ハラス・メメント

三軒長屋 与太郎

〜スタ・ハラ〜


 『タツマキトンネルの

【そこんとこ気に食わんZE】!!


毎週、世界各地から届く“気に食わん”!!


アマゾンの秘境に棲む気に食わん生物、フランス料理の知られざる気に食わんメニューとは……。


4月5日土曜、夜7時スタ……』


プッ。


男はここでテレビを消した。


灯りの消えた薄暗い部屋で、男は呆然とソファにもたれていた。


深く長い溜息をつき、何もない天井を見上げる。


けだるげにゆっくりと身体を起こすと、テーブルの上に置かれたかなり旧式の携帯電話へと手を伸ばした。


―――――――


 影山光一(カゲヤマ コウイチ)、27歳。


東京都練馬区在住。


池袋のシステム会社に勤め、2つ年下“らしき”彼女がいた。


そんな彼にはある悩みがあった。


それは――“何か新しいことが始まる”という現象を許せなかったのだ。


新番組、新メニュー、新企画、さらには生命の誕生までも。


ありとあらゆる“スタート”が許せなかった。


故に、彼は酷い不眠症に悩まされていた。


眠れば必ず“新しい朝”が始まってしまうからである。


毎晩、ギリギリまで漠然と起き続けていたが、人間である以上、睡眠から逃れることは出来なかった。


朝目覚めるたびに彼は「また今日が始まってしまった……」と項垂れた。


何かが始まる気がするから顔は洗わず、朝食も食べなかった。


もちろん、朝のニュース番組や新聞など見ないし、携帯電話も開かなかった。


彼は「おはよう」という言葉も嫌いだった。


のそのそと乾燥機に向かい、皺くちゃのシャツを取り出し、不満げに着替える。


玄関に放り出された鞄を拾い上げ、大きなヘッドフォンで世界からの情報を遮断し、外へ出た。


彼の家はマンション1階の角部屋で、ドアを出てすぐの場所に自転車置き場がある。


無論、これも極力「おはようございます」を避けるために選んだものだった。


水色のビアンキに跨り、会社へと向かう。


―――――――


 池袋の会社では、影山の同期の坂本(サカモト)と、課長の水原(ミズハラ)が話していた。


坂本は企画部の主任であり、影山の数少ない友人だった。


故に、影山に関する相談は自然と坂本が引き受けることとなった。


「俺も不安なんだよ坂本……。

去年課長になってもうすぐ1年経つが、一向に扱いに慣れん。

上からも“何とかならないのか”って責められるし……。


そこに来て、もうすぐ新入社員が入ってくる。

胃が痛いぜ、まったく……」


水原はどうやら、影山に手を焼いているらしい。


「そう言われても、僕は企画部ですよ?

部署違いです」


坂本はお気楽に返した。


影山と水原は、システム部に所属している。


「最近は何でもかんでもハラスメントだ。

先月、うちの部の山谷(ヤマヤ)が経理の女子社員にセクハラで訴えられたばかりだ。


聞いたか?

山谷の話が本当なら、少し詳しく地元を聞いただけらしい。

もう会社の中で日常会話も出来んよ」


困った様子の水原に、坂本は笑ってみせる。


「笑いごとじゃないだろ。

もし訴えられたら、それが本当か嘘かなんて関係ない。

仮にでっち上げでも、尾ひれ背びれが付いて広まり、無実が証明される頃には誰も覚えていない。


そして“何か悪いことをした”レッテルだけが残される。

そうなったら俺の人生も終わりだ」


まだ見ぬ未来に打ちひしがれる水原を、坂本は励ました。


「考え過ぎですよ水原課長。

アイツの“第一回恐怖症(何事も最初の一歩を極端に恐れる奇妙な症例)”は、まだ患者も少ないらしいですし。

同期として仲良くはやってるつもりですが、あの悩みは正直、僕にも理解出来ませんよ。


まあ心配しなくても、アイツはきっと裁判の開廷すら嫌がるでしょうから。

課長が訴えられることはないし、大丈夫ですよ」


坂本はまた笑い、水原はげんなりした。


「それに、上の人たちがアイツをクビにしないのは、圧倒的にシステム修正が出来るからじゃないですか。

課長はエラー報告を与え続けとけば大丈夫ですよ。

間違って“新企画のシステム立ち上げ”なんて回さないで下さいね」


坂本は笑いながら「それでは……」と自分の部署へ歩き出した。


「今度また飯奢るから、相談乗れよ!」と声を掛ける水原に、「いつでも誘って下さい!」と返す。


―――――――


 出社した影山は、受付でもヘッドフォンを外さず、会社の人間とすれ違っても――例え上司であったとしても――挨拶をしなかった。


もちろん、最初から許されていたわけではない。


入社してからの5年間で積み上げてきた仕事の実績と、精神科の診断書の賜物であった。


部署に入ってからもそれは変わらず、まっすぐ自分のデスクへ向かい、常につけっぱなしにされているパソコンの前に座る。


そこへ届いたエラー報告を黙々と修正していくのだった。


上司をはじめ、同僚からも避けられていたが、どんなに辛い言葉も影山のヘッドフォンは通さない。


そこそこ大きな会社の様々なシステムエラーを、ほぼ一人で解決していく圧倒的な仕事量で黙らせていた。


会社は在宅勤務を勧めたかったが、影山の扱う業務の多くが機密事項にあたるため、この見栄えの悪い寡黙な仕事人を出社させるしかなかった。


「今日も快調だな」


水原のデスクの前に歩いて来た館山(タテヤマ)は、淹れたての珈琲にフーフー息を吹きかけながら話しかけた。


「お前は相変わらず呑気に低調だな」


水原は嫌味を返す。


館山は水原と同期の係長で、役職は違えど親しい仲だった。


出世などどこ吹く風の太平楽だったが、年数と飲みの付き合いで、何となく上手くやっていた。


「呑気で何よりじゃないか。

彼のお陰で我がシステム部は安泰だ。


ちょっと自信がない新システムも、“エラー”として彼に回せば完成して戻って来る。

まさに影山様々じゃないか」


館山は意を決して珈琲を口にしたが、まだ熱すぎたようで顔を歪めた。


「山谷の件があったばっかりだってのに、まったく……代わってくれるかい?」


館山は「嫌だね」と口を尖らせて拒否した。


「もうすぐ新入社員が入って来るんだぜ。

あの異様な光景を何て説明すれば良いんだよ」


「パーテーションで囲っちまうか?

影山としてもより集中出来るし、ほらアメリカのオフィスみたいにさ。

影山の所だけグルっと」


坂本は楽しそうに答えながら、ようやく適温になった珈琲を喜んでいた。


水原は大きな溜息をつき、小さく首を振りながら言葉を返した。


「馬鹿野郎……。

最近はハラスメントを受けたやつじゃなく、見てたやつが訴えるんだぜ。


“あの人は自分じゃ言えないんだ、あの人は良い人だから気付いてないんだ……俺が私が、何とかしなきゃ!”ってな具合だ……」


器用に口調を変えて語る水原を、館山は愉快そうに笑った。


「笑いごとじゃないよ、まったく……」


呆れた水原は、また大きな溜息をついた。


「お前も気を付けてくれよ館山。

俺たちの時代とは違うんだ。


今やハラスメントの種類が増え過ぎて、近代史のテストに出るくらいだ。

全く“何が何ハラ”になるか分からん」


力なく心配そうな顔で見てくる水原に、館山は自信満々の表情で答えた。


「課長は大変そうだな。

まぁ、あんまり気にし過ぎないこった。

俺はこれでもそういうのは上手い方だ。

これからも一生懸命、のらりくらりとやっていくさ」


館山はまた愉快そうに笑いながら、自分のデスクへ帰って行った。


水原は三度大きな溜息をついた。


もちろん、この二人の会話も影山のヘッドフォンの内側では無音であり、男はただ退勤時間に向けて黙々とキーボードを叩き続けていた。


この年の11月に館山が新入社員へのセクハラで人事部の会議に上げられたのは、この物語とは別の話である。

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