第20話 六月(5)

「あんたね! いい加減にしなよ!」

 授業の合間の休憩時間に事件が起こった。怒号が鳴り響いた。

 賑やかだった教室が一瞬にして静まりかえる。みんなが驚き、怯えていた。騒動の中心を見つめ、成り行きを見守っている人もいれば、我関せずと教室を抜け出していく人もいた。

 何事かと思ったが、声の主とその声が向けられている人物が分かると、私は固唾を呑んで、様子を見守った。

「自分は私らと違うとでも思ってんの? そうやってクールぶって、見下して。ほんと勘に障るんだけど。ちょっとは何か言ってみたらどうなの?」

 城ヶ崎が由衣に怒鳴りつけていた。どのような成り行きがあったのかは分からないけれど、城ヶ崎の堪忍袋の緒が切れたのだ。

 由衣は怒鳴り声に臆することもなく、

「静かにしてもらえる」

 ため息交じりに答えた。

 持っていた本に視線を戻す。城ヶ崎は由衣の胸ぐらを掴み、無理矢理立ち上がらせた。そのときに本は由衣の手からするりと抜け、床に落ちた。

「あんたのね、そういう態度が気に食わないって言ってんの! 分からない?」

「それより、本が落ちたんだけど」

「それが何?」

「謝って」

「は? 状況分かってんの? 殴られそうになっているのに、本の心配? バカじゃない? ほんとね、あんたみたいな何考えているか分からない奴がいると気持ち悪いんだよ。いつもいつも大人しくしてさ、そのくせ喧嘩を売ってくる。何なんだよ、お前!」

 城ヶ崎は右腕を振りかぶった。パシッと大きな音を立てて彼女の平手が由衣の頬を打った。由衣の身体は城ヶ崎の手を離れた。大きな音を立ながら、机と椅子を巻き添いにして倒れた。女子の一部からは悲鳴が上がった。近くにいた生徒は後ずさって、教室の中心には由衣と城ヶ崎だけの空間ができていた。

 由衣はゆっくりと上体を起こし、自分を殴った相手を睨め付けた。頬は赤く色づき、口の中が切れたのか、端から一筋の血が流れ出ていた。

「これで、満足?」

 視線は外さず、怒りが籠もっているけれど、その口元は笑っていた。この場にいる何人が気がついたのか分からないけれど、少なくとも城ヶ崎には見えていて、その意味も分かっていた。

「あんたね! だから、その態度は何だって言ってんのよ!」

 そう叫ぶと苛立ちのままに右足が動いていた。倒れた由衣を蹴り飛ばそうとしている。

 ただでさえ怪我をしている由衣に追い打ちを掛けようとしているのだ。城ヶ崎も冷静さを失っている。そこまでする必要は無いと分からないのか。隠れ潜み、裏で手を引く、必要なら人目に付かない場所に呼びつけてプレッシャーを与える。そんな陰湿なやり方が城ヶ崎の得意手だが、今の行動はその欠片も感じない。

 だめだ。そんなことさせない。

「ちょ、ちょっと待ちなよ」 

 私はできる限りの大声で叫んだ。喉がピリッとして、頭がふらついた。

 震えた頼りない一言だったが、城ヶ崎は動きを止めた。睨まれ、足がすくむ。けれど、後悔はない。誰も止めないのだから、私がやるしかない。

 由衣を助けなきゃ。

「何があったか知らないけれど、人のことを殴るなんて、何やっているんだ」

 ああ、声が震えて格好が付かない。

 手も震えているし、足も。城ヶ崎に刃向かう恐怖と周囲の注目を集めていることに対する緊張だ。柄にもないことをしていると私が一番分かっている。私は周りに話を合わせて、問題を起こさず、適当に友達を作って、のらりくらりと学生生活を送れれば良かったはずだった。この大舞台に立つような人材じゃない。

 由衣は目を大きく見開いて、口も間抜けに半開き。そんな締まりの無い顔で私を見ていた。そうだよね。私だって、都築陽菜子がこんなことをするなんて思いもしない。驚いて当然だ。

「は? 口出しするんじゃないよ」

「口出しするよ。誰もあんたに何も言わないから、言ってやる」

 由衣、大丈夫。

 私が助けるから。

「由衣は何も悪いことをしていない。あなたの方が悪だ。自分の思い通りにいかないことがあれば癇癪を起こして。全員があんたの手駒だと思うなよ」

 体中がピリピリと痺れる。怒りにまかせて叫ぶことに身体も驚いているのだ。

「……だけど、少しあなたのことが分かった気がする。由衣が何を考えているか分からないことが嫌なんだ。他人が考えていることが分からないのが怖いんだ」

 過去の出来事がフラッシュバックした。

「相手の気持ちになって考えましょう」

「陽菜子ちゃんは、人の気持ちが分からないからね」

 そうか。そうだよね。城ヶ崎は特別ではない。

「私と一緒だ」

「あんた、いい加減に!」

 城ヶ崎は目を見開いて、力強い歩みで私の方へ向かってきた。私なんかに一緒って言われて怒っているの? そんなところも……特別ではない。普通の高校生なんだね、城ヶ崎は。

「おいおい。なんだ、これは。何があったんだ? ……城ヶ崎、答えてみろ」

 教室に入ってきた間瀬は加害者である城ヶ崎に目を向けた。

 城ヶ崎の足が止まり、私はその隙をついて、由衣の手を取って、教室を飛び出した。後先なんて考えていない。これは衝動的なものだ。逃げる必要はなかった。私達は被害者で、守られるべき立場なのだから。だけど、何故か私は、由衣をあの場に留まらせたくなかった。

 私は由衣の手を引いて、教室を出ると、校舎の階段を登れるところまで駆け上がった。何度か階段に躓いたし、由衣から「ちょっと、どこに行くのよ」と尋ねられたけど、私には答える余裕はなかった。仕方がないでしょ。自分でも考え無しに飛び出したのだから。行けるところまで駆け抜けるしかなかった。

 五階から屋上へ繋がる階段を駆け上がると、頑丈な鉄の扉を身体で押して屋上に出る。雨は上がっていて、空は青かった。屋上の真ん中には大きな水溜まりができていた。空の青さを反射して、澄んだ青色をしていた。

 私はスリッパのまま、その青の中に飛び込んだ。もちろん、由衣の手を引いて。

「ねえ、濡れたんだけど」

「そりゃ、水溜まりに入ったんだから濡れるよ。でも、ほら、空の中にいるみたいじゃない?」

 足を少し動かすだけで、水面が揺れる。綺麗な空に波紋が広がった。上を見ても、下を見ても青。それが、どこまでも広がっている。

 由衣は清々しい表情を見せていたが、私の行動には呆れているようだった。

「全く、何をやっているのよ」

「何って。由衣は殴られたんだよ? 止めないほうがおかしいでしょ」

 みんな見ているだけ。あれだけの大事があったというのに、誰一人止めに入ろうとしていなかった。私からすればそちらの方が異常だ。

「……どうせ誰も止めないだろうと思って城ヶ崎のやりたいようにやらせていたのに」

「どういうこと?」

「私が城ヶ崎のことをじっと見つめていたら、あいつの勘に障ったみたいで、絡んできたのよ。ちょっと挑発したら殴ってくるし。それに、あいつが殴ったくらいで、それも平手打ちで、人の身体があんなに大きく転がり落ちるわけが無いでしょ。大事にするために机も倒して転んだの。そうでもすれば、あいつはタダじゃ済まない。間違いなく教師にも話は伝わって注意を受ける。本当は、更に一発か二発殴られて、私が怪我をしたら、あいつの逃げ場もなくなっただろうけど。まあ、間瀬も良いタイミングで来てくれたよ」

「えっ、わざとやったって言うの?」

「そう言ってるでしょ。まあ、私が挑発したことは誰も証明出来ないけれど」

「な、なんだって! そんなことなんで?」

「城ヶ崎は前から私にいちゃもんをつけていたから、むかつくのよ」

「むかつくって」

「向こうから話しかけてきて、適当に返事をすると、勝手に不機嫌になるの。おかしな話でしょ? 気に食わないのなら、話し掛けなければいいのに。あの女王様からすれば自分の思い通りにならない奴がいることが気に食わないのだろうけど」

「……城ヶ崎は由衣が何を考えているか分からなかったから、何か仕出かすんじゃないかって、怖かったんだよ、きっと」

「何それ。バカみたい。城ヶ崎が何もしなければ、私も何もしないのに」

「でも、何をするか分からないっていうのは当たってた」

 自ら殴られにいくなんて。自分から騒動を起こして相手を罠におとしめるようなことをするなんて思いもしなかった。

「まあ、そうだね。それも陽菜子に手を出したのがいけない。今日の昼、呼び出されているのを見たの」

 ああ、見られていたのか。

「誰か知らないけど、男子もいたんじゃない? あんな部屋に多対一だなんて、卑怯だよね。私を呼び出せば良いのに、陽菜子を呼び出すあたりも根性がない。気に食わないのは私じゃないのかよって。結局、城ヶ崎は臆病者なんだ。私が罠に嵌めないと手をあげることもできない臆病者だ」

 由衣は、水溜まりを優しく踏んで、ピチャピチャと音立てた。

「陽菜子、大丈夫だった? もしかして、金曜日も呼び出されていたんじゃない? ずっと様子がおかしかった。私や早川さん、榊原さんを人質にとるような真似をされていたんじゃない? そんなことされたら、陽菜子もどうしようもできないよね」

 私は何も話さなかったのに、由衣は全てを知っていた。

 どうしようもできなかった。私は皆を守ろうとしたけれど、結局は由衣に助けられていたのだ。だんだんと自分の中にある罪悪感にも似た感情が膨れ上がってきた。

「私ね、城ヶ崎に恨まれても由衣と二人なら良いって、ずっと思っていた。だけど、怖かった。千尋や寧々を失うことも。結局二人を失って、由衣との時間だって失いかけた……私は、城ヶ崎が何をするか怖かったんだ」

 そうだ。城ヶ崎が何を仕出かすか分からなくて、怖かったのだ。城ヶ崎が由衣を恐れていたように。

「今なら、城ヶ崎の気持ちがよく分かる。私も城ヶ崎と同じなんだ。人の気持ちは分からない。それが怖い。城ヶ崎は他者に有無を言わせぬ確固たる地位を築く努力をしたし、私は周りに合わせる努力をした。由衣はさ、人の気持ちが分からないことに対して、怖いって思っていないでしょ?」

「うん」

「そういうところ。そんなあなたが眩しくて、好き。自分を貫いている姿が好き」

「そんな格好いいものじゃないよ。分からないものに対して、理解を諦めているだけ」

「そう思えることが私には羨ましい」

 小学校のときに授業で教師から言われた「相手の気持ちになって考えてみましょう」という言葉がいつまでも頭の中に残っていた。だから、人の気持ちを考える努力をして、周りに合わせて生きてきた。

「私と違う生き方が羨ましかった」

「私からしてみれば、みんなと仲良くしている陽菜子は羨ましかったよ。私にはできないことだから」

「なにそれ。二人とも無い物ねだりってこと?」

 二人して「バカみたい」と笑った。

 無い物ねだりなら、手に入れればいいじゃない。

「由衣。今度ちゃんと話そう。千尋や寧々とも。話せば二人とも分かってくれる。友達になれるよ」

「そうかな? 嫌われているんじゃない?」

「そんなの、話してみないと分からないよ」

 四月。私が由衣に話し掛けるまでは、彼女が可愛らしく、行動力があって、芯の強い、だけど友達思いな人だなんて知らなかった。由衣も私のことは何一つ知らなかっただろう。だから、千尋が何を思っているのか、寧々が何を感じているのか、話してみよう。きっと分かりあえる。

「これからどうしようか」

「次は間瀬の授業だから、サボろう。それに戻らない方が、わたしたちが何をしているか分からなくて、城ヶ崎も怖がるでしょ」

 なんて二人して笑った。

 屋上を二人でピチャピチャと音を立てて跳ねる。空も屋上も青い。屋上から見た校庭にも水溜まりができていて、青が広がっていた。それは、私達が初めて話をしたあの日のようだった。

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