〜スタ・ハラ〜 その2
影山は順調に仕事を終え、無事に定刻を迎えた。
軽くひと息つくと、そそくさと荷物をまとめ、相棒のヘッドフォンを両手でしっかりと確認し、仲間を労う言葉を一つも発することなく、オフィスを出た。
帰路へと急ぐ影山の少し先で、坂本が壁にもたれかかっていた。
何やら左腕につけたタブレット型の腕時計を、右手人差し指でトントンと叩いていた。
(そうか、今日は水曜日か)と、影山は坂本に向けて親指を上げ、了解の合図を出した。
約束や予定を組むことが苦手な影山は、毎週水曜日を坂本との呑み、毎週金曜日を彼女との晩御飯の日にしていた。
いや、正確には――そうさせられていた。
こうでもしないと、人前でヘッドフォンを外さず、まして連絡手段である携帯電話をまともに見ない影山との予定を組むのは至難だったからだ。
坂本はこれを“社会との距離を保つトレーニング”だと言っていたが、影山からすれば迷惑であり、しかし実際救われることもあった。
もちろん、店を決めるのもいつも坂本だった。
そして決まって、完全個室が選ばれた。
「今日の店は事務の子達が噂してた店で、前から気になってたんだ!
予約取るの大変だったんだからな!」
店に向かう道中、坂本は楽しそうに何かを喋っていたが、影山にその言葉は届かなかった。
坂本は他部署の人達とも上手くやっており、毎日のように呑みに出ていた。
爽やかな身なりに整った顔立ち、スラッと伸びた長身も持ち合わせており、流行りに敏感で気遣いも出来たため、会社の女性たちは目がなかった。
その上仕事も出来て男気まであるからして、男性社員にも一目置かれていた。
そんな概ね完璧な坂本が、毎週水曜日に影山と二人で呑みに行っている事は、会社中の周知だったし、皆一様にこれを訝しがってはいたが、“きっと会社の為に影山を矯正しようとしてくれているのだ”と、信じて疑う者は居なかった。
しかし実際の所は、ほとんど坂本の愚痴が漏れるだけの呑みだった。
店に入ると、影山は真っ直ぐに個室へと向かい、坂本は最初におおよその注文を済ませながら、(彼は大事な取引先の重役で、とても神経質な人だから、注文は扉の外へ置いてくれ。決して急に開けたりしないように)と忠告を済ませてから、ビールと共に影山の後を追った。
坂本は毎回この嘘をついていたが、男の見た目もあってか、皆それを鵜呑みにし、影山が退店する時にはいつもセレブを見るかのように静かな脚光を浴びた。
個室に入ると影山にビールを渡し、(取って良いぞ)とヘッドフォンを外すジェスチャーをした。
影山はゆっくりとヘッドフォンをテーブルに置き、無論乾杯などせずビールを口に運んだ。
感謝すら見せない影山を、坂本が気にする様子は全くなく、「山谷の話掴んできたぜ。ありゃ黒だな」と話し始めた。
長舌で話し続ける坂本と、黙々とビールを進める影山。
これが二人にとってはいつもの光景だった。
「全くアイツも運がない。
香山さんは全く気にしてなかったらしいんだけど、どっかから噂のサチコが聞きつけたのさ。
(女の子の実家を聞き出そうとするなんて、何か企んでいるのよ。地元の学校辺りから個人情報を抜くつもりよ。SNSも閉じなさい)ってな。
それで香山さんは(私が言ってきてあげる)ってしつこいサチコに嫌気がさして、私が自分で人事に言います!となった訳よ。
山谷はただ地元の名物を聞こうとしただけだぜ。それがあれよあれよと風呂敷広げられて……。全く……恐ろしい世の中だよ」
ひと通り話し終えると、坂本は満足そうにビールを煽った。
「お前と話す時は本当に気が楽で良いよ。
言葉も選ばなくて良いし、反応も気にしなくて良い。胡座もかけるし、シャツのボタンも外せる。
特にお前が人間って所が良い。こんなのを壁に向かってやりだしたら、救われないからな……」
そう言って飲み終えたグラスを扉の外に、外に置かれた酒やツマミを中にと、慣れた手つきでこなすと「そんで木下のヤツがさ」と次なる話題を話し始めた。
溜まっていたものをひとしきり吐き終えてスッキリした様子の坂本は、初めて影山の話題に触れた。
「それでお前は最近どうなんだ?
今朝水原さんと話したけど、相変わらず参ってたぜ?」
影山は大きく首を振ると、おおよそ初めて言葉を口にした。
「相変わらずさ。
どっちかって言うと悪くなってるかもな。最近は新番組の季節だからテレビも観てないし、まあ毎年3月は同じ感じだよ」
特段変化の無い症状を説明して、この日の呑みは終わった。
―――――――
小学生の頃の影山は明るく活発であった。
周りとも上手くやれており、信じられないかもしれないが、どちらかと言えばクラスの中心的存在であった。
走ることが好きだった影山は、中学に進むと共に陸上部に入り、長距離希望で練習に明け暮れた。
毎日片道5キロ近くを走って通学していた影山にとって、中学生の大会における3キロの道程はあっという間だった。
練習においても影山に付いていける者は現れず、その年の秋の中学駅伝において、第一走者に抜擢された。
皆その事を不満に思わなかったし、影山も素直に喜んだ。
そして迎えた10月の大会当日。集合場所である中学校へ、いつも通り走って向かっていた影山は、道中些細な接触事故に見舞われた。
それは本当に些細な事故だった。
真っ直ぐな道沿いを走りながら、ほんの少し余所見をした際に、横から出てきた自転車に軽くぶつかった。
“跳ねられた”ではなく、接触事故くらいであった。
「ごめんなさい、大丈夫?」
と心配する中年の女性に、「すみません、大丈夫です」と笑顔を返し、そのまま走り続けた。
ほんの少しズキッとしたが、走るのに大きな支障はなく、影山も気には留めず、もちろんわざわざ部活の皆にこの出来事を伝えはしなかった。
3年生達にとっては受験を犠牲にした最後の大会であり、余計な心配は少しでも避けたかった。
会場で準備運動を始めた影山の左足は、少しだけ腫れていた。
だが特段痛みも無かったため、やはりここでも気には留めなかった。
そして競技場のスタート位置に立った。
周りの皆がそわそわしているのを感じた。
影山も同じだった。
しかし、ワクワクの方が勝っていた。
スタートラインの横に立つ競技委員が、真っ直ぐと右手を空に伸ばした。
合図と共にピストル音が競技場内に響き渡った。
影山の頭の中にも響き渡った。
……影山の足は動かなかった。
各選手が走り去って行く中、独りだけ同じ場所に取り残された。
影山の中の時間は止まったが、残念ながら世界の時間は止まらず、3年生達は部活を去った。
幸いなことに、3年生も含め皆、影山に優しく接した。
自転車で接触した女性がその後、やはり気になると中学校に連絡を入れたことで、当日彼が足に何かしらの事情を背負っていた事が判明し、加えて皆に心配を掛けまいと内緒にしていた事が美談として広まったからだ。
顧問を始めとした周りは皆影山を励まし、「次はスタート出来る。スタートしてしまえば誰もお前に追いつけない」と言って聞かせた。
それは彼の親も同様であり、その時から影山の日常には【スタート】という言葉が溢れ、その言葉を聞く度に影山の頭の中にピストル音が鳴り響いた。
練習を続けていた彼のスピードに追い付ける者は、相変わらず現れなかった。
皮肉にも彼が練習で結果を残せば残すほど、彼の周りには【スタート】という言葉が溢れた。
ピストルの音は日に日に大きくなっていった。
部活動に熱心であった顧問の菊池は、影山に自信を付けさせようとあらゆる努力をした。
しかし、影山はただ走るのが好きなだけだった。
ずっと走り続けたかった。
ずっとずっと走り続けて止まりさえしなければ、もう二度と【スタート】が現れない気がしていた。
年末最後の練習の折、遂に事件が起こった。
その日菊池が口にした【スタート】の言葉に、影山はキレてしまった。
「いい加減にして下さい!
皆してスタート!スタート!って煩いんですよ。僕はただ走りたいだけだし、走っているのが好きなだけです。
そんなに誰かと競い合いたいなら勝手にして下さい。僕を巻き込まないでください。
皆が軽々しく口にする【スタート】は、僕にとって悪口であり、ハラスメントなんです!」
この時、再び時間が止まったのを、今でも影山はハッキリと覚えていた。
熱意を注いでいた生徒の裏切りに、言葉を失う菊池の顔。
そしてそんな菊池を慕う部の仲間たちからは、非難の声が上がった。
菊池先生がこんなにお前の事を思っているのに、皆がこんなにお前に期待しているのに、3年生の最後を奪ったくせに……。
『何て自分勝手な奴なんだ!
【スタート】も切れないくせに……』
その年が去り、新年を迎えると同時に、影山は家から出られなくなった。
新しい1年のスタートに、新しい1日のスタートを前に、足は再び動かなくなった……。
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