第33話

ジリリリリリリリリリリリリリリリリ!


 鳴り響いた火災警報に和奏は身を竦ませ、冴良は眦をきっと吊り上げた。二人は共に図書室にいたが、最近美蘭の様子がおかしいせいか空気感が重く、会話の一つもなかった最中の出来事だ。


「な、なに?」


「……」


 和奏は混乱し、咄嗟に縋るように冴良を見た。対照的に彼女は廊下へと続く廊下を睨み続けていて、緊張感を漂わせている。


「今まで、ここの火災報知器なんかが鳴ったことはなかったよ」


「……どういうこと?」


「とうとう、終わりってこと」


 言いながら、冴良は振り向いて和奏と目を合わせる。その黒鳶色の瞳は、どこか寂寥感を含んでいた。和奏には意味のわからない言葉だけれど、何か不吉なことが起きていることだけがわかった。

 ふと、扉に取り付けられた窓から見えた廊下の窓。その更に向こうに、異質な色彩を見つけた。それは常に赤黒い光に包まれている暗冥の世界らしからぬ、赤を侵食する青色だった。


「なに、あれ……」


 和奏が呆然と呟きながらそれを指さすと、冴良も驚いたように固まった。


「炎……?」


 確かに、あの揺らめく、しかし確実に大きくなっている光は炎のように見える。しかし、角度の問題でよくは見えない。

 しかし、一つだけわかることがある。


「あっち、体育館がある方向じゃ……」


 今日も美蘭が向かったはずの、体育館があるはずの。

 その瞬間、弾けたように冴良が扉を掴んで、開こうとした。けれど、その動きは何かに縛り付けられたように止まる。悔しげに、強く薙刀を握りこんだまま、彼女は動かない。その背中は、わずかに震えていた。


「とりあえず、逃げよう」


「えっ? え?」


「あたしだって、死にたくない。定められた運命なんて黙って受け入れてやんない。今までも抵抗してきたんだから、今回だって同じ」


 まだ状況がわかっていないのに更にわからないことを言われて、和奏は混乱を見せた。そのまま冴良に腕を引かれて廊下に飛び出す。


「……⁉︎」


 廊下の窓から、校庭が見えた。青い炎が燃え盛っている、校庭が。その光景に、和奏は凝然と息を呑む。

 本来、砂は燃えない。だから校庭なんて燃えるはずもない。避難訓練などで火事が起きた想定をする時、避難する場所はいつだって校庭だ。それは、いくら校舎が炎に巻かれても校庭は燃えないからだ。

 だというのに、校庭全体が燃えている。まるで薄っぺらい紙が燃え尽きていくかのように端から形を失って、虚無が顔を覗かせる。炎の広がり方も、まるきり紙のそれだ。


「外は無理ってわけ……」


 冴良は一瞬足を止めて忌々しげに校庭を見下ろして呟いた後、廊下の奥へと走り出す。

 図書室があるのは校舎の最上階。ここより上はない。しかし、下に行っても凄まじい速度で広がっている炎に巻き込まれるだけだろう。

 冴良に腕を引かれて赤黒い、しかし青い光に煌々と照らされつつある廊下を走り抜けた。突き当たりにある、下に続くもう一つの階段。その天井には正方形の扉がついており、梯子がかかっている。


「ここから屋上に繋がってる。避難しよう」


 冴良に急いたように言われて、梯子を駆け上った。視界の端で揺らめいた青い色彩には目を瞑って。

 なんとか屋上へと登り扉を閉じたはいいものの、そこから見た景色は凄絶だ。

 今までは世界の終わりのように赤い空と、禍々しく赤黒い光を放つ太陽、そしてその下にある学校の全景があった。しかし今や、その世界は変わり果ててしまっている。

 体育館を発生源とした炎は瞬く間に広がり、今や校舎のほとんどを燃やし尽くしてしまって、しかしなおも勢いを強めている。まるで絵本のように燃え尽きてぽっかりと穴が空き、そこから無明の虚無が見える。世界の果てのような、本の表紙に覆い隠された裏表紙のような、何もない場所。いいや、そこは場所ですらないのかもしれない。それはただの、何でもない虚だ。

 陽光や、地面や、おそらくは空気さえも、存在しない。理すら通用しない。そんな、宇宙ですらないような、規格外の空間。それがぬうっと顔を出し、こちらを飲み込まんと大口を開ける。全くの別世界が広がっているような錯覚すら抱かせる、星すら絶えた宇宙の最奥のような。

 身長をゆうに超える高さのフェンスを掴み、校舎を見下ろしてみると、ほとんどが燃えて虚無に飲み込まれている。そして炎は四階、図書室があった階にまで届いている。それもすぐに燃え尽き、この屋上まで届かんとしていた。熱さは全くないものの、無限に広がる黒を塗りつぶしたような無明と眼前まで迫ろうとしている炎に恐怖心が煽られる。


「ひっ……⁉︎」


 和奏は思わず後ずさってフェンスから身を離した。冴良は対照的に、硬い表情をしながらも舞った青い火の粉に触れる。


「……っ」


 熱くは、ないのだろう。彼女は反射的な反応を見せなかった。しかし、青い炎は一瞬だけ、冴良の掌に燃え移る。その瞬間に、冴良の手は燃えた。肉だとは思えない匂いと速度で焦げたのだ。

 すぐにはたいて消火したので事なきを得たが、半径二センチほどの円形の燃え後が残る。冴良は苦々しい顔をして、「燃えたら生き残る術なし、か」と呟いた。その不吉な言葉に、和奏は言葉を失う。


「さ、冴良ちゃん……どうしよう……」


「そう、だね。どうしよう」


 冴良も流石に、こんな状況で打開策なんて思いつかないのだろう。口元を抑えたまま、薙刀を強く握り込んだ。


「私達……死ぬの?」


 和奏は不安げに口に出した言葉に、更に恐怖が増した気がした。

 こんな。燃え滓すら世界の端に消えていくような。

 そして、現実ではたった一人で自殺する。友もなく、家族もなく、たった一人で。きっと、悼まれることすらなく。


「……そうだね」


 そして、冴良が無慈悲に和奏の言葉を肯定したことで、和奏は絶望に叩き落とされた心地になった。

 しかし、冴良の口からなんてこともないように吐き出された次の言葉に、和奏は目を見開いた。


「ただし……死ぬのはあたしだけ、だけどね」



 ピキリと、何かが割れるような音がした。

 あるいは、何か結晶が出来上がるような。



「どういう、こと……?」


「業田和奏さん。あなたは死なないよ」


「なんで……」


 自分が生き残るのは、嬉しいに決まっている。しかし、安堵より困惑が先にきた。どうして和奏が生き残って、冴良はそうではないのだろう、と。


「なんで、って言うなら、こう答えるしかないよ。『そういうシナリオだから』」


 この状況下では悪趣味というより意味がわからないとしか思えない物言いに、和奏は更に当惑する。


「シナリオって……そんなこと!」


「この言い方はわかりにくい? ……あたし、母親から文才は受け継いでないからなぁ。というか、受け継がれないのは当然か。まぁいいや。どうせあたしはここで終わりだし」


「また、そんなこと!」


 どうして最初から諦めているかのような態度なのか、和奏には全くわからなかった。わからないことばかりだ。冴良はいつも物知り顔をしているのに、どうしてそんなにも口数が少ないのか。


「シナリオって言葉が解りづらいなら、『未来』って言い換えた方がいいかな。もう既に確定した、人間の物語。あなたが思っているよりもずっと未来。それをあたしは知っている。だから、これは既定路線なんだよ」


「未来……? 既定路線……?」


 ふと、一つの可能性が頭をよぎった。

 この暗冥の世界では、それぞれの人間が全く別の年代から来ていた。

 和奏は二◯一◯年。

 陽波は二◯一一年。

 虎珀は二◯一三年。

 美蘭と作玖は、二◯一九年。

 そして冴良は、二◯三◯年の、ずっと未来。

 もしかして。


「冴良ちゃんは、私の未来の姿を知ってるの……?」


 二◯三◯年だと、和奏は齢三十七、八になっている。そこまで和奏が生き延びていて、冴良と会っていたら。三十七歳の和奏が、生きていると知っていたら。

 和奏は必ず、その歳まで生き残ることになる。本当に、冴良にとっては『確定した未来』なのだ。

 だからって。


「どうして、冴良ちゃんが死ぬことになるの……?」


「死ぬよ。だって……この暗冥の世界は、それが終わりの条件だから」


 冴良は薙刀を抱き締めるように握りながら、なぜだかひどく穏やかな顔をしていた。


「そういう、シナリオ?」


「そう。そういう、シナリオ」


 冴良の声は、冷め切っている。とうに諦めていたように。それか、何も恐ろしくなどないように。


 ぴきり、と音がした。ほんの些細な音だった。


 冴良の手の中で、薙刀が淡い光を放っている。その気配で、悟った。冴良が常に持ち歩いているあの薙刀は、『卒業』の資格だ。虎珀の鋏、作玖の缶切り、それと同じ。あの薙刀でなら怪異を撃退できたのも、それが特殊な薙刀だったからだろう。

 更に言えば、冴良は半年以上この暗冥の世界にいる。虎珀より前に来ていたのだから、そろそろ半年以上は経つ頃なのに、彼女は卒業する気配すら見せていなかった。


「冴良、あなたは……」


「気がついた? ……あたしは、この世界の特別。あたしが怖いのはいじめっ子でもいじめられっ子でも、その他の何ものでもない、この世界だけ。安賀繚乱が描いたこの世界だけが、あたしの恐ろしいもの。……そのせいで、この世界は赤黒く染まってしまっているの」


 この世界では恐ろしいと思っているものが具現化する。そして、冴良は通常の期限である半年を超えても卒業ができない特殊な人間。だから、彼女の恐怖の対象が常態化してしまって、暗冥の世界はこの有様になったのだ。

 そこでようやく、和奏の日に校舎から赤黒い光が消え失せて不気味な気配が消える理由がわかった。

 和奏が、全てを怖がっているから。この暗冥の世界自体を、ひどく恐ろしいと思っているから。それが冴良のそれと混じり合って、打ち消しあった結果校舎が普通の風景になったのだ。


「あたしはこのシナリオの重要な登場人物。これはとうの昔から決まり切った脚本。あなたは生きて、あたしは死ぬ。それが宿命。……これは、あたし達の死に意味を、物語を与えるシナリオなんだから」


 ぴきり、と音がした。どこか現実感がなかった。


「そう……これは、あなたが描く物語。あなたが、あたしの死に納得するための物語」


 ぴきり、と音がした。足の先に、何かが触れる感触。

 反射的に見ると、円形に自分を囲むように、氷が出現していた。

 それはぴきりぴきりと音を立てながら結晶を大きく成長させていき、壁を作り始める。和奏と他を隔てる、冷たい壁。


「っ……⁉︎」


 急速に成長し、それはあっという間に和奏を包み守る壁になった。和奏は全身を卵の殻のような氷に囲まれて、外界と完全に分たれた。

 それはつまり、和奏と冴良を分けたということだ。


「冴良ちゃん……っ!」


 和奏は氷の壁を叩く。ひんやりと心地よく冷たい。見た目は脆弱な薄氷なのに、それは固く、硬く、堅い。

 なぜだか優しく朗らかに微笑む冴良の後ろで、一際大きく炎が巻き上がった。いつの間にか階下からの火が天井、屋上にいる和奏にとっては床を突き破って侵食が始まっている。それも、恐ろしいほどの速度で。もう時間がないのだと悟らざるおえなかった。


「冴良ちゃん! やだ、やだやだやだ! 冴良ちゃん! 死なないで、置いていかないでっ!」


 いつの間にか、瞳からは涙がこぼれ落ちていた。目の前で冴良が燃えていく。目の前で、冴良が死んでいく。死を象徴する青色の炎が、冴良を連れ去ってしまう。

 薄氷の壁を叩いても、それは割れない。ささくれ立っていて、腕を叩きつける度に柔肌を突き破り肉を傷つける。だくだくと流れ落ちる血が氷を濁らせ汚すが、それでも氷は頑なに世界と和奏を隔てている。


 和奏にとって、世界はいつでも薄氷に包まれていた。


 彼女と、彼女を取り巻く恐ろしい世界を隔絶する、薄くて冷たくて脆くて、けれども人を寄せ付けないほどに鋭い薄氷。その中で微睡みながら、ひたすらに恐怖の感覚を冷たさで麻痺させて誤魔化す。

 そのはずだった。それは、和奏の防衛本能だった。厳しくて冷たくてどうしようもなく辛い世界から、逃避するための。

 世界から和奏を守るための盾はしかし、今度は和奏を捕らえて離さない檻になってしまっていた。今すぐ飛び出して目の前の光景をなんとかしたいのに。何もできなくとも、せめて燃え尽きようとしている冴良に触れて、その最後の感触を覚えていないのに。

 今まで世界から和奏を守っていた薄氷が、それを赦さない。


「おねがい、冴良っ……!」


 さら。さら。さら。何度もその名前を呼ぶ。それは自分の慟哭で、誰かの嘆きだった。死なないでという、懇願だった。

 薄氷に触れた。その向こうにいる冴良に触れようとした。

 触れない。ただひたすらに、無機質な冷たさ。

 冴良の足先に炎が移る。そこからは、一瞬だった。あっという間に炎が下半身を呑み、上半身まで迫り上がる。

 冴良は微笑んだ。誰かに似ている、どこか見たことがある微笑みだった。自分の体が燃えているのに、もうすぐ死んでしまうというのに、それは心からの穏やかな笑み。

 冴良が薄氷に触れる。一センチほどの厚みの氷越しに、二人の手が重なる。そのくせ温度は全く伝わらなくて、堅牢な冷たさが掌を刺すだけだった。


「ごめんね。何も変えられなくて。誰も救えなくて」


 自分も虎珀も、美蘭も、死んでしまう未来を知っていたのに。この世界で何もできなくて、シナリオを覆せなくて。


「……ごめんね。今までありがとう、おかあさん」


 言い終わると同時に、冴良の体は完全に炎に包まれた。青い炎が人と同じ大きさに膨れ上がり、すぐに小さくなっていく。後に残ったのは、ほんの少しの灰燼。それもすぐに階下に、無明の虚無に続く穴に降り落ちていって消えていく。

 最期に見えた表情は、どこか悔しさを織り交ぜた、しかし満足げな泣き笑いだった。


「冴良っ……! さら、冴良⁉︎ 冴良、さら、冴良……」

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