第19話 嫌な予感

朝起きると、街の景観や穏やかさはそのままに、人の様子だけがはっきりと変わっていた。

いつもはパドラが朝食を食べに来いと迎えに来るのに、今日は部屋の外に草団子とミルクが置かれているだけ。

それを食べ外に出ると、街のあちこちで地面に頭をつけ何やらブツブツ言っている人の姿が目に付いた。

呆気にとられつつ人々を横切る。


「どうかご加護を」「我々をお助けください」そうはっきり聞こえて思わず彼らを見ると、目を固く閉じ突っ伏して、文字通り大地を手で握りしめていた。


悲壮感。

そう言った言葉がぴったりだった。

 街をぐるりと見回してみると、祈りを捧げているのは皆顔や手に皺を寄せた老人達であった。

昨日まではなかった風景だ。ふうとひとつ溜息をつき、速足でパドラの家へ向かう。

するとここでも様子が変わっていた。


「おやラント、来たのかい」

 声色こそ変わらなかったが、パドラはラントをちらりと見ると、台所で何かをせっせと瓶に詰める作業を続けた。

「起こしに行ってやれなくてすまないね。なんせ忙しくて」

 言いながらもせわしなく手を動かす。


見ると、草と野菜を漬けて発酵させたものを樽から瓶に移し替えているようだった。

パドラとぺブルと三人で食卓を囲む簡素なテーブルには発酵させておいた食品や家畜のミルクがずらりと並べられている。

「おはようお兄ちゃん。あのね、これ食べちゃ駄目なんだって。ぺブルもさっきお団子食べようとしたら怒られちゃった」


 ぺブルがやってきて団子のような手で空の瓶を持つと、調理台で作業をするパドラの脇に置く。

「これは大事な非常食なんだ。つまみ食いは許さないよ」

 半分強張って、もう半分はおどけたようにぺブルに言うと、鈴のような声がきゃあきゃあ言って笑う。


非常食。悲壮感に満ちた人々。フィオリアやグイドのみが感じ取っていた危機の正体が、遂に民にも知れ渡ることになったのだろうと、ラントは瞬時に察した。

せわしない二人をただ茫然と見ていると、「失礼するよ」と玄関から聞き慣れた声が入り込んできた。

大荷物を首に括りつけてやってきたのは、ラントが働いている農園の主人だ。


「まったく大変なことになったよ。あんたら準備はできたのかい」

 うんざりと言った様子で手を振りながら入ってくると、ラントを見て眉を上げる。

「おうラント。悪いがね、しばらく農園の仕事はできそうにないよ。まったく残念だ」


 口は悪いがさっぱりとした主人の性格だが、今日は厭に投げやりだ。

大変なことになった。面倒なことになった、と、主人とパドラは口々に言って眉間に皺を寄せる。

ぺブルは飛び跳ねながら食料を詰めた瓶をカバンに入れている。

状況はよく呑み込めていないが、いつもとは違う事態にウキウキしているようだ。

「お祈りしている爺さんや婆さんを見ていると不憫になってくるよ」

「仕方ないさ。今は神に祈る以外方法がないんだからね。あたしたちも準備が終われば礼拝所に行く予定だよ」

「それにしても本当かねぇ……バステラ軍がこの国に攻め入ってくるなんて」


 呑気に世間話をする二人に、ラントは思わず視線を向けた。

どういう表情をしていたかは自分では分からない。しかしラントを見た二人が目を丸くして、パドラに至っては泣いている子供をあやすかのように慈しむような表情まで浮かべた様子を見るに、よほど切羽詰まった表情をしていたのだろう。

来て間もない国の、よく知りもしない人たちのために。


「ああすまない。ラントには何も話していなかったね」

「軍が攻め込んでくるのか」

「どうやらそうみたいだ。昨日バステラの騎士さんが国王様にそう言ったんだと」

「まったく……こんな何もない国襲って何になるってんだよ。そもそも本当に襲ってなんか来るのかねぇ。そう言って隣国に揺さぶりをかける目的かもしれんだろう」


 主人は苛立った様子で頭を掻き、溜息をついた。

神に祈りを捧げる人間。避難の準備をする人間。半信半疑の人間。

「戦う準備は」


 ラントがポツリと呟くと、時間が止まったようにパドラと主人はラントを見た。

家の外では聞きなれた鳥の鳴き声がする。

この国で初めて見た鳥で、確か名前は、スズリ、だと何日か前に誰かが教えてくれた。

主人がふうと息を吐くと、ピンと張った眉を微かに下げて座り込む。


「生憎この国は戦うって事をしないんだ、ラント。神様がそれを嫌うからな」

「そう。今までこんな国を襲おうって奇特な国はなかったからね。まぁかなり昔に襲われたことは何度があったみたいだけど……とにかく武力を持たなくとも良かったんだ」


 それがまさかこんなことに……と言いかけて、パドラは自分の頬を両手ではたく。

「さあ、弱音なんて吐いてる暇があったら準備しないとね。ぺブル、上から手提げ袋を持っておいで!」

 はーい、とまるで旅行へでも行くかのように弾んだ足音が駆けていった。しかし、実際にはそれは襲撃から逃れるための避難なのだ。

心臓の奥がしくしくと痛んで、他人事ながらラントは苛立った。


「そうだラント。国王様がお呼びだよ」

 調理台に向き直ってから、パドラが穏やかな声で言った。

「あんたに話があるんだってさ」

「そうかい。そりゃよかった。どうせもう農園の仕事だってできないんだから、すぐに国王様のところへ行きな」


 俺もそろそろ出るかな、と主人は荷物を重そうに持ち直した。

「まったく、お前も大変な時にこの国へ来たもんだ。本当に災難だったよ」

 老人というには若く、しかし身体のいたるところに老いを刻んだこの主人はラントの肩を小突いて笑った。

口は悪いが人使いも面倒見も良い。ラントの悪態も笑って吹き飛ばす。

この男の器量はこの国の湖のように深く、その白く薄いが表面の皮の堅い手は、今まであったどの炭鉱夫よりも頼もしい。

その手が小突いて突き放された自分の身体が、突然酷く頼りないもののように感じた。


「世話んなったな」

 主人が低い声で呟いた。

気が付けばパドラもラントを見て笑っている。怪我が治って旅立つ子供を見送る親。

そう思えるほどに慈愛に満ちた顔だった。

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