第21話 ラントの幼少時代
オネーロというただ広いだけの貧相な国で、ラントは生まれた。
右を見ても左を見ても黄土で覆われている町並みはどこか異質で色の割に温かみもなく、そして年中肌寒い。
そんな気候が災いしてか、はたまた単なる国民性か、人々も粗暴で争いや犯罪が絶えず、これと言った資源がないオネーロは極めて閉鎖的で、無機質で、寒いのに、いつどこにいてもじっとりと息苦しかった。
三人兄弟の末っ子として生まれたラントは生まれつき病弱で、父や兄達が大工として働きに行っている間も、床に伏せているか母の手伝いをしていた。
「お前みたいな役立たずが生まれちまったせいで、俺の人生は散々だ」
毎晩酒を飲んではそうくだを巻いてラントに嫌味を垂れた後に、決まって「全てお前のせいだ」と母を罵るのが父の日課だった。
「あんたが酒の量を控えれば、ラントに買ってやれる薬代を捻出できるじゃないか」
ある日母がこらえきれずそう食って掛かると、父はなにか叫びながら母を何度も殴りつけた。
その日のことは今でも思い出さないようにしているが、ふとした時、例えば潜り込んだ列車に揺られている時やゴミを漁って見つけ出した植物の実なんかを食べている時に、ふと情景が脳裏をよぎることが未だにある。
そうなると決まって吐き気を催して、全身が震える。叫び出さずにはいられなくなる。
できれば二度と思い出したくないが、そういった記憶ほどきっと死ぬまで覚えているのだろう。そんな予感を抱くたびに、胸の奥がずっしりと重くなる。
兄たちはラントと目を合わせることもしなかった。
オネーロの人間の肌は皆、大地を包む黄土色に限りなく似ていた。
赤みを帯びた筋肉質の腕や足を剝き出しにして仕事に励む兄達にとって、貧弱でか細いがゆえに母の愛情を一心に浴びているラントは邪魔な存在でしかなく、引いては弟という認識すらなかったのだろうと思う。
生まれてすぐに家のために働くことが当たり前であるこの国で、役立たずの烙印を押されたラントには母しかいなかった。
正確に言えば、母ともう一人。
「君まだ死なないの。随分しぶといね」
深く淀んだ彼女の瞳を見ることが好きだった。
君の瞳には海が見える。幼いラントがそう笑いかけると、少女は少し驚いた様子を見せ、鼻を鳴らして土を蹴った。
今思えば照れていたのだろう。そんな少女のあどけない姿を見ることができるのは自分しかいないということに気づいたのは、ラントが物心ついてすぐだった。
「女の子なんてどこにもいないじゃないか」
ラントが母の手を引いて家の裏に連れて行っても、母には少女の姿が見えない。
黒い服を着た女の子がいるんだ。ほら、僕を見てる。
乱暴なことを言うけど、いい人なんだ。お母さんもきっとお友達になれるよ。
ラントが口を大にしてそう言うと、母は目を細めて柔らかい頬を優しくつねった。
「しばらく熱にうなされていたから夢と現実が曖昧なのかもしれないね。ほら、病み上がりの身体であまり外に出ちゃ駄目だよ。家にお入り」
そう促され、こっそり振り返ると、少女はやはりそこにいた。
微動だにしない表情は不気味で少し怖くて、どこまでも美しい。また来るね。そう言葉にならない声で呟いても、その表情は変わらなかった。
ラントが自分の力に気づいたのもこの頃だ。
家から少し離れた道路の脇で、小鳥が死んでいた。
反対方向に折れ曲がった羽が不憫でつい拾い上げその顔を覗くと、両目が開いたままだった。
「目を開いたまま死んでいる生物ってのは、この世に未練がある証拠だ」
いつだか酔った父がそう兄達に言っていたことを思い出す。
可哀想に、こんなに小さな生き物でさえ、路肩にゴミのように落ちている死体でさえ、まだこの世で生きていたかったと訴えているのだ。
ラントはいたたまれなくなって小鳥を両手で覆って、顔に近づけた。
どうか安らかに。ここではないどこか別の場所で、好きなだけ飛び回ることができますように。
特に意味はないが、そう頭で願って小鳥に息を吹きかける。
するとふいに、手の中の死体が暖かくなるのを感じた。
小さな鼓動が脈打ち、開いたままの玩具のような目に光が宿る。
そうして最後に折れた翼がくるりと元に戻って、小鳥は何事もなかったかのように飛び出した。
ラントは、天にも昇るような気持で飛び上がった。
この出来事をすぐに母に伝えなければ。
そう気が逸って走り出すと、いつの間にか目の前にあの女の子が立っていた。
「君、今、なにをしたの」
いつも無表情な彼女だが、その目に驚きと恐れが混じっている。
声も上擦っている。けれどラントにはそんなことはどうでも良かった。
死んだ小鳥が元気になって空を舞った。自分の願いが直後に叶ったのだ。それがただ嬉しかった。
「僕がふうっと息を吹きかけたら、小鳥が生き返ったんだ」
本当は母に一番に伝えたかったのだが、気持ちが高ぶって彼女にも真実を話した。
ラントにとって少女はすでに友達なのだから、彼女に伝えることはごく自然なことだった。
「それは多分……まずいんじゃないかな」
明らかに表情を強張らせて、少女は呟く。
なぜ。そう問いただすと少女は長々と何かを説明し始めたが、どれもラントには聞いたことのない言葉ばかりでよく分からない。
それに、彼女は駄目と言っても母はきっと褒めてくれるに違いない。
死んだ生物を生き返らせることは善い行いだから。
ラントはそう信じて疑わなかった。
それなのにだ。母親はまたもやラントの言うことを信じなかった。
「そんな馬鹿な話あるわけないだろう。ラントは作り話が上手ね」
そう言って汚れた下着を洗っては干す。
信じてもらえない。それならば……。
次の日父と兄が仕事に家を出たのを確認すると、ラントは渋る母を引っ張って街に出た。
がらんどうで寂しい街は、少し歩くとすぐに更地に出る。
そこをキョロキョロと見渡すと、木の陰で小さな猫が死んでいるのが見えた。
大きく目を見開いて、腹に裂けたような傷が入っている。
痛々しくて見ていられないといった様子で母はしゃがみこみ、声を落とした。
「可哀想に……。土に埋めてあげよう。一緒に入れる花を摘んでおいで、ラント」
「その必要はないよ。見ててお母さん」
軽快にそう言うと、ラントは昨日と同じ要領で猫の顔に手を当てて、その瞳に息を吹きかける。
正直やり方はこれで合っているのか分からなかったが、きっと成功する、という自信はなぜかあった。
そして案の定猫は生き返った。大きく裂けていた傷はたちまち塞がり、辺りをふくふくした毛が覆う。真ん丸の瞳には緩やかな水分を帯び、緊迫した表情はすぐに穏やかにほどけた。
愛らしく鳴いてラントにすり寄る。
「ほら見たでしょお母さん。僕の言ったことは本当だったでしょう」
自慢げに言うと、母は今までに見たこともない表情を浮かべて呆然としていた。
「ラント……あんたは」
そう言ってなにか言葉を探していたが、次に続く言葉が見当たらないようで、不安げに両手をこすり合わせてうなだれる。
しばらく言葉を失ったように立ち尽くして、それからはっと意識を取り戻したようにしっかりと、ラントの小さな身体を抱きしめた。
「いいかいラント、今やったことを誰にも言ってはいけないよ」
「どうして? 善い行いをしたのに」
「あんたのその力を利用しようとする人間がきっと沢山いるからさ。それくらい人智を超えた力。まるで魔法だよ。だから決して誰にも言ってはいけない。もちろん見せるのも駄目だよ」
「よく分からないよ」
「今は分からなくてもいいの。ただし、お母さんとの約束を守ってちょうだい。誰にもその力を使ってはいけないし、力のことを言ってもいけない。分かったね」
ラントを抱きしめる手に力が入って、背中や腕が痛かった。
自分の思っていた反応とは全く違った母の様子にラントは困惑したが、とにかくただ事ではないことは、幼心にも感じていた。
「分かったよ、お母さん」
ラントが頷くとようやく母の腕が緩んだ。
しゃがみこんで小さな顔を両手で覆う。
ひんやりと冷たくて、カサカサして、少し痛い。
今でも覚えている、これが母の手だ。
「ラントは頭のいい子だから、いつか自分で分かるようになるまでは秘密にしておくんだよ」
念を押すように言うと、ラントの額に自分の額をくっつけて笑った。
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