冊です。電子書籍でも読めます。(ここぞとばかりに宣伝)



【亀裂】

句を出し終えてのち、全国大会に意気込んでいたある夏の日のこと。

「立教池袋は俺のチームにするから。」

鈴木さんから言われた言葉だった。「は? 冗談だろ?」って思った。

本心でそう言っていたのかは知らないが、「指導者」という箔を付けたかったんだと思う。(というか、そのようなことを言っていた。)


その言葉に、僕は猛反発した。生徒たちも当然反対する。そりゃそうだろう。

だが、全員じゃない。

高3の2人、特に久米は「俺は鈴木さんについていく」と言った。


……なんでそうなるんだ?


思考が止まった。

高校生の、お前たちの大会だぞ!?

句も鑑賞も、全部あの人が望むように矯正するって言ってんだぞ!?(これも本当に言ってた)

そんな利己的な大人に、お前たちの「青春」を乗っ取られてもいいのかよ!?


「俺は勝ちたいんすよ。」


その久米の言葉に、ハッとさせられた。

句のクオリティは圧倒的に鈴木さんの方が上だ。それだけじゃない。鑑賞も、経験も、全て彼が上。

「高校生」が自らの力で勝ちを掴みに行くか、「高校生」を犠牲にしてもただただ「勝利」を目指すのか。久米は、後者を取った。

俳句甲子園で、今までにない「青春」を味わわせてもらった僕には無い、冷静かつ現実を見据えた選択だった。


何が「老害」かは、選手が決める。


結局、同じAチームでも、吉澤と久米は鈴木さんが、田村と加藤と石井は僕が見ることになった。とはいえ、それ以降、鈴木さんは立教池袋高校文芸部に姿を現すことはなかった。

文字通りの「部外者」が、チームを真っ二つに分けてしまった。

彼らはとても不安だったと思う。今でも、本当に申し訳なく思っている。


当時の立教池袋高校には、明確な指導者は存在しない。たまに来てくれるOBだけが、頼みの綱。あとは全て、自分たちの力で乗り越えてきた。

それが、「立教池袋」の良さだと思っていた。

でも、今思えば、卒業後も執着して「立教池袋」を壊してしまったのは、他でもない僕なんだよな。


ただ、ひとつだけ良かった(と勝手に思っている)こともある。

これは利己的だし結果論ではあるのだが、「田村奏天」というひとりの「表現者」を守ることができたのは、不幸中の幸いだったかもしれない。この年の句の提出には一歩間に合わなかったが、翌年、彼の「本当の姿」を見た時にそう思った。

もし、あの人の「乗っ取り」が実現していたら彼は文芸部を辞めていたし、今に至るまでの立教池袋高校および「立教劇場」は存在していなかった。と思う。


でもこれらは結局、僕の勝手な憶測で、強引な解釈だ。

選手のみんながどう思っていたのか、今になって知りたいと思ってしまう。

そして、その日が来たなら彼らに深々と頭を下げなければならない。

償いにはならないが、せめてもの誠意です。



【さよなら群青】

第20回俳句甲子園、全国大会。

立教池袋高校は、勝ち星で松山東高校に及ばず、ブロック戦を勝ち上がることができなかった。

僕は選手じゃないので試合内容などは割愛させていただく。

それでも、ただ悔しかった。波瀾万丈を乗り越えてきた彼らが、勝利目前で負けたことが。


彼らが敗れた時、「ま、俺の居なくなった立教なんてこんなもんっしょ!」みたいなことを当てつけかのように言われた気がする。

たとえ事実だとして、必死に努力してきた選手の彼らにそれを言うのはどうなんだ。

あの時の得意げにヘラヘラしていた顔、忘れていませんよ、私は。


僕は他者の俳句を読むうえで、「俳句の実力と人間性は切り離して考えるべき」という指標を定めているのだが、その考えに至った原因が彼なのだ。

彼の句は上手いと思うが、彼という人間が好きなわけじゃない。「人を憎んで句を憎まず」とでも言うべきだろうか。

あれから5年以上経つ今は、もはや好きでも嫌いでもない、というかどうでもいい。というのが本音だが、一緒に句会できるかと言われるとたぶんノーだと思う。


しかし、その報いは返ってくる。

彼を立教から事実上追放したのと引き換えに、この後まもなく僕は『群青』での立場を追われることとなった。句の上手さ、歴、関係性。その全てで劣っている自分が歯向かえるわけもなく、来たる同年10月、最大の研鑽の場だった『群青』を、悔しくも退会した。

今更戻りたいと宣うつもりはないが、お世話になった櫂未知子先生、佐藤郁良先生をはじめ、私のような若輩者と仲良くしてくださった同人の方々にも恩を仇で返すような形となってしまい、本当に申し訳ないと思っている。

郁良先生には「橋本丈」という素敵な俳号を頂いておきながら、その名で同人として活躍することなく果ててしまったことは、今でも心残りだ。しかし、『群青』で頂いた名である以上、この先の私には相応しくないと思い今も使わずにいる。

そんなことがあっても、今なお俳句甲子園や文化祭の場でご挨拶に伺った際、優しく声を掛けてくださるその懐の広さが胸に沁みている。

特に、櫂未知子先生にはその後も『俳句雑誌「奎」』にご支援くださったり、先日の文化祭(2024)でも「この間の「奎」、読みましたよ」と仰ってくださったりと、何かと頭が上がらない。

感謝しています。


あと、本当に蛇足ですが、わたくし茜﨑楓歌こと「俳句読太郎」のTwitter(現X)は、この年の8月19日、大会直後からスタートしてます。

何を呟いてるわけじゃないけど、よかったらフォローしてください。



【その「指導者」、本当に「指導者」ですか?】

さて、強気な物言いに戻りますけれども。

折角なので、ここでひとつ「指導者」について考えてみたいと思う。

毎年毎年、どこかで一部の大人が「俳句甲子園は指導者同士の代理戦争でもある」みたいなこと言ってるのが目に入るんだよね。指導者、傍観者問わず。


「何言ってんすか?」


まず、指導者。

チームはあくまで高校生たちのものであって、お前のモノじゃない。

そして、本人にその気がなくても、「お前のチーム」にしようとしていないだろうか。選手より経験も知識もある「大きい人間」だからって、何やってもいいわけじゃないんだぞ。

もし、これから母校の、あるいはどこかの高校の指導者になる方・なりたい方へ。「指導者」として失敗したからこそ伝えておきたい。

生徒との「信頼関係」と「適切な距離」を考慮せよ。

何も、生徒のやりたいことは全部やらせろとか、放任しろとか言っているわけじゃない。

選手たちが望む未来のために歩むべき道を「指し示して、導く者」であってほしい。それだけです。


そして、傍観者。

それが良いか悪いかなんて、あんたら同士で言い争ってどうする。

この「指導者論争」は俳句甲子園において度々起こる議題なのだが、選手の方々が疑問に思って声を上げているならまだしも、周りの大人がやんややんやと騒ぎ立てるのは、ノイズでしかない。

そういうことは、せめて大会が終わってからか、選手のみなさまのお目汚しにならないところでやってほしいというのが個人の意見だ。

まあ、これもノイズだと言われればそれまでなんですが。


とはいえ、仮に僕が高校生の時、その指導者からイチから俳句を学んでいたとしたら、作句のクセや価値観の基準をそこに合わせていたかもしれない。

指導方針と合わなければ苦言を呈するだろうけど、合うならそれに従うし、かつての久米のように「目的」のために手段を選ばないという選手の方も、少なからずいるはずだ。

こういった高校生の決断は、これといって外部に伝わるわけでもない。だからこそ内部事情を知らない者は高校生が指導者に従っているように見え、「代理戦争」だと揶揄してしまうのだろう。


特に、「先輩(ここでは、主にOB・OGを指します)」という立ち位置は、立ち回りひとつで「指導者」にも「老害」にもなり得るし、「先輩」のままをキープするという第三の選択肢を淡々と選べる人もいる。

その違いは何たるか、答えはいろいろあるだろう。僕は「熱」だと思う。

「熱血」と言えば聞こえはいいが、それが病的な「高熱」と隣り合わせなことを「先輩」が自覚しておかないと、愛する後輩たちの未来を自らの手で潰すことになる。

一歩間違えれば、それは「代理戦争」だから。


もちろん、高校生がそれを望むなら、あるいは選手があなたという存在そのものを求めているなら、それはれっきとした「指導者」ではないだろうか。

今後も需要ある限り、選手のみなさまと手を取り合って「俳句甲子園」に向き合っていただけたらと思います。


少なくとも私は、「指導者」とはお世辞にも言い難い、愚かで利己的な「老害」だった。

さて、あなたは。



【新たなる道】

ギスギスした自論が長すぎて、読者の方々は胃もたれしていることでしょう。

レールを戻して、『群青』を辞めた私がその後どうなったのか。その話をしましょうか。


結論から言えば、羽が生えたように体が軽くなった。

それは、「鈴木総史」という心的呪縛から解き放たれたのもそうだが、一番は「上手い句」をひたすらに追い求める環境が無くなったことだ。

これは、良く言えば「表現の自由」を手に入れた(勝手に自分が縛っていた)、悪く言えば「指標」が無くなって何をすればいいか、どんな句を作ればいいかわからなくなっていた、ということだ。


この時期も、俳句雑誌「奎」には在籍させていただいていたし、東大や早稲田の大学俳句会には引き続き顔を出していた。全く俳句を辞めたというわけじゃない。

ただ、「どうやって俳句やろっかなー」ってふわふわしてた。


そこで誘われたのが、「十代句会」だった。

と言っても、かつて高校生時代に参加していたものを同期の子たちが引き継いだもので、その体制は少し異なっていた。大学生が中心になって高校生と俳句をする、それこそサークルと同じような感じ。

当時の僕は、その運営の大学生とあまり仲が良くなく(各々のペースで俳句をしている彼らが気に入らなかった僕、先頭民族かの如く俳句をやっていた僕を怖がっていた彼ら)、よくもまあ受け入れてくれたなと思う。

思えば、大学生になってから「先生」がいない句会に出たことのなかった僕にとって、雰囲気から何からその全てが新鮮に思えたのかもしれない。


あの上野動物園、本当に楽しかったなあ。今はもう俳句を辞めてしまった子もいるからあのメンバーが揃うことはないけれど。


その日があってからというもの、僕は今までに関わったことのない「俳句」に会いに行くべく、貯金のほとんどを使って全国を飛び回った。

特に、小池康生先生がご存命のうちに「奎」の句会(枚方句会)に行けたのはよかった。既にご病気を患っておられた様子だったが、句会でも、その後の食事会でもそのお人柄が垣間見える、素敵な方だった。

「奎」の同人としても好き放題な句を出すだけ出しといて顔ひとつ出さないわけにもいかなかったし、何より、今まで東京の人としか句会をしてこなかった人間として、学ぶことがあまりにも多かった。


僕は『俳句雑誌「奎」』で一生俳句をやっていくと心に決めた。


東京に戻ってからも、普段は会うたびにサイゼリヤで句会をしたり、Twitterで「俳句バトル」をやったりと、今までよりグッと「カジュアル」に俳句と向き合うことになった。

この意識が、僕の俳句との向き合い方を大きく変えることになる。


この考えが基盤となった僕の「俳句論」(って軽々しく言っていいのか知らないけど)をすこし話すと、俳句はもうちょっと「ファストフード」であってほしいと思う。ちょっと、ね。

最近の周りの人たちを見ると特に感じるのだが、俳句がどうも格式高いものになってしまっているように映る。結社に入らなければ、賞を取らなければ。そのレールからあぶれた人、そこについていける気がしない人は、俳句を「辞めて」いく。

いざ、久しぶりに俳句を作ったとしても、見せる人も一緒にやってくれる人も見当たらない。みたいな。

そうじゃなくって、「マクド寄らね?」くらいの感覚で「俳句やらね?」って言ってできる俳句がしたい。お互いの「表現」を見て、それについて語る、くらいの俳句があったっていいと思う。「読み手」がいれば成立するんだし。

ただ、「認め合え」とか「批判しちゃダメ」とか、みんなで手をつないでゴールする優しい世界で俳句がしたいというわけでもない。それでは、「文学」がつまらなくなると思うし、そんな俳句なら辞める。

あと、結社に入ってコツコツ頑張ってる人たち、賞に向けて努力している人たちが嫌いと言っているわけでもない。むしろ尊敬してるし、好きです。

ただ、そういう人たちも、この「ファストフード」の存在を弾圧しないで許してほしい。それができないなら、否定せずほっといてくれればそれでいい。

京都の料亭でビッグマック出すわけにもいかないけど、マクド全店で懐石料理を提供するのも違うと思う。「俳句」は料理名じゃなくて「料理」っていうカテゴリーなんだから、お互い、「そういう料理があるんだね」くらいの距離感を保てたらいいというか。

まあ、俳句は1人じゃできないから、俳人の方々が見てくださる「場所」の提供として賞があるんですけどね。その「権威ある賞」に「ファストフード感」のあるものがもう1つ2つくらいなら増えてもいいんじゃないかな、なんて思うわけですよ。

逆に、それを求めすぎると胃もたれするし、バカ舌にもなる。全部が全部自由であるべきだ、なんて言ったら何が「俳句」なん? ってなるし、挙句の果てには料理じゃなくて食品サンプル作る人だって出てきちゃう。

人間、いつもファストフードばっかり食べるわけでも、良いものばっかり食べるわけでもないでしょう? それこそ、この文章を書いている僕は懐石料理寄りの「賞」に向けた俳句を考えているので、「ファストフード」を食べてません。要は、いつも同じ「俳句」だけやってると飽きません? みたいな感じ。

何言ってんだこいつって思うかもしれない。というか、僕も何言ってるかよくわかってない。

言葉にするのは難しいんだけど、ふとした時にやった人が面白いと感じられるものであってほしいなー。


この考えを持つに至った原因が、僕に「もっと楽しく俳句やろうぜ?」と導いてくれたのが、「Vol.2 17音の青春」でチラッと名前を挙げた、風見奨真だ。


彼のおかげで、僕は今でも俳句を「楽しい」と思って向き合うことができている。彼がいなければ、俳句は常に辛く苦しい修羅の世界だと思いながら続ける羽目に、いや、十中八九辞めていただろう。僕は彼に救われた。

週5とかで会ってたんじゃないかな? ふらっと遊びに行って俳句、夕飯食べて俳句、友人の家に帰った後でも俳句。クオリティ度外視(ってわけじゃないけど)で、ことあるごとに「俳句をした」。

それくらい、俳句って手軽なものなんだと思う。

それに合わせるように、道行く人に手当り次第噛み付くよう野犬のように過激だった僕の人格も、少しずつ絆されていった。Twitterで冗談を言えるのも、イジられてもキレなくなったのも、今こうしてこんな記事を惜しげも無く笑って書けるのも彼のおかげだ。


僕を俳句の世界に誘ってくれた丸山峻輝。

僕に俳句のあり方を導いてくれた風見奨真。

この2人は「茜﨑楓歌」の俳句史において、人生において「恩人」なのだ。


今の奨真がどこで何をしているのか分からないけれど、元気にしてくれていれば、それで嬉しい。


また関係のない話をしてしまいました。

引き続き、翌年となる2018年の僕をお楽しみください。



【立教俳句会、始動。】

立教大学は、この年から数えて数年前にとあるインカレがやらかしてからというもの、学外の学生を交えてのサークル活動が禁止されていた。


それでも、「学生俳句会」をやりたかった僕は、「じゃあサークルじゃなけりゃいいじゃん。」ということで、「立教(生が主宰する)俳句会」を立ち上げた。拠点は池袋、学内の施設は借りられないので貸会議室を取っての句会、その後にご飯行く人は一緒に行く、というような俳句会を月1のペースで開催していた。

後に、春にはピクニック、冬にはクリスマスプレゼント交換句会、不定期で連作句会を開催するなど、その内容は少しずつ増えていった。


この「立教俳句会」を立ち上げた理由は、ただ立教大学に学生俳句会が無いから、という理由ではない。

俳句甲子園、あるいは新しい仲間たちと行っていたような「喋りまくる句会」がしたかったからだ。そして、これまでに参加してきた句会で、そのような句会はなかった。

元より、俳句甲子園もディベート能力を振り回していた身。俳句ではなく「俳句甲子園」に求めていたものをテーマにするあたり、結局のところ未練タラタラだったわけだが。


それに付随するように、母校への執着は少しずつ薄れていった。

「立教俳句会」代表として、他の学生俳句会にも負けない俳句会を作る。その新しい目標のために、俳句との関わり方を少しずつ変えていった。



【田村奏天】

俳句との向き合い方を大きく変えた2017年。

前年があんなことになってしまったため、僕は母校から身を引いた。

句の推敲も、ディベート練習も、「田村奏天」のやりたいようにと、すべてを任せた年だった。(句を見てほしいと希望のあった一部の生徒や、ディベート練習の要請があった時なんかは、協力していた。)


そんな体制で迎えた地方大会で、僕は驚くべき光景を目の当たりにする。


東京第一会場。決勝戦のカードは、立教池袋A vs 開成A。

ブロック戦で開成高校のBチームを破っての決勝進出となった母校は、その先輩たちの待ち受けるAチームと、真っ向勝負することとなった。


決勝戦。試合は1対1の大将戦にもつれ込む。


開成A 蜜豆のさびしき茎の残りをり

立教A 蜜豆を失ふ蜜の湖なりけり


奇しくも、蜜豆の句ながら「蜜豆が無い」同士。両者一歩も引かないディベート。

本当に、手に汗握る試合だった。

パッと旗が上がる。判定は――


「立教池袋高校Aチーム! 勝利を掴み取りました!!!」


激戦を制したのは、母校だった。

エキシビジョンなどではない、正真正銘の勝利。

信じられない、という感覚はなかった。彼らなら勝つとずっと信じていた。

飛び上がるほど嬉しかったし、選手たちは飛び上がってたと思う。


これが、「田村奏天」の、立教池袋史上最強とも言えるチームだった。


「必ず全国で会おう」

そうカナメは開成高校の選手と抱擁を交わし、東京会場は幕を閉じた。



8月。第21回俳句甲子園、全国大会。

この全国大会は、誇張抜きに「全く」関わらなかった。

母校にはNHKの取材も来ていたが、彼らの様子はほぼOAで確認することとなった。

とはいえ、もちろん現地には行きましたとも。髪の毛もゴリゴリに青かったし、流石にNHKに映る可能性があるのはまずいと思って自重した、というのもちょっとだけある。


結果は本当に惜しいところ(旗1本差とかじゃなかったっけ?)で、ブロック戦敗退となった。

それでも、カナメに導かれた後輩たちは皆どこか満足気な顔をしていたし、彼らを導いたキャプテンの顔に、心からやり切ったが故の悔しさが表情に滲んでいた。

それを見て、「よかった」と思ってしまった自分がいた。

悔しさこそあれど、やり切ったのだと。

見守ることしかできなかったけど、これでよかったのだと。

本人はきっと納得いっていないだろうし後悔もあると思うが、立派だった。


間違いなく、田村奏天の年だった。


この「田村奏天」が、後の立教池袋高校文芸部に多大なる影響を与えているのは言うまでもない。

彼の後輩は皆、「田村奏天」という「指導者」を慕っている。

彼に導かれ、彼の下で各々が努力した結果、後輩たちの「今」がある。

誰ひとり、彼を「老害」と宣う者などいない。


これが、「指導者」のひとつの答えだと、僕は思う。




次回、「Vol.5:肩書(~2021年9月)」。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る