第29話

 和奏とみらんという、少し歪な関係の姉弟の関係性は、一ヶ月ほど続いた。学校が終われば合図も約束もなく公園に集まる。そして夕方になれば、二人ともそれぞれの家に帰る。

 半ば狂いかけた母しかいない漆原家と、和奏だけが冷遇される業田家。二人の境遇は全く違うものだけれど、こうして要所のみを比較すれば案外似ているのかもしれない。

 この一ヶ月の間で、みらんはギターを始めた。

 音楽の教諭にギターについての質問をしているという話を偶然別の教師に聞かれて、家で使っていないギターを譲ってもらえたらしい。

 その教師の子供が音楽が主題となっているアニメにハマり一時期使ってはいたものの、今では全く使われずに家で埃をかぶっていたものらしい。値段もバイトなどをしている高校生ならば手が届く範囲で、整備もあまりまともにされていないという、はっきり言ってボロいものだったが、それでも無料で譲ってもらえるのは破格だ。

 みらんは音楽教諭や和奏のスマホで弾き方を勉強しており、流石幼い子供というべきか、吸収が恐ろしく早い。家では母親がいるため練習ができないから、それ以外の場所で集中しているのだという。

 和奏はギターの巧拙などわからないが、少なくとも日を経るごとに弦を弾く手からぎこちなさがなくなっていっていることくらいはわかった。


 みらんは日々変わっていく。成長していく。

 その姿を見るたびに、自分は一体何をしているのだろうかと思った。


 自分は何も変わらないまま、本当はすべきではないのに何度も会って親交を深めて。

 みらんから音楽を奪ったのは自分の存在なのに、奪ったものを与え直しただけで感謝をもらうなんて、とんだマッチポンプだ。

 毎日、今日はあの公園に行くべきではないと思う。帰路を変えて、公園なんて視界にも入らないようにした方がいいと。しかし、いつも気がつけば脚はいつも通りの道を辿っており、その道中にある公園の前に立ち、ベンチに座ってギターを抱えるみらんを視界に入れてしまうのだ。

 そんな奇妙な姉弟関係を続けていた、ある日だった。

 曰くつきの一家の女子高校生と、周辺地域の者ではない小学生。その姿は、二人が思っているよりも悪目立ちしていたらしい。二人の噂が、和奏の祖母までとうとう届いてしまった。

 みらんのギターの練習に付き合って、通例通り夕方に帰宅する。しかし、その日の家の様子はいつもと少し異なっていた。

 リビングでは祖母が和奏を待ち受けるように仁王立ちしており、にやにやとした厭らしい、意地の悪い笑みを浮かべていたのだ。


「あんた、小学生の男の子に手ぇ出してるらしいじゃない」


 祖母は開口一番にそう言った。

 和奏は一瞬、何を言われているのかわからなくて硬直した。その無言をどう取ったのか、祖母は更に声を大きくする。


「しかも地域の外の子供誑かして、公園なんて公衆の面前で。ああいやらしいいやらしい。公序良俗も弁えないなんて」


「なっ……」


 そこでようやく、和奏は祖母が勘違いをしていることを理解した。いや、意図的に曲解して和奏への嫌がらせの理由にしたいだけかもしれない。兎にも角にも、当て擦りをされていることは確かだった。


「光源氏なんて現代でやっても倫理的におかしいんだから。全く、そんなこともわからないなんて。頭のおかしい嫁の娘も頭がおかしいのね」


 いつもこうだ。祖母は自分への悪口をいつも母に絡める。執拗に母の人格も行いも否定する。

 それに対して「じゃあ人の陰口が大好きなおばあちゃんのお母さんは随分性格のいい方だったんですね」と返したことがあるが、その時は烈火のように怒られ、怒鳴り散らされた。

 だから和奏は、それを黙って聞いてるしかない。目の前でつらつらと悪口を吐き続ける祖母の言葉を右から左へと受け流す。

 ふと視線を逸らすと、ソファに座ってゲームをしていた弟がこちらを向いていた。無関心ではないが、どこか冷めた瞳だ。目があった瞬間、彼が嗤った。


「姉ちゃん、キモ」


 和奏に当てつけと皮肉を言うことに夢中な祖母は、それが聞こえていなかったようだ。未だにぎゃあぎゃあと罵詈雑言を尽くしている。


 弟の言葉が、脳内でリフレインした。

 そして、同時にみらんの姿が浮かび上がる。

 姉ちゃん、と無邪気に見上げて呼んでくる、もう一人の弟の姿が。


 その瞬間、自分の中にある何かが軋みをあげた。いいや、本当はもうずっと前から軋んでいたのだ。和奏自身が見て見ぬふりをしていただけで。

 みらんが呼んでくれる「姉ちゃん」と、弟が呼ぶ「姉ちゃん」は全く違う。その差を知ってしまったから、弟の「姉ちゃん」がとてつもなく醜い蔑称のように思えてしまって、耐えられなかった。これ以上、同じ血が流れているだけの弟に姉と呼ばれたくなかった。

 それに気がついた瞬間、和奏はもう限界を迎えた。ずっと軋んでいた心のどこかが、小石を投げ込まれたことで瓦解した。そうなってしまえばもう収拾はつかない。


「和奏? ちょっとどこに行くの、和奏!」


 祖母の静止の声は無視した。踵を返して玄関まで向かい、荷物が入っているスクールバッグを引っ掴む。ここには財布やスマホ、筆記用具が入っているので、これさえあれば当面は大丈夫だ。

 和奏は、家の扉を乱暴に閉めた。夜に近づいている薄闇の中に身を投じる。

 まず、服を着替えなければ。着の身着のまま来てしまったので、高校の制服のままだ。このまま夜の町を歩いたりネットカフェに行ったりすれば、補導されてしまう。

 適当なアパレルショップで安い服を買って着替える。そして、一ヶ月ほど前に一度泊まったネットカフェに年齢を偽装して泊まった。

 もう二度とあの家には帰らない。その覚悟で。脚がようやく伸ばせるくらい狭く薄暗いの空間の中で、和奏は小さく溜め息を吐いた。

 きっともう、みらんには会わない方がいい。高校はどうしようか。あと一年半、親に頼らないまま通い続けることは可能だろうか。そもそも、和奏の所持金は今財布に入っている一万円と少ししかない。一人で生活していくとなったら、こんな端金はすぐに消し飛んでしまう。

 どうしようか。一人で生きていけるだろうか。そんなことをぐるぐると考え続ける。このままたった一人で生きようとする恐怖と、あの家で自分の尊厳をなきものにされ続ける生活への恐怖。その天秤がずっとグラグラと揺れている。


「……何か、一攫千金の機会は……」


 幸い、ネットカフェにはパソコンがある。一気に百万、などとは言わない。せめて小さな家でも借りれるくらいのお金があれば、そこからバイトをするなりしてお金を稼げばいい。敷金礼金など諸々含めて、十万円以上は必要だろうか。

 頭の中で生きていくのに必要な金額を計算していくうち、自分の世間知らずさと無計画さに腹が立った。何か新しいことをしようにも、怖くて足を竦ませているうちに諦めの感情が勝っていくことが多かった。そのせいで、和奏はひどく人生経験に乏しいのだ。

 あまり使い慣れていないパソコンを操作していると、ふと一つのサイトに行き当たった。

 それは、小説の賞に関するサイトだった。新人の小説を募集しており、ジャンルは問わず。受賞した作家は即デビュー。賞は金賞、銀賞、銅賞、とあり、賞金は上から三百万円、百万円、五十万円だ。


「五十万円もあれば……」


 五十万円もあれば、最低でも一ヶ月は生きていける。デビューができるなら、小説家として生計を立てることだって夢ではない。出版業界がそう甘くはないのは知っているが、こういった一発逆転の機会を手にしないとあの家から完全に離れることは不可能だろう。

 問題は、賞に出す小説だが。

 和奏はスマホを起動した。中古で安かったものだから動きは重たいし画質は荒い、充電の減りも早い。おまけに画面はひび割れているという粗悪なもので、容量も少ない。

 けれど和奏はゲームなどの趣味はないので、幸い容量を大きく占めるアプリは入れていない。だから、和奏はそれを書き上げられたのだ。

 そこにあるのは、和奏が書き上げた一本の小説だった。

 和奏はひどく臆病な少女だから、その怖がっているものを自分の語彙力を尽くして表現し、それを物語としてなんとか成り立たせたものだ。言葉は辞書から引用したものばかりでぎこちなく見えるし、話もどこかで見たようなものだ。

 自分の恐怖体験を練り込むことでなんとかオリジナリティらしきものを出しているだけ。それでも、自分が怖がっているものを、将来への不安を、言葉にすることで解消できないかと試みた結果に完成した作品だ。ほんの少し、自信はある。

 賞の締切はほんの数日後。そして結果発表は、五ヶ月後だ。選考には時間がかかる。

 この五ヶ月を、どう乗り切るかだ。ホームレス生活をしたって食費を切り詰めたって、一万円で五ヶ月を乗り切るのは不可能だろう。この期間を、どうやって一人で生き延びよう。高校も、どうしよう。

 そんなことを考えていると、疲労が出たのだろうか、段々と瞼が重くなっていく。そして、後から後から体の内側から凍りついていくような恐怖が襲ってきた。

 餓死するかもしれない。野垂れ死ぬかもしれない。あの家に連れ戻されるかもしれない。そんなことを考え続けてしまって、とてつもない不安が体を芯から冷やしていく。

 制服のブレザーに包まって、幻の冷たさを掻き消そうとした。しかしそれは全く消える様子すらない。


 和奏は、ひたすら耐えるしかなかった。冷たく自分を刺す、孤独から。



 その三日後、和奏に転機が訪れる。最悪で最高で。絶望的で、しかし和奏にとっては希望で。

 和奏は、一人で生きていくことになった。

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