第32話

 その日、また美蘭は暗冥の世界に訪れた。

 廊下は赤黒く染まっており、影絵のようにのっぺりとした世界の中をつかつかと足早に歩いた。お飾りのような音楽準備室に入ってギターを一本引っ掴む。傷だらけで、あちこちへこんだギターが一本、美蘭を待ち受けるかのように立てかけられていた。

 その一本だけを持って、体育館へと向かった。廊下の隅に並んで背中を向けている『盲』をまるきり無視して。向こうも自分を無視しているのだから、自分だけ『盲』達を怖がってやる理由はない。

 アンプは舞台の袖に置かれている。それを引き摺り出してギターに繋ぎ、すぐに弦を弾いて音楽を奏で始める。いや、それは果たして音楽と言っていいものかも定かではなかった。単なる音の繋がりのような、人間の絶叫のような、そんな音だった。

 ひたすらひたすら、ギターの弦を弾く。叫ぶように、哭くように。


 俺を見ろ、と。


 いや、違う。

 本当に見て欲しいのは、『漆原美蘭』ではない。

 美蘭はただ、何者でもない自分を見てほしいだけなのだ。


 母を癒せなかった失敗作でもない。高校生の天才ギタリストでもない。

 純然たる『漆原美蘭』という存在を。その刹那の在り方を。なんの先入観もない目で見て欲しかった。そうして、なんの混じり気もない賞賛が欲しかった。純然無垢な『漆原美蘭』の肉に包まれた存在を、認めて欲しかったのだ。

 いいや、そこには名前すら必要がないのかもしれない。ただそこにいるギタリストを、純粋に褒めて欲しかった。美蘭には、ギターしか、音楽しかないから、それだけしか認めてほしくない。

 そういった意味では、虎珀や作玖が美蘭に注いだものは、美蘭が求めているものに一番近かったのだろう。美蘭という人間の立場なんて関係なく、純粋にギターの腕を褒めていた彼らは。

 俺の音楽を聞け。俺という存在を、認めてくれ。

 そんな衝動にも近い願いを込めながら、ひたすらギターを鳴らした。雷鳴のように唸り、空気がビリビリと震える。

 気がつけば、体育館が人で満ちていた。そして、美蘭の音楽を聴いていた。

 それは、『盲』だった。不定形でかろうじて人の形をとっているそれが無数に集まってひしめき合い、両手を挙げている。それは礼賛をしているようで、美蘭を崇めているようで、どこか宗教的ですらある。窓から差す赤黒い光は、一色に塗りつぶされたステンドグラスのようだ。

 呆然と、その光景を眺めた。『盲』に目はなく、口もなく、耳と思しき突起も歪んだ形で、五感があるのかすらわからない。けれど、確かにその時、自分の音楽が聴かれ、受け入れられた気がしたのだ。

 それは、美蘭にとっては自分という存在を赦されたかのような心地だった。


「……はは」


 掠れた笑いが唇からこぼれ落ちる。

 こんな場所で、叶うなんて。

 そう思った瞬間だった。


 ジリリリリリリリリリリリリリリリリ!


 そんな、聞いた者の恐怖心を本能的に煽る音が、校舎全体に鳴り響いた。


「っ、⁉︎」


 思わず片耳を塞ぎながら、美蘭は凝然と息を呑む。この音には聞き覚えがあった。学校で行われる避難訓練。そこで鳴らされた、火災警報と同じだ。

 『盲』達が、一斉に後方を見た。美蘭なんていない者のように、一様に背後に視線を向けた。

 今まで美蘭を見ていた目線が、別のどこかを見てしまう。


「やめろ」


 それがひどく、恐ろしい。

 他人に認められた自分が、その実取るに足らないものだと思い知らされるようで。


「やめてくれ」


 自分の価値など、その程度なのだと言われているようで。


「俺を、見てくれよ!」


 叫ぶと同時、体育館の壁と屋根の一部が、どろりと溶けた。

 いや、正確には違う。炎が、瞬時に燃え広がったのだ。青い炎が。

 体育館の壁は、まるで紙でできているかのように瞬時に燃え広がり、燃え尽き、その形を失って炎に呑まれた。建物を呑み込んで、青い炎は勢いと強さを増している。いとも簡単に。

 『盲』は、逃げることをしなかった。惑うことも、叫ぶことも。ただただ、そののっぺりとした顔を向けて炎の前に立っているだけ。その視線が美蘭に向けられることはない。

 炎は大きくなる。燃えていく。何もかもを燃やし尽くさんばかりに。

 その時、ふと姉の姿が脳裏によぎった。幼い頃に自分に音楽を教えてくれた、父違いの姉。

 けれど、とある日から彼女は美蘭を見なくなった。あからさまに関わらなくなって、幼き日の美蘭は思った。

 ああ、また自分は、求められていたことをできなかったんだ。

 母を癒すことができなかったように、和奏も美蘭に何かを求めていて、そしてそれを美蘭はできなかったのだと。だから失望されて、避けるようになったのだろう。

 そう思った。今でもそう思っている。

 自分はやはり求められたことは何もできない役立たずで、失敗作で、けれどそんな自分を認めてほしくて。失敗作でも、自分を受け入れてくれる誰かが欲しくて。


「……あぁ」


 絶望したような吐息をこぼす。

 自分はそれを、手放してしまった。

 いいや、あの時、缶切りで作玖と繋がる糸を切ったことは、後悔していない。だって、あのまま作玖を縛りつけたって、どちらかの卒業あるいは死という形で別れはくる。だったら、あれが一番納得と安心が得られる選択肢だった。

 だから、恨むべきはこの世界のシステムなのだろう。この世界の記憶が現実でも引き継がれたなら、美蘭はきっと、作玖に会うことができたのだ。

 体育館が、観衆が、全て炎に呑まれていく。その中で、静かに悟った。

 怖いものは、これだ。

 美蘭は、炎がたまらなく恐ろしかった。

 別に火事に遭ったことがある訳でも、大きな火傷をしたことがある訳でもない。むしろ、震災などで起きた大規模な火事の映像を見ても、どこか他人事でぞっとしなかった。

 だから、別に熱さや、光や、人を殺しうるところが怖い訳ではない。

 その理由は明確だった。炎は、単純に人の目を引くからだ。

 炎とは人間の本能的な恐怖を煽るもの。眼前に燃えている建物があったら、誰だってそちらを見てしまう。

 美蘭なんて、誰も見なくなる。炎に釘付けになって、炎の前では美蘭の存在なんて霞んでしまって、意識の外に追いやられてしまう。認める認めない以前の問題だ。

 それに、炎は美蘭の周囲の人を変えてしまった。

 業田和奏を、炎が変えてしまった。

 だから美蘭は、炎が嫌いだ。怖い。恐ろしい。自分の周囲を燃やし尽くして奪い、その熱と燦爛たる光に目を奪われてしまう。そして美蘭は、自然現象であるそれに決して勝てないのだ。

 いつの間にか、青い炎が美蘭の周囲を取り巻いていた。彼を中心とした円形の中だけ、炎は侵食せず燃え盛っている。不思議と、熱さは感じなかった。ただ、煩わしさだけが纏わりついている。

 炎に触れた。熱くない。痛くもない。何も触れておらず虚空を掴んでいるかのような感覚なのだが、肌の上で青い炎が幻影のように燃えている。

 それがふと、何か形あるものに触れた。手繰り寄せて、掴んで、引き寄せてみる。

 火傷一つない手に握られていたのは、ニッパーだった。美蘭にはギターの弦を切るしか用途が思いつかない道具だ。炎の中にあったというのに、それは全く熱くなく、むしろ金属の冷ややかさを保っていた。

 それを握ると、自分の周囲に赤い糸が見えた。それはぐるぐると周囲に渦巻いており、時折ほつれて絡まりながらも美蘭の周囲に漂っている。

 これをニッパーでぷつりと切ってしまえば、『卒業』だ。美蘭は無感情に、糸をニッパーに挟み込んで持ち手を握り、閉じようとする。ニッパーは本来金属の線を切るためのもので、糸を切るのには適していない。鋏の一種ではあるが、糸切り鋏を使うのが最適である。

 しかし、切れるものは切れる。特に、こんな細い糸ならば簡単に。

 けれど、美蘭は静かに手を下ろした。糸を切らないことを選んだ。

 その瞬間、円形に切り取られたかのような炎が侵食し始め、あっという間に美蘭の周囲を取り巻き始める。

 青い炎は、やはり触れても何も感じない。けれど、触れた箇所から紙が燃えるように燃え移り、どんどんとその面積が大きくなる。

 自分の肉体が燃えている感覚は、全くなかった。決して人体が燃える速度ではない速さで炭と化し、ぽろぽろと崩れていく体。それはひたすらに非現実的で。


「……ごめん、母さん」


 何一つ役目も、自分がやりたいことすら果たせないままで。


「ごめん、父さん」


 せっかく、自分の未来を考えてくれたのに。


「……和奏姉ちゃん、冴良」


 きっとこの炎は、この世界を取り巻いてしまう。巻き込んでしまって、ごめん。

 そんなことを思っているうちに、炎はとうとう美蘭の首を燃やし始めた。脚が燃え尽きて形が消失し、立っていられなくなって床に寝転がる。

 痛くはないのに自分の体が壊れていく奇妙な感覚に、美蘭は静かに目を閉じた。


 それが、漆原美蘭の懊悩と欲望に塗れた人生の終わりだった。

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