瓦礫の帝國
鮎川 雅
瓦礫の帝國
あれは確かテレビがカラー放送になる前だったから、まだ一九六〇年代には入っていなかったと思う。
あの頃、大学生だった僕は、当時としては贅沢極まりない、一人でのヨーロッパ旅行を楽しんでいた。当時は国際線旅客機なんて気の利いたものはなかったから、船旅だった。
僕が旅先にフランスを選んだ理由は、何ということはなく、大学で選んだ第二外国語がフランス語だったからだ。
まさかフランスで、あんな魔女との思いがけない出会いがあるとはつゆとも思わずに……。
もともと僕は外務省に勤めたかったのだが、聞いたところによると、外務省に入るには、最低でも三カ国語を手足のように扱えなければならないということだった。僕は英語とフランス語はともかく、もぐりで授業に紛れ込んで受けたドイツ語は人並みにしか上達しなかったので、外務省を諦めたのだった。
ある新聞社から早めに内定を貰えたので、僕は、モラトリアムを満喫しようと、短いながらもフランスへの船旅に洒落込んだというわけだ。ある意味、僕の刹那的な衝動がそうさせたのかも知れない。どうせ僕は、長くは生きられない。そんな思いから……。
一月あまりの船旅を経て、僕は、フランスのパリへ来た。
パリは、確かに華の都だった……その上べだけは。その実、思ったよりも汚い街並みや、品のかけらもないスリやかっぱらいなどのせいで、僕の中のパリ像は、灰色にくすんでしまった。
そのパリで、僕はあるとき、ダメ押しのように、散々な目に遭った。
ある日の日暮れのことだった。ルーブル美術館から宿への帰りに、とある通りで、酔っ払った現地の男たちに絡まれて、裏路地に連れ込まれて袋叩きにされたのだ。奴らは不明瞭だが、東洋人、不潔、出て行けなどと喚きながら、僕に殴る蹴るの暴行を加えた。
石畳の地面にうずくまりながらも、胸の財布とパスポートだけは手放すまいと、身体を海老のように丸めてもがいていた。長く生きられないとかニヒルなことを普段思ってるくせに、こういう痛みからは必死で逃れようとするんだなと、僕は蹴られながら自嘲した。
その時だった。
「いい加減にやめな! さもないと
女の高い声がしたのだ。
そのブロンドの女は、見たところ三十代の半ばごろだった。その女は、妙に胸元や背中を露出したドレスを着ていた。
そして、彼女の話すフランス語には、微かにドイツ訛りがあった。
警察という言葉で我に帰ったのか、チンピラたちは何ごとか捨て台詞を呟きつつ去っていった。
「大丈夫かい? あんた……」
心配げに僕を見下ろすブロンドの女の顔を仰ぎ見て、一挙に安堵感に襲われた僕は、自分でも気づかないうちに、気を失ってしまったのだった。
***
目覚めると、僕を覗き込むように見返してくる、若い娘たちの、顔、顔、顔。
イスラムの教えには、男が死ぬと天国では美女が待っているというが……殴られた全身の痛みが込み上げてきたところをみると、僕はまだ死んではいないらしかった。
美しいが化粧が濃くて、露出の多いドレスを着た娘たちが、一様に安堵したように息をついた。
身体中が痛かったので、目だけ動かして周囲を探ると、薄暗いこの空間は、どこかのバーのような酒場らしかった。
娘の一人が、カウンターの中にいる女に口を開いた。流暢なフランス語だった。
「気がついたみたいよ、
「そうかい。そりゃ良かった」
姐さんと呼ばれた女……先ほど、僕を助けてくれた女が、明るい声を上げた。
僕は僕で、か細い声を上げた。
「
他の娘が言った。
「水はやめたほうがいいと思うよ」
それでも僕が水を欲しがるので、やがてグラスに一杯の水が運ばれてきた。僕はそれを、ひったくるようにして飲んだ。
……痛い、痛い!
口の中の傷口から無遠慮に染み入ってくる水のせいで、口腔内が燃えるように痛かった。
咳き込んでいる僕を見て、あははは、と
そこへ、カウンターの中にいた女が、ぱんぱんと両手を叩きながら言った。
「さあ、もう店を閉めるよ。ほら、帰った帰った。夜更かししないで、明日もしっかり稼ぎに来な」
彼女がそういうと、娘たちは騒がしく店を後にしていった。
「姐さんも物好きだね、ケンカ倒れなんて放っておいてもいいのに」
「こいつ、意外といい男だよ。東洋人だけど」
「あらやだ。姐さん、手をつけちゃだめだよ」
勝手なことを口々に、娘たちは店を出て行った。
僕は節々の痛む身体をなんとか動かして、カウンター席へと移動した。僕と彼女の他に、店には誰もいなかった。彼女は、洗ったグラスを拭いているところだった。
「あの……助けてくれて、本当にありがとうございました」
「おや、フランス語が達者だね」
「貴女も……ですよね?」
それを聞いた彼女は、分からないという様に、小さく小首を傾げた。
僕は、少し悪戯っぽく、口を開いた。
「
彼女は、チラと僕の方を見直した。すぐに、目線を手元に戻して、フランス語で、困ったように聞き返してきた。
「……どうしてドイツ語?」
「貴女は、ドイツ人でしょう? 微かに訛りがありますから」
彼女は、悪戯が見つかった子供のように、照れ笑いをした。
「……東洋人に見破られちゃあ、ざまぁないね」
「
彼女は金色の髪をかき上げた。落ち着いた香水の匂いが、ふわりと漂った。
「なぜ僕を助けてくれたんですか?」
「店の近くで殺しでもあった日にゃ、商売上がったりだからね」
「なるほど、そりゃそうですよね」
「それにしても、あんた鼻がきくね。ひょっとして、新聞記者か何かかい?」
「来年の春から、その予定です。まだ学生なんです」
「ふ〜ん……」
「あの……貴女は、ここでバーを開いてるんですか?」
「バーはおまけ。本業は……このいでたちと、あの娘たちを見たら分かるだろう?」
「……娼婦、ですか?」
恐る恐る聞いた僕に、彼女はこともなげに答えた。
「ご名答。ま、私はもう引退して、もっぱらここで酒を出すだけさ。酔っ払った客は、ここの上の部屋であの娘たちとよろしくやるって訳」
「引退されてるんですね」
「残念だった?」
「とてもお若く見えるものですから」
「あんたは幾つ?」
「二十二です」
「へえ。まだまだこれからじゃないか」
「貴女は、お幾つですか?」
「……女にモテたかったら、歳は聞くもんじゃないよ」
まあ、あんたが私のことを女と見てくれてればの話だけどね、と言いながら、彼女は僕の問いに答えた。
「私、生まれは一九一四年だよ」
「ええっ!?」
僕は思わず、素っ頓狂に聞こえるであろう声を上げた。じゃあ、彼女は、もうすぐ五十歳手前……。だとしたら、なんと妖艶な人だろう、と思った。まるで……適切な言い方ではないかも知れないが……魔女みたいだと思った。
そのとき、先ほど娘たちが出て行ったドアの向こうから、パラパラと音が聞こえてきた。そちらをチラと一瞥した彼女が、口を開いた。
「おや、雨が降ってきたみたいだね」
「あちゃあ……降ってきましたか……」
「あんた、宿は遠いの?」
「えーと……ここはどこですか?」
「アシノン通り。ルーブルからは、五分くらいのところさ」
「となると、歩きで三十分はかかりますね」
本当はせいぜい十五分くらいだったのだが、僕は水増しして答えた。
それを聞いた彼女は、少し躊躇いを見せたが、やがて意を決したように言った。
「……雨が止むまで、ここにいてもいいよ」
「良かった。嬉しいです」
「どうして?」
「貴女の話を、もっと聞きたいから」
「何で、私の話なんか」
「話し相手に、飢えてるんです」
「……そりゃ、……」
私も一緒さ、とでも言いかけたのだろうか。僕は、彼女の次の言葉を待った。
「……ま、似たもの同士だからね」
「え?」
「
「なるほど、そういえばそうですよね」
「それで……新聞記者の卵くん、あんたは私から、何を聞きたいんだい?」
「なぜドイツ人である綺麗な貴女が、このパリで娼婦をしているのか、どうしても知りたいんです」
あんたも物好きだね、と彼女はため息をまぶした苦笑いをした。
「……多分、聞いてても楽しい話じゃあないと思うよ。それでもいい?」
「ええ」
そして彼女は、気怠げに自分語りを始めた。
***
私が物心ついたときに、
ベルリンっ子にして一人っ子だった私は、あの戦争で、パパを喪った。優しかったパパ。陸軍の士官だったパパは、二度と家に帰ってくることはなかった。
敗戦国の惨めさは……経験した者にしかわからない。
あの戦争で戦勝国の地位にありついた、フランスをはじめとする連合国は、瀕死の蝶にたかる蟻どものように、敗戦国ドイツから搾れるだけのものを搾り尽くしていった。
ありていに言えば、ドイツ中が貧しくなったのだ。食べ物も着るものもなくなり、絶望的な不景気がドイツを見舞った。
専業主婦だったママに、まともな仕事先はなかった。
明日の食事をも知れない中で、子持ちとはいえ若い女が金を稼ぐには、手段は一つしかなかった。
物乞いと宿なしで溢れるベルリンの下町の路地で、ママは客をとり、安アパートのマットレスの上で男と寝た。
学校にも行けない私は、ママが客をとっているあいだじゅう、軒下で地面に絵を描いたりしながら時間を潰していた。
あるとき、私はママに尋ねた。
「私ももう少ししたら、お客がとれるようになる?」
子供ながらにも健気にそう言ったとき、ママは私の頬を叩いた。
「絶対にあんたに、こんな仕事はさせないから」
そしてママは、私をしっかりと抱きしめたのだった。
とにかく、私の子供時代、少女時代は、あまりにも貧しい日々だった。
私とママは幾度となくクリスマスを迎えたが、年に一度の聖なる日だというのに、砂糖菓子の一つも食卓には上らない。私は祈った。……贅沢なんか望まない。ただ、昔のように、黒パンとコーヒかミルク、そして暖かいベッドのある生活が欲しい。
できるなら、その場所にパパが……優しいパパがいて欲しい。
そう願っていた。
***
彼女はここまで話し終えると、細く綺麗な指で紙箱の中から紙巻き煙草を一本つまみ出して、口紅で光る唇に咥えて、ライターで火を着けた。
ライターの炎に一瞬浮かび上がった彼女の横顔に、僕は、彼女の歳相応の細かい皺を目元や口元に見た。
やがて炎が消えると、彼女は、あっという間に元通りの魔女に戻った。彼女は深々と吸い込み、やがて薄暗い天井を見上げるようにして、ぼんやりと紫煙を長く細く吐き出した。
「敗戦国の惨めさが、あんたには分かるかい?」
そう言って、すぐに、彼女は自分の質問が愚問であることに気付いたようだった。
「……偉そうなことを言ったね。あんたの国も、酷い目に遭ったんだよね」
僕は曖昧に頷いた。
「あんたも、先の大戦では大変だったんじゃないの?」
「戦争が終わったのは、僕が物心ついて、まだ間もない頃でした」
「良かったね。戦争で傷つかなくて……」
僕が黙り込んだので、彼女は怪訝そうな顔をした。思い切って、僕は口にした。
「僕は、原子爆弾を受けた……被爆者なんです」
「ヒバクシャ……」
僕は、懐から取り出した被爆者健康手帳を見せた。そこには僕の名前と、「長崎市⚫︎⚫︎町、爆心地から二.一キロメートル」と記されていた。
「だから、長くは生きないかも知れません。両親も歳をとって、体調を悪くしていますから」
「……そっか」
彼女は、カウンターの上に置いていた僕の右手に、そっと自分の右手を絡ませた。
性的ないやらしさは全くない、戦争という傷を背負った者同士の絆のようなものを確かめるような、温かい手だった。
***
私がまた大きくなって、景気が少し良くなったかと思ったのも束の間、世界的な経済恐慌が、新たにドイツを襲った。
失業者はまた増加の一途を辿り、まるで第二の敗戦がドイツに訪れたようだった。
いち少女でしかなかった私の目にも、もはや、ドイツの命運は尽きたかと思った。
そんな私が二十歳になる前に、私は“あの方”に出会った。一九三二年の夏、国会選挙を控えていた頃のことだった。
ベルリンのアレクサンダー大広場で、私は初めてあの方を見た。あの方は、力一杯の大声で、吠えるように私たち聴衆に訴えかけた。
『ドイツ国民よ! 我々は今後、いかなる邪悪な意思や状況にも屈しない!
私は、いや、その場にいた私たち聴衆は、彼の演説に聞き惚れて、ジーク・ハイルの歓呼をあげた。
あの方は、ただ夢想を物語っているのではなかった。具体的に私たちドイツ国民が何に苦しんでいるかにも触れて、それと戦っていくことを明言していた。
私には、参政権を得るにはまだ年齢が足りないことが、切歯扼腕するほどに悔しかった。
だが一九三二年の国会選挙の結果は、
私は、同年代の女の子たちが競ってそうしたように、ナチスが作った
あの方は、選挙公約を全て守った。失業率はみるみるうちに回復して、生活はゆっくりだが、次第に豊かになっていった。
女性に対しても、あの方は忘れずに失業対策をして下さった。ママは、メイドの仕事を始めることになった。ママも年齢を重ねて娼婦を続けることが難しくなっていただけに、私もママも二人して喜んだ。
その年のクリスマスには、鴨肉とシュトレンがテーブルに上がった。その美味しかったこと! 微笑みあうママと私を、壁に貼られたあの方の写真が、慈父のように見下ろしてくれていた。……まるで、パパが帰ってきてくれたみたいに、私もママも、心強く生きられるようになった。
街からは物乞いも宿なしも見当たらなくなった。ベルリンをはじめとする国内の治安は、目に見えて改善されていった。
そして、迎えたのは一九三六年のベルリン・オリンピック! ああ、何と素晴らしい、ベルリンの真夏の日々と言ったら! 私たちの祖国ドイツの国威を発揚せんと、全ドイツ人が一丸となった、あの輝かしいスポーツの祭典! ベルリンは、毎日がお祭り騒ぎのようだった。
オリンピックが終わった後も、ドイツはますます繁栄の一途を辿った。失われた領土も、少しずつドイツのもとに戻ってきていた。
大人になった私は、ベルリン市内の花屋で、売り子の仕事についた。
ヨーロッパ中を敵に回すようになっても、私たちドイツ人の、あの方への信頼と忠誠は、何ら変わることはなかった。
あの方は、紛れもなく私の、いや私たちドイツ人の優しいパパだった。
***
そこまで話して、彼女はワイングラスを二つと、モーゼルワインのボトルを取り出した。彼女が古き良き時代を懐古しているのは、間違いなかった。
ここで僕は、疑問が一つ解けたような気がした。……どうしてドイツ国民は、あの悪逆非道なナチを熱狂的に支持して、あの高い地位に押し上げたのか、と。
それは、彼女がそう感じていたというように、大多数の貧しいドイツ国民に寄り添おうと(少なくともその姿勢を示そうと)したからだったのだ。
時系列的にも、初期のナチスは、ユダヤ人の迫害は公には主張せず、手を染めてもいない。……少なくとも、積極的には。
考えてみれば、実に当たり前のことだが、実際にその時代に生きた証人から聞くのとでは理解が全く違う。
「さっきは水で
「あ、もう慣れたので大丈夫だと思います。頂きます」
彼女から受け取ったワイングラスを僕がおし頂くと、彼女は嬉しそうな顔をした。
「ちなみにあんたの、一番好きな飲み物は何?」
僕は、芳醇なワインを味わいながら答えた。
「こんな美味いワインを頂いておきながらではありますけど……冷たい水です」
「水? 安上がりだね、日本人ってやつは」
からからと笑う彼女に、僕は少し躊躇った末に、口を開いた。
「……違うんです。僕の幼い記憶の中でも、被爆者たちは、一様に水を求めて死んでいきましたから」
本当にバツが悪そうに俯いた。まるで少女のようないじらしさだった。
「……ごめんよ」
僕はつとめて、明るい声を出した。
「いやあ……でも、お話を聞いて、とても勉強になりました」
「勉強? 大袈裟だね」
苦笑する彼女に、僕は答えた。
「つまり、無自覚なままに、ドイツの人々はナチスを求めたわけですよね?」
そう言ったとき、彼女はびくりと体を震わせて、顔色をさっと変えた……ように見えた。そしてグラスを、ぱあんとカウンターに叩きつけるように置いて、低い声で言った。とても酔っているようには見えなかった。
「……あんたは、私を断罪するつもり?」
「あ……いや……、そう聞こえたのなら、謝ります」
「……そう聞こえたよ」
迂闊だった……そう思う僕の前で、彼女は、怒りに震える指先で、新たな煙草に火をつけようとして果たせず、煙草を灰皿に叩きつけて、燃えるような瞳で僕を睨みつけた。
「そうさ……確かに、後からなら何とでも言えるかも知れない……」
「……」
「あんたに……あんたには分からないかも知れないだろうけれどもね……」
「……」
そして、目の端に、じわりと水晶のような滴を浮かべながら、まるであの独裁者のように……声をかぎりに叫んだ。
「あんたが……あんたが私でも! あの方を選んだよ! あの状況下なら! あのときあんたが、ドイツで生きていたならっ!」
一息にそう言った彼女は、その細い肩を荒々しく上下させたのちに、少女のように、小さく嗚咽を漏らした。
「そうですね。僕が傲慢でした。……ごめんなさい、謝ります」
そう言って、何枚かのフラン硬貨をカウンターの上に置いた僕は、その場から去ろうとした。
そのとき、思いの外穏やかになった魔女の声がした。
「待ちな」
僕は、足を止めた。
「……人の話は、最後まで聞いていきなよ」
振り返った僕を見ずに、彼女はそっと僕にグラスを差し出した。入っていたのは、よく冷えたミネラルウォーターだった。
***
そう、ドイツは、あれよあれよという間に、いろいろな国と戦争をおっ始めた。
最初は良かった。勝ち戦だったしね。
ソ連と戦争を始めたって聞いた時は流石にびっくりしたけど、いずれ勝つだろうと思ったよ。
ところでさ、私、恋人がいたんだ。写真……? ……そんなもの、ないよ。……もう、顔も思い出せなくなっちまったよ。
そんな彼も、御多分に洩れず、徴兵されて東部戦線へ行っちまった。
……残された私たち銃後の生活も、次第に貧しくなる一方だったよ。せっかく復活した豊かな生活が、またあの頃に戻っていっちまって……。ベルリンの街の風景は、どんどん灰色にくすんでいっちまったんだ。
なんだろう、戦争が始まってからの日々は本当にあっという間に感じたよ。
次第に私たち国民は、あの方の声や姿を見たり聞いたりすることもなくなっていった。
断片的に入ってくるニュースでも、ドイツ軍は各地で負け続けて、せっかく広げた占領地も、どんどん奪還されて……。
ついに、元々ドイツ領だったところにまでソ連軍や連合軍がやってきたと知った時には、ぞっとしたね。
ベルリンもやがて戦場になった。その前哨戦が、ベルリン夜間空襲だよ。
ある夜の空襲で、防空壕に駆け出して行った私は、人混みの中で、ママとはぐれちまった。空襲が終わって、街はところどころ壊されていて……なんとか焼け残った家に帰ろうとすると、存外に家から近いところで、ママは半ば消し炭になって倒れていたよ。焼夷弾の直撃を浴びたんだろうね。
そして……あの1945年の春。ベルリンが、地獄に……地上戦の戦場になっちまったんだ。
私は、地下鉄の駅に避難した。空襲や砲撃から逃れるには、それが一番手っ取り早かったのさ。
だけど、ずっと地下鉄内にいるわけにもいかない。服も着替えたいし、身体も拭きたいし、何より、お腹が空いたからね。
私はある日、こっそり地下鉄を抜け出して、地上に出た。目を疑ったよ。目ぼしい建物は、瓦礫の山になっていて、道路は砲爆撃や戦車のキャタピラで穴だらけ。
……これが、千年王国の首都・ベルリンなのかって、信じられない気持ちになったのを覚えてる。
やっとのことで、私は半ば崩れ落ちた家に帰った。先日持ち出せなかった食料を持ち出そうとしたとき、表で銃声が聞こえた。
恐怖で身を凍らせた私の目の前に……ソ連兵たちが押し入ってきたんだよ。私を見たときの奴らの顔……あんな下劣で下卑たツラ、私は一生忘れないね。
嫌がって暴れる私を、奴らは乱暴にベッドに組み敷いた。そして私の服を剥ぎ取って……。
私は荒々しく打ち付けられながら思ったよ……男って、こんな酷いことを女にするんだ。
奴らはまるで小用でも済ませたようにした後、笑いながら家の中の食糧やら食器やら、金目になりそうな目ぼしいものを漁って持っていきやがった。彼との写真が入ったロケットも、あいつらに奪われたのさ。
私は地下鉄の駅に戻る気力も失って、裸のままベッドに倒れてた。もう、死んでしまいたいと思ったよ。
あの頃すでに三十路を過ぎてた私でも、そこそこ魅力が残ってたのか、評判にでもなってたのか、それからというもの、ソ連軍の将校が毎日、変わるがわるやって来たよ。わずかな缶詰なんかと引き換えにしてね。
ベルリンで強姦されたのは、私だけじゃなかった。近所の友達も、そしてドイツ女子同盟の、まだ十代前半の少女たちも……ソ連兵に捕まって、慰み者にされたんだ。中には、気が狂ったようになって、自殺する娘もいたもんさ。
あの方が死んだのも、ドイツが無条件降伏したのも、恋人が戦死していたってのも、私が知ったのは後になってから。
でも、戦争が終わったからって、私たちの生活が元に戻ったわけじゃない。
……私は、まだ慰み者としての価値が残ってる女だったから、どうにか食うには困らなかったけど、残された女子供、お年寄りは悲惨だった。
いずれにしても、もう女を売るしか、あの時の私には、他に生きる道はなかったんだよ。
それで私、あるとき、糸が切れちゃったんだ。
……私は、ソ連兵相手に、ベルリンで正式に商売を始めたのさ。ママが絶対に私にさせようとしなかった、娼婦っていう商売をね。
***
僕は落涙を禁じ得なかった。言葉が出なかった。自分だけが、あの戦争の被害者だ……僕が心のどこかに秘めていた被害者意識を、彼女の半生はいとも簡単に炙り出し、打ち砕いたのだった。
戦争というやつを、僕は改めて憎んだ……憎むしかなかった。
「いい男が、泣いてんじゃないよ」
そう言っている彼女も、少し鼻を詰まらせたような声をしていた。
「そんな経緯があったなんて、僕なんか、考えも及びませんでした」
「……その後はさ、ドイツ人が国外へ出ても良くなってから、ベルリンで開いた店を閉めて、こっちへ来たって訳」
「貴女がドイツを去ったのは、嫌な記憶から逃れるためですか?」
「……それもあるかも知れない。でも、それだけじゃないよ。そうだとしたら、パリくんだりまで来てこんな仕事に就いてないよ」
「……」
「惨めに廃墟にされちまって、おまけに二つに分かれた祖国なんて、見たくもなかったし、住みたくもなかった」
「……」
「けれど、パリは……ここは……」
その続きを僕は待ったが、彼女はそれを言わなかった。かわりに、自嘲的に、自虐的に口を開いた。
「私は、評判になってよく売れたもんさ。祖国ナチスを失った哀れなドイツ女が、パリに流れてきて健気に春を売ってるって」
「……」
「そのおかげで、私はこの店を持てた。じきにフランス女を雇えるようになって、私自身が客と寝る必要もなくなった」
「…………」
僕は、嗚咽を堪えながら、ハンカチで涙を拭いた。
ドアの外では、相変わらずの雨音が続いていた。
「雨、止まないね」
彼女は、少し考えるようなそぶりを見せて、やがて口を開いた。
「泊まっていく? 娼館の一部屋で良ければ、だけど」
彼女は、夕食がまだだった僕に、サンドイッチを作ってくれた。そして穏やかに目を細めて、僕が食べるのを見ていた。口の中を切っているせいで、せっかくのサンドイッチの味が、とうとう分からなかった。
食後のコーヒーの後に、彼女は僕を二階のある部屋へと案内してくれた。
「じゃあ、私は下の部屋で休んでるから……」
僕は、踵を返そうとする彼女に、背後から抱きついた。まるで、子供が母親に甘えようとするかのように。彼女は僕の腕の中で、驚くことも震えることもせず、ただ暖かい体温を放っていた。
「……ずっと前に男たちに汚された、こんな年増の女を抱きたいって?」
「……」
今思えば、僕は思い上がっていたのかもしれない。僕なら彼女を抱擁して慰撫できる、と。邪な心もあったろうに。
「さっきも言ったけど、私、もう客は取ってないんだよ」
「……」
「同情で抱こうってんなら……」
振り返った彼女に、僕はそれ以上言わせまいと、その唇を自分のそれで覆った。
煙草の香りがした。
***
僕と彼女は、人種と言語と年齢の壁すら難なく乗り越えて……一つになった。
母親ほどに年齢が離れているのに、彼女は僕にそうは思わせなかった。とても半世紀ほどを生きてきた女の身体とは思えないほどに、彼女は張りも潤いも眩しかった。薄暗いベッドの中で、彼女は少女の様な恥じらいと愛らしさを見せてくれた。それは僕に、男としての自尊心を満たしてくれるものだった。
それが本当の彼女自身の反応なのか、手練手管による演技なのか、まだ青くさい年齢の僕には分からなかったけれども。
燃え尽きた後の静かなベッドタイムを、彼女は僕の腕の中で過ごした。
「貴女は強い」
「どうしてさ」
「身体一つで、異国に、こんな立派な店を持ったんですから」
「ありがと」
そう言って、彼女はそっと口付けをくれた。
そして不意に、彼女は言った。晴々とした、口ぶりだった。
「この美しい街は、あの方が残してくれたんだよ。だから私は、ここに来たんだ」
「え……?」
「このパリだよ。破壊されてもおかしくなかったのに、立派に残されてるじゃないか」
とても睦言には聞こえなかった。それを聞いた僕は、夢見心地の気分から、急に現世に引き戻されたような気がした。そして、それは事実じゃない、と僕は言いかけた。
ヒトラーは、ドイツ軍のパリ撤退の際、この華の都を徹底的に破壊する命令を出している。「パリは燃えているか?」は、この少し後の彼の言葉だ。
だが、当然というか、この命令は実行されなかった。どだい、レジスタンスが活発化している状況下のパリを破壊することなど、現実的に不可能だったのだろう。
僕がそう言おうとしているのを、まるで見透かしたかのように、彼女は言葉を続けた。
「……私は、そう思うようにしてるのさ」
「でも……それは……」
「それは?」
「違う。違うんです。それは幻想だ」
そう言ったとき、彼女の瞳は、寂しげに潤んだ。
彼女は、僕を小さな子供をあやすように、僕の頭を撫でた。
「分かってる……分かってるさ。ナチはとんでもない連中だったって。本当に酷いことをしてきたって」
僕は、彼女の感情が少しずつ昂ってきたのを感じ取った。
彼女は続けた。
「だけど……だけどさ、私みたいな女にとっちゃあ、あの方は……あの方はっ……!」
僕も言葉を続けた。
「貴女は、ヒトラーを恨んでいないんですか!?」
次の瞬間、彼女は、僕の腕から逃れるようにしてベッドから降り立った。
何も身に纏わない彼女のしなやかな身体が、雨雲の切れ間からのぞいた月明かりに青白く浮かび上がった。
寂しそうな双眸に、うっすら涙を浮かべて。
俯いた彼女は、僕から目を逸らして、裸体のまま臆することなく窓へと向きを変えた。
彼女が窓の外に見ていたのは、フランスの象徴とも言うべき、エッフェル塔だった。窓枠を額縁に、雨に濡れた夜景を透かすガラスをカンバスにして、オレンジ色にライトアップされた夜のエッフェル塔は、一枚の印象派の絵画のように、彼女の裸体と対峙していた。
そのエッフェル塔の先端に、僕は一瞬、かつてそうだったように、鉤十字の旗が、セーヌ川から吹き上げてくる風に翻っているように見えてしまった。
彼女は不意に、裸足の踵どうしを強く合わせた。まるで、電流に打たれたようだった。
そして……直立不動の姿勢をとった彼女は、すらりとした白い右腕を、真っ直ぐ前に突き出した。
イデオロギーだとか善悪だとか何だとか、そんなものは忘れて、僕はギリシャ彫刻のような彼女の、美しいローマ式敬礼に見惚れていた。
……嗚呼。
ナチの永遠の迷い子は、今もこうして、異国に生きている。
虚像を痛ましげに胸に抱きながら、独りぼっちで。
**********
(1)
昔あの 戦争が 終わったあと
貧しさと 苦しさが 国じゅうを襲った
優しいパパは 戦争で死に 綺麗なママは
身体を売りながら 私を育てた
そんなとき 私たちは あの方を知った
揺るぎない あの方の 澄んだ瞳の
水晶の 煌めきの 向こうがわに
人々は 輝かしい 明日を見た
それはパンとコーヒーと 厚い毛布と
ベッドのある明日 豊かな明日
その当たり前が 欲しかった
誰よりも強いパパが 欲しかった
嘘でもいい 夢でもいい そう願っていた
ラララ
魅入られてしまったのだ 私たちは踊るだけ
過去の栄光しかない この国で
魅入られてしまったのだ 私たちは踊るだけ
でもその劇作家を 求めたのは私
<ヒトラー演説『我々に四年の歳月を与えよ、然るのちに我々を判断せよ!』(1933年2月10日 アドルフ・ヒトラー 首相就任演説 於:ドイツ、ベルリンスポーツ宮殿)>
(2)
あの方は 約束を 全て守った
パンと仕事と お金とモノが 巡りはじめた
人びとは 笑いあって 日々の糧を得て
この国は 強くなった かつてないほどに
私は ドレスを着て ママは仕事に就いて
壁に 写真貼って あの方を讃えた
大好きな パパが 帰ってきたみたい
誰もが あの方の 名を叫んだ
見てこの景色を 街や村を
物乞いも宿なしも 盗人もいない
誇りに満ちた 私たちを
二度とは滅びはしない この国を
嘘じゃない 夢じゃない あの方のおかげで
ラララ
魅入られてしまったのだ 私たちは踊るだけ
同じ血の同胞と 手足を揃えて
魅入られてしまったのだ 私たちは踊るだけ
きっと前を見据えて 微笑みながら
<ヘス演説『ヒトラーこそドイツ、ドイツこそヒトラー! ヒトラー万歳!』(ルドルフ・ヘス 1934年9月 第6回党大会 於:ニュルンベルク)>
(3)
光射す この国で あの方は言った
私たちは 世界一の 民族だと
異国では あの方を 蔑むけど
そんなもの 私たちは 気にはしない
あの方が いなければ どうだっただろう
私たちは 奴隷のまま いればよかったの?
希望も 復活も 豊かな明日も
夢見ては 駄目だったと 言うのだろうか?
あとで あれこれと騒ぐ人に
好き放題言われて たまるものか
誰にあの方を 私たちを
断罪をすることが できると言うの
あなたが 私でも あの方を選んだろう
ラララ
魅入られてしまったのだ 私たちは踊るだけ
理不尽な 憎しみが 生まれても
魅入られてしまったのだ 私たちは踊るだけ
また新たな争いが 生まれたとしても
<ソ連ラジオ・モスクワ放送「こちらはモスクワ放送です! ソ連邦市民の皆様、聞いて下さい! ドイツが侵攻してきました!」(1941年6月22日)>
(4)
生きるための 戦争は 負け続けて
豊かだった 生活は 貧しくなった
人々も モノも景色も 何もかもが
あの頃に 戻って しまったみたい
あの方は 老い果てて 姿を隠して
私たちは 途方に暮れるだけ
大好きな 恋人は 兵士になって
手紙も そのうちに 届かなくなった
ある日ママは 焼け死んで
私はドレスを 剝ぎ取られた
何もかも奪われ 花は毟られ
誇りすら砕かれた 哀しき祖国
嘘のよに 夢のよに すべて崩れ落ちた
ラララ
魅入られてしまったのだ 私たちは踊ってた
命懸けのステップで 血を流して
魅入られてしまったのだ 私たちは踊ってた
心中する覚悟など 持ちさえせずに
<英国BBCラジオ臨時放送 「ドイツ放送によれば、ヒトラーは死亡した模様です。繰り返します……」>
そして残されたのは 瓦礫の帝國
瓦礫の帝國 鮎川 雅 @masa-miyabi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます