第19話 Another side(4)

 六月の後半に入り、雨が続くようになった。

 陽菜子と登下校する頻度は増え、同じ時間を過ごすことが増えた。朝は同じ時間のバスに乗り、バスを降りる瞬間に他人になる。帰りは授業が終わるとバス停に向かい、バス停で合流する。とは言っても、互いに言葉を交わすのは乗車してから。他の生徒に見られないように細心の注意を払っていた。

 ある金曜日、帰りにバス停で待っていても陽菜子はやってこなかった。

 雨の中、傘を差して待っていると、陽菜子よりも先にバスがやってきた。こんなことは初めてだった。バスは私の目の前に停まり、扉が開かれる。「さっさと乗れ」と言われているようだった。

 正門を見るが、陽菜子が来る様子はない。

「すみません、行ってください」

 運転手に伝えて、私は頭を下げた。

 次のバスは三十分後だ。決して短い時間ではない。この雨の中、陽菜子を待つか、学校に戻るか。

 スマホのメッセージアプリで「どうしたの?」と陽菜子に送る。それはいつまで経っても既読にはならず、返事も来なかった。すぐに返事が来ると期待していたわけではない。何か理由があって、帰ることができないのだから、スマホを見ることもできはしない。そんなことは理解していた。吹き込んだ雨粒と私の頬から落ちた水滴でスマホの画面が濡れる。画面が滲んだ。

 学校に戻っても彼女に声をかけることはできない。入れ違いになることも考えられる。

 暗く低い空を眺めて、私は彼女のことを待つことにした。

 何台もの車が目の前を通り過ぎ、その度に雨が弾ける。いつもならば楽しみで、嬉しいはずの雨。それが今は、私を濡らし、凍えさせるものとなって降り注いでいる。なんでこんなにも辛いのか。雨は私の身体だけではなく、心までも凍えさせていた。

 大勢の生徒がバス停に押し寄せてくる。一歩後に下がって、生徒達を除ける。色々な学年の生徒達は私のことを一切気に掛けず、談笑しながらバスを待っていた。その中に陽菜子がいないか探したけれど、見当たらなかった。バスがやってきて、みんなが乗っていく。気が付くと、バス停には私だけが取り残されていた。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。

 スマホを見ると、陽菜子を待ち始めてから一時間近い時間が経っていたが、まだメッセージに既読は付かない。もうすぐ次のバスが来る。そこまで待っても来なければ、帰ろう。そう思ったときのことだった。

 一つの傘がこちらに向かってくる。

 見間違うわけもない。何度も見てきたその白い傘。先端が少し上がって、持ち主が顔を見せる。

「なんで、いるの」

「それはこっちの台詞。いつまで待たせるの」

「ごめん」

 バスが来て、それに乗った。

 今まで何をしていたのか。私は問いたださなかったし、陽菜子も話さなかった。

 彼女が話さなかった理由は分からないけれど、私は問うことで今の関係が少しでも崩れるのが嫌だった。私に全てを話さなければいけない義務が陽菜子にあるわけではない。話したくないことがあっても私が咎めることではない。だから、彼女が話したくなければ、私は聞こうとは思わなかった。

 だけど、陽菜子の表情は暗い。話さないと言うことは、きっと私に関係のあることだ。そこまで思考を辿ると、その先は考えるまでもなかった。城ヶ崎か、早川さんか。そのどちらかが陽菜子の心を傷つけたのだと分かった。

 大丈夫。

 陽菜子は一人にさせない。

 私が助けるから。


「今日は早いのね」

「うん。ちょっと用があって。このくらい早い時間に家を出ないと間に合わない」

 いつもよりも二時間早く家を出た。空いっぱいに雲は広がり、雨が降っていた。辺りは真っ暗だけれど、まだ陽が昇る前なので、晴れていても同じだろう。そんな時間にもかかわらず、お母さんは駅まで送ってくれた。

「友達のためでしょ? 由衣がこんなに早く家を出るなんて」

 何でもお見通しだった。顔に書いてあるとはよく言うけれど、私の顔はそんなにも分かりやすいのだろうか。

「だって、学校の用事にしてはいくらなんでも早すぎるし、由衣が何のために無理をするかと言えば、例の友達のためかなって。由衣は察しのいいほうだと思うけど、人付き合いの対応を間違えやすいから気をつけなさいよ」

「間違えやすい?」

 分かっている。

 小学生の時のことだって、私が見て見ぬ振りをしていれば、いずれは飽きられて、物を盗まれることもなくなったかもしれない。そして、元の友人という関係に戻れたかもしれなかった。……本当に? 私を売った人と元通りの関係に戻れる? そんなわけがなかった。

「私は間違っていたようには思わない」

 いくら考えても、答えは同じだった。

「そう? 私だったら、証拠を掴んで先生に言いつけるけど」

「は?」

「そうすれば、あなたを売った人も、指示した人も一網打尽でしょ? そうすれば、由衣は悲劇のヒロイン。みんな、あなたの味方をしてくれたはず。それなのに、大人の目が届かないところで、由衣は友達と言い合いをした。由衣は一人になったけど、相手はこれまで通り何も変わらない。由衣は、自分だけが損をするやり方を選んだ。悪いと言っているわけではないけれど、もっと自分を大切にしなさい」

 大切にしている。だから、今まで友達を作らずにいたんだ。友達を作ったからこそ、今もこうして、早朝から登校しようとしている。友達がいなければ無理をする必要だって無かったのだ。陽菜子と出会っていなければ……。だとすれば、今が間違っているの?

「何も、今が間違っているわけではないわ。ただ、今は由衣を大切に思ってくれる友達がいるのだから、その友達が大切にしている由衣自身を、あなたが大切にしなくてどうするの? 大事な人にとっての大事な人を守りなさい。自分のことを勘定に入れるの」

 自由主義のお母さんにしては珍しいことを言う。お母さん自身はどうであれ、打算的な考えを子供に教える人だとは思わなかった。意外だったからこそ、心に響いたし、ガツンとやられるような新鮮な考えが頭に入った。

「そうだね。ありがとう。私は、友達……陽菜子が大切。助けてあげたい。だから、ちょっと行ってくる」

「頑張りなさい。たまには無理の一つや二つ、したっていいんだから」

 ありがとう。

 お母さんの言うようなことが上手にできるかは分からないけれど、私がやれるだけのことはやってみるよ。


 始発電車に乗り、学校の最寄り駅に着く。物陰に隠れて、陽菜子が到着するのを待った。一時間ほど待つと、陽菜子が現れた。予想通りだ。金曜日の帰りに、バスに乗る時間を遅らせて私に会わないようにしたのだから、朝も時間をずらしてくると踏んでいた。

 陽菜子に近づき、逃がさないように腕を掴む。

「こんなに朝早くから、どうしたの? 今、学校に行っても開いてないでしょ」

「……なんで」

 どうして私がここにいるのか分からないといった様子だった。まだまだ陽菜子は私のことを理解し切れていない。私はあなたのためなら、いくらでも無茶をする。

 彼女の顔にはクマができていた。あまり寝ていないのだろうか。

「私の質問に答えてもらっていないんだけど」

「ごめん」

「金曜から様子がおかしい。帰りだって私を避けるようにしていた」

「避けてないよ」

「嘘。何も言わずに一時間も私を待たせたくせに、何を言っているの」

「ごめん」

「……ごめん、違うの。そんなことを怒っているわけではなくて。今思えば金曜の午後から陽菜子の様子はおかしかった。挙動不審というか。もしかして、体育の授業で早川さんに何か言われたの?」

「違う。千尋は悪くない。私が悪かったの」

 ……やっぱり、早川さんにも何か言われたのか。ただ、陽菜子が憔悴している原因にはそれ以上のものがあるように思えた。

「じゃあ、何? 何で私を避けているの?」

「避けてない。いつも通りだよ。今日だって、ちょっと早く学校に行きたい気分だっただけで。ごめんね、何も連絡していなかったのは謝る。ほら、バスも来たし行こう」

 早々に私との会話を切り上げた。

 城ヶ崎と早川さん。早川さんがどのような人かは分からないけれど、私が五十メートル走で早く走ったことに嫉妬すると言うことは、陽菜子が自分を捨てて、私と仲良くしていると思っているかもしれない。教室での様子を見ても、明るい性格に間違いは無いので、陽菜子に対して陰湿な方法で手出しはしていないだろう。やはり、問題は城ヶ崎。辺りには愛崎高校の生徒は見当たらない。早朝なので当然ではあるが、城ヶ崎がどの程度、私や陽菜子のことを監視しているかは計り知れない。視線に敏感になる。

 バスの中では互いに無言だった。

 いつも通り、他に乗客はいなかった。そういえば、五月に一度だけ、陽菜子が「誰か乗っていなかった?」と言ったときがあった。陽菜子を心配させないために「何のこと?」と答えたけれど、バスから降りていったのはクラスメイトの大槻だった。身長や傘の色、窓越しにこちらを確認した際には顔も見えた。あの頃から陽菜子への攻撃が始まっていたとは思えない。何かあったのは金曜日。それは間違いない。つまりひと月もの間、放置されていたことになる。向こうも、私達が仲良くしている証拠を集めてから動き始めたと言うことか。

 やっぱり、臆病だね。城ヶ崎は。

 バスを降りて、傘を差す。空のような水色が私の頭上に広がる。一歩、二歩進んだところで、後ろからバシャバシャと大きな音が聞こえ振り向くと、陽菜子が走り去っていた。

「マジかよ」

 ここで逃げる? 私を避けることに徹底していて、驚くことしかできず、彼女を追うことは出来なかった。陽菜子がそこまでしなければならないということは、強く圧力が掛けられている。早めに決着を付けるのが良さそうだ。

 雨の日がまた楽しめるように、私達の大切な時間を取り戻さなければならない。


 昼食を終えると、陽菜子が珍しく食堂にいることに気がついた。そして、その隣にいるのは大槻だ。二人が仲良くしているところは見たことがない。

 声を掛けようかとも思ったけれど、二人が立ち上がったので、そのタイミングを逃してしまった。

 多目的室に二人が入っていく。授業でも使ったことのない教室に何か用事があるのか? 嫌な予感がした。扉に耳を近づける。中に誰がいる?

「間瀬に何か言った?」

 城ヶ崎の声だ。陽菜子は城ヶ崎に呼び出されたのか。陽菜子と城ヶ崎、大槻の他にも数人が部屋にいるに違いない。用意周到な城ヶ崎のことだから、陽菜子が逃げられないような人数を揃えているだろう。

「何も言ってない」

「本当に?」

「信じないの?」

「だってさ、あんたは私との約束、破ったでしょ? 金曜日の帰り、高瀬と一緒に帰ったらしいね。本当に仲が良いんだ、あんた達。そういうのさ、私ムカつくんだよね。約束を守らないやつって」

 約束と言っているけれど、一方的に城ヶ崎が突きつけた条件でだろう。

 金曜日の帰りに陽菜子がバスの時間をずらした理由は分かった。大方予想通りだ。

「まあ、いいよ。あんたはやっぱり高瀬の仲間だし、私はあいつをこれ以上自由にさせたくない。……そうだ、あんたが高瀬に何かしなよ。大切なものを盗るでもいいし、手をあげてもいい。どう? やりなよ。仲良しのあんたがそんなことをすれば、高瀬も懲りるでしょ」

 ああ、あのときと同じ。

 小学校の時と同じだ。

 みんな自分のことが大切だ。それは仕方が無い。

 陽菜子も、そうなのかな。そうだとしたら、私はどうする。きっとまた、以前のように受け入れるのだろう。

 だが、陽菜子は美佳とは違った。

 私は彼女の答えを聞いて、その場をあとにした。

 本当は乗り込んで、怒りに任せて城ヶ崎のことを殴り飛ばしてやろうかと思ったけれど、それでは何も解決をしない。私が教師に取り押さえられるだけだ。一過性の感情を晴らすだけでは私の怒りは収まらない。

 陽菜子を助け、城ヶ崎を懲らしめる。

 そのために私は何だってやってやる。

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