第28話
「それ、なぁに?」
和奏はみらんが抱えているものを指差して、首を傾げる。
業田家近所の公園で、美蘭はベンチに座って佇んでいた。手にはウクレレを持っていて、適当にジャンジャンと掻き鳴らしているらしい。そんな姿を見かけて、和奏はつい声をかけた。
みらんは今までウクレレに集中して和奏の存在に気がついていなかったようで、声をかけられて目を丸くしていた。そしてウクレレを掲げながら、「ギター」と短く答える。
「ギター……?」
それはどう見たってウクレレだ。サイズは幼く小柄なみらんが一抱えするほど。ギターならもっと大きいはずだ。和奏は楽器には疎いが、それくらいならわかる。
「それ、ウクレレっていう別の楽器だよ」
「えっ」
「弦楽器ってところでは仲間だから、勘違いしちゃったかな。お母さんは教えてくれなかった?」
みらんは俯き、小さく頷く。その表情が暗くなったので、訊いてはいけないことを訊いてしまったかと和奏は思った。しかしみらんはそのまま続けた。
「これ、家にあった。お母さんが昔持ってたんだって。けど、お母さん今、おんがく嫌いだって」
「音楽が、嫌い?」
変わった趣味嗜好だと和奏は思う。そして不思議なことに、思い返してみたが、母が音楽嫌いだった記憶はなかった。
朧げではあるが、児童用の番組の曲や童謡を一緒に歌った記憶がある。クリスマスなんかはツリーの飾り付けをしながらクリスマスソングを流したものだ。
「どうしてか、わかる?」
「わかんない。かなでるの、嫌だって」
かなでるのが嫌。奏でが、嫌。
和奏の漢字には、奏でるという字が入っている。もしかして、そのせいなのだろうか。
和奏が思案に耽っている最中、みらんは適当に弦を弾いていた。弾き方もまともにわからないのだろう。よくよく見ればみらんの傍には埃を被ったウクレレのケースが放られていて、長らく放置されていたとわかる。母は音楽が嫌いだと言っていたし、弾き方など教わることはできなかっただろう。
「ギターって、どんな音ですか?」
みらんがこてんと首を傾げた。
「知らないの?」
「学校の音楽の時間できくの、ぴあのとかばっかりです」
小学校の音楽室には様々な楽器が置かれていた覚えはあるが、合奏などに使うようなものばかりで確かにギターがあった覚えはない。教科書には載っているかもしれないが、それだけでは音色はわからない。
「ちょっと待ってね。聞かせてあげる」
和奏はスマートフォンで動画を流した。検索欄の一番上に出てきた、おそらくは今の流行りなのであろうバンドの曲。
そこにはギターだけでなく、ドラムやベースの音が折り重なっていた。音楽を聞く機会自体乏しく、耳に入るとしても童謡が多いみらんにとっては、暴力的にすら感じるだろう。
耳が痛くなったりしていないだろうか、とみらんを見遣ってみるが、画面を覗き込んでいる彼の表情は見えない。何も反応もなく、ひたすらに画面に釘付けになっていた。
動画の再生時間は約四分。動画が終わって、画面が暗くなる。
「……っす、」
「す?」
「すっ、ごい……!」
顔を上げたみらんの瞳は、宝石のように光り輝いていた。大きな瞳が憧憬の光に照らされて、和奏をまっすぐに見つめる。
「お姉さん、もっと! もっとほかの見せて!」
「えっ……まってまって」
体を揺さぶられながらねだられて、和奏は他の動画を再生する。これもまたあまり詳しくない曲だが、みらんはまたその音楽に魅入られていた。
一体どれほどの時間、そうしていただろうか。薄暮が近づいてきた頃にようやくスマホの充電が切れて、みらんは落胆しながらもおとなしく諦めた。
「ギター、気に入ったの?」
みらんは瞳を輝かせながら叫ぶ。
「きにいった!」
そう、と和奏は曖昧な答えを返す。もし自分がギターを持っていたらみらんに譲っていただろうが、生憎和奏は無趣味なのだ。ギターなんて彼女自身はおろか、他三人の家族すら持っていない。
「中学生か高校生になったら、部活でやるといいよ」
辛うじて、そう返すしかできなかった。
「私、そろそろ帰らなきゃ。ばいばい」
帰らねばならないというのは嘘ではない。今日は祖母から夕飯を作るように申しつけられている。ここで逆らったらまたヒステリックに怒鳴り散らされるのだ。
けど、純粋にそれだけかと問われれば、そうではなかった。やらなければならないことを言い訳に、本当はみらんと早く別れたいだけだった。
そそくさと立ち上がって歩き出そうとすると、背後から「待ってください!」と声がかかる。振り返ると、みらんがもじもじと自分の両手の人差し指を絡ませていた。
「あの……和奏姉ちゃんって呼んで、いいですか?」
「え」
「それからそれから、ふつうに話してもいいですか……?」
懇願するように見つめられた。大きな瞳で、意識はしていないだろうけど上目遣いで。和奏は、子供の頼みを断れるほど無情ではなかった。
「……いいよ」
みらんは無邪気に咲って、はしゃぎ、立ち上がってぴょんぴょんと跳ね回る。その様子を、和奏は無感情に見つめた。
本当は嫌だ。
和奏に子供の懇願を無碍にできる勇気がないのは本当だ。しかし、それは決して快諾ではなかった。結果的にはであるしみらんにそんな意図はないだろうけど、彼は和奏の善意に漬け込む形で己の願いを叶えたのだ。
正直、和奏はあまりみらんと関わりたくない。
なぜだかわからないけれど、彼を見て彼と喋っているだけで、和奏の胸中にはもやもやとした苛立ちにも似た感情が湧き出る。そして心に暗い影を落とし、暗澹たる気分にさせるのだ。
みらんに話かけたのは、彼が和奏を待っているとわかったからだ。そうでもなければ話かけなんかしない。仮に街中ですれ違って和奏だけが気がついたのなら、和奏は絶対にみらんに声をかけないだろう。
けど、みらんが家で音楽を聞けない理由を知った時、なんとなくわかった気がした。人間は、幼い頃に強いられた理不尽や抑圧された欲の盲者となると聞いたことがある。
その理論でいくと、みらんは将来、音楽に没頭するかもしれない。彼がそれの最大幸福なのか、彼自身もわからないまま。そうなったとすれば、それは和奏のせいだ。和奏のせいで、みらんは音楽を抑制されてきたのだから。
つまりこれは、自責だ。
自分がみらんの人生を狂わせている。その意識が無意識的に和奏に根付き、みらんと接触することを忌避させていたのだ。
これ以上彼に関わるなと。この違和感は、つまりは警鐘なのだ。
「ありがとう、わかな姉ちゃん!」
今まで温和丁寧であった態度や口調が砕けて、年齢に相応しい無邪気さと天真爛漫さに変わる。きっとこれが、漆原みらんという人間の素だ。
これを壊してはいけないと、内なる和奏が叫ぶ。
けれど寂しいと、和奏は思う。
祖母は敵で、父は信用が置けなくて、弟は薄情だ。だから、和奏にとってみらんは、現時点で唯一の善良な、血が繋がっている人間だ。
人はきっと、彼のことを家族と言う。和奏の周囲の人間で、一番一般で言う『家族』に近いのは、きっとみらんなのだ。
手放したくない、と強欲にも思ってしまった。
自分の心は彼のために彼に関わるべきではないと言っているのに、和奏は無性にそれに反抗したくてたまらない。
これ以上一人は嫌だと、寂しいと、家族が欲しいと。みらんと、一緒にいたいと。
「……またね、みらんくん」
軽く手を振ると、みらんは弾けるような笑顔を浮かべた。そして、「うん!」と良い返事をして、両手を高く掲げて振った。
公園を出るまで、出てからも、たびたび振り返って和奏はそれを確認した。道を曲がってその姿が見えなくなるまで。みらんは、ずっと手を振ってくれていた。
和奏との別れを名残惜しむように。
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