第16話 Another side(1)

 高校の入学式で新入生代表として挨拶をするように依頼があったのは三月の半ばのこと。

 中学を卒業し、春休みを満喫している中……具体的には、部屋でベッドに寝転びながら本を読んでいたときに、電話がかかってきた。

「由衣、電話」

「はーい」

 リビングでは、お母さんが眉間にシワを寄せて立っていた。

「なんか、変な男からなんだけど。あんた男友達いる?」

「いるわけ無いでしょ」

 女友達だっていないのに。お母さんもそれを知っていて言っている。

「なら、やっぱり変よね。気をつけなさい。住所とか言っちゃダメだからね。変だと思ったら電話切りなさいよ」

 お母さんは、何か汚らわしいものを持つように、親指と人差し指の二本で受話器を摘まんで、私にそれを渡した。すると、さっさとソファーに座って、テレビで昼のワイドショーを見始めた。

 男からって、そもそも名前は? 聞きそびれたが、電話の向こうの相手に直接聞いた方が早い。受話器を耳に当てると、聞き覚えのない男の声が聞こえた。

『ええ、間瀬と言います』

 ヤバい電話かと思った。知らない男が名乗り始めたら怪しむでしょ? 良識のある大人なら、まず自分の素性を明かすものだ。電話を切ろうかとも思ったが、一言だけ断っておこう。

「誰ですか、あなたは? 切りますよ」

『名乗ったのに、誰ですかはないだろ。……高瀬由衣だな? 担任の間瀬健次郎だ』

「担任の先生はそんな名前じゃありません。それに女性です」

『すまない。言葉足らずだった。来年度、愛崎高校一年A組の担任を務める、間瀬健次郎だ。高瀬はA組。俺の受け持つ生徒の一人だ』

 A組は初耳だが、愛崎高校は私が四月から通う予定の高校。どうやら本物の教師のようだ。

「分かりました。信じます。間瀬先生、何の用でしょうか?」

『高瀬に頼みたいことがあるんだが、断らないでくれよ』

「それは内容次第です」

『入学式で、新入生代表として挨拶をしてほしい。もちろん、台本は用意されていて、当日も読み上げればいい。何も難しいことじゃないんだ』

 新入生代表の挨拶と言えば、体育館の壇上に上がり、校長の前でお決まりの言葉を読み上げるアレだ。面倒だな。

「なんで私なんですか?」

『入学試験の成績が優秀だったから。高瀬が断れば、他の生徒に頼むことになる。だが、どこからか高瀬が断ったらしいという噂が流れても俺は知らない』

 は? この教師、脅しているのか。そんな噂が流れれば、私が嫌みな奴みたいじゃないか。

「分かりました。引き受けますよ。安心してください」

『それは助かる。他の生徒に頼むのも面倒だからな。それじゃあ、入学式の前日に学校に来てくれ。練習くらいはしておきたいだろ?』

 日時の詳細、当日の持ち物も教わり、電話を切った。

 練習なんていらない。間瀬も台本を読み上げるだけだと言ったではないか。わざわざ春休みを消費してまでやることか?

 煩わしい仕事を引き受けてしまった。

 脅されたことは絶対に忘れない。

 変な教師に当たってしまった。


 入学式前日に高校に行くことは憂鬱だった。春休みが一日減るからだ。それに加えて、あの胡散臭い担任教師、間瀬健次郎に会うことになる。

 天気予報では今晩から雨が降るという。今朝は雲が少しあるものの青空が広がっていた。

 私は同級生よりも一足先に制服に袖を通して登校する。鏡の前に立つ。見慣れない姿を見て、似合っていないと感じるが、そんなものだろう。中学の入学時も同じことを思った。

 自転車を漕いで学校へ向かう。籠の中には通学バッグが一つ。校内で使用するスリッパや体育館シューズ、筆記用具が入っている。練習は午前中に終わると聞いているので、雨の心配も無いだろう。通学ルートを確認しながら、学校へ向かう。幹線道路に沿って走れば学校の近くまで辿り着くので、難しい道ではない。入学試験のときにも通った道なので、迷わずに到着した。学校の駐輪場には数台の自転車が置かれている。先輩方が部活動のために登校しているのだろう。立派なことだ。

 昇降口にはクラス分けの表がすでに貼り出されていた。その表から自分の名前を見つけ出すのは簡単だった。間瀬からA組だと教わっていたから。A組の教室に行き、自分の席を確認する。明日からここで過ごすことになる。教室の真ん中の席だった。

「変なやつがいないといいけど」

 私からは関わることはしないから、私に関わろうとしないでくれ。

 それだけが願いだった。

「高瀬由衣か?」

「はい」

 席に座って待っていると、茶色のスーツ、無精ひげの男が現れた。シャツも撚れているし、だらしなさが目立つ。彼が間瀬健次郎だろうか?

「担任の間瀬だ。よろしく」

 電話越しに感じたイメージにぴったりの容姿だった。

「高瀬由衣です。よろしくお願いします」

「おう。春休みだっていうのに、来てもらって悪いな。これ、台本ね」

 渡されたのはペラペラな紙一枚。台本と言うから身構えていたが、新入生代表の挨拶を思い浮かべれば、このボリュームであることは明白だった。

 三つ折りされた紙を開く。プリントされた文字を目で追う。難しい漢字もなければ、長くもない文章。この内容なら苦労せずに読み上げられるだろう。

 体育館へ移動すると、教師と生徒数名が生徒や保護者の座るパイプ椅子を並べ始めているところだった。駐輪場にあった自転車はこの人達のものかもしれない。

 舞台中央に最も近い席の前で、間瀬は説明を始めた。

「高瀬は、この席に座ってもらう。クラス毎、学籍番号順に並んで新入生は入場するが、高瀬はクラスの一番後ろに並んでくれ。そうすれば、この席に座ることになる。教頭が司会進行を担当しているから、名前を呼ばれたら返事をして立ち上がる」

 その後、各方面へ礼をして、壇上に上がり……と一連の動きを教えられた。礼をすることを忘れなければ問題はないなと感じ、「分かりました。問題ありません」と間瀬に言うと、練習をした。一度だけ。

「良いんじゃないか。終わるか」

「えっ、終わりですか?」

「ああ、今の通りに明日もやってくれれば問題は無い。よくできていたぞ」

「……もっとこうしろとか無いんですか?」

「代表の挨拶なんて、出来が悪くなければそれでいい。上手くできたところで誰も何も言わんが、出来が悪いとお偉いさん達が五月蠅い。そんなものだ。単なる通例の儀式みたいなものだからな。そう気を張るな」

 と言ってリハーサルは終わった。たった一度読み上げただけで味気なかった。

 代表の挨拶に対して、張り切っているわけでも、不安なわけでもなかった。ただ、この先一年、彼の指導の下にいると思うと不安ではあった。このいい加減な教師で大丈夫だろうか。


 天気予報通り、昼過ぎからは雨が降ってきて、夜には土砂降りになっていた。

 翌朝、目が覚めたときにはこれまでの陽気を掻っ攫ったかのように寒かった。

 入学早々雨とはついていない。昨日、通学路の確認をしたというのに、水の泡である。この雨では自転車での登校は難しい。ずぶ濡れの姿で代表挨拶をするわけにはいかなかった。駅までお母さんに車で送ってもらい、電車、市バスと乗り継ぐことになる。元々、私の家の立地ならば、駅からスクールバスを利用することも可能だった。だが、スクールバスは人が多く、煩わしいので嫌いだ。お母さんからは「まあ、あんたはそういう子よね」と言われた。そういう子という引っかかる物言いだったが、協調性、社交性がない子ということはすぐに分かった。母子ともに共通の認識を持っているので、理解が早くて助かる。普段から市バスを使うことも考えたが、バスという不慣れな乗り物を利用することに対して気が重く、自転車で通学することに決めた。

 始業時間よりも一時間早く登校するように間瀬には言われており、お母さんには申し訳ないが、早朝から車を出してもらうことになった。

「代表挨拶なんて、なかなかやる機会はないからね。いい経験なんじゃない?」

 そうは言うものの、興味はなさそうで、

「そういうのって、誇らしいの? 母親としては」

 私が尋ねると、

「別に誇らしくはないわよ。あんたがやらなくても、誰かがやるだけでしょ? たまたま、由衣がやるだけ。そんなことよりも、私は由衣が高校に行きたいって言ってくれたことが嬉しいけどね」

「そう」

 子供が何かの代表を務めることは普通の親ならば嬉しいことなのかと思っていたが、この人は“普通”とは少し違うのかもしれない。

「私が高校行きたいって言ったの、そんなに嬉しいの?」

「嬉しいわよ」

 嫌々中学に通っていたわけではなかったので、そこを喜ぶのかと不思議だった。

「由衣って、人付き合いが嫌いじゃない。きっと上手くやろうとすればできるけど、それが苦手。学校みたいな集団行動を強要される場所は嫌いだと思ってた。義務教育までは文句を言わずに通ってくれたけど、その先はあんたの自由だし」

「それで、進学してくれて嬉しいってこと?」

「あー、違う違う。自分で進路を決めてくれたことが嬉しいのよ。私やお父さんがやれって言った道に進むのではなくて、由衣が好きな道を選んでくれたのが嬉しいの」

「そう」

 親心は難しい。

 私は、仲が良かったわけではないけれど、中学のクラスメイト達が皆進学を選択していたので、自分の学力にあった高校を受験したまでだ。

「皆と同じことをしただけだよ」

「そうね。でも、あんたが“皆と同じ”を選ぶなんて珍しいじゃない。同じことがいいとは言わないけど、今までの由衣なら“皆と同じ”なんて嫌うだろうなって思っていたから。突拍子もない進路を選ぶことだって覚悟していたんだよ」

 うちの親は楽観的すぎる。どんな選択をしていても、肯定して、喜んでくれる。そんな考え方で大丈夫? 不安にもなるが、今はこの人達が親で良かったと思う。

 駅のロータリーは送迎の車でごった返して、駅前の道の信号が青になっても車は動かなかった。

「ここでいい。駅まで歩くから」

「そう? 気をつけていきなさいね。代表の挨拶、ほどほどに頑張りなさい。私とお父さんも観に行くからね」

「うん。わかった。ありがとう」

 助手席のドアを開けた途端に音量をMAXまで上げた雨音が耳に飛び込んできた。バチバチと地面を打ち、跳ね返って足下が濡れる。

 傘を差し、足早に駅へ向かう。雨天で電車が遅れて到着した。電車内は予想より人が少なく、向かいのホームの電車は反対に目一杯人が押し詰められていた。私が向かうのは街の中心から離れていく方向なので、会社員はこちらの電車にはほとんど乗っていない。

 バスの時間を確認する。間に合いはするが、ギリギリだ。電車を降りたら走った方が良い。電車が停まり、扉が開くと同時にスタートの合図が切られる。ホームから階段を下って、改札を出て、バス乗り場へ向かう。すでにバスは到着しており、低く重厚感のあるエンジン音が聞こえた。飛び乗るようにして乗車すると、それが合図のように扉が閉まった。車内を見ると、後方に誰かが座っていた。暗い車内では顔まで分からなかった。前方には誰もおらず、乗客は私と、もう一人。前方に座ると、運転手がこちらにちらっと視線を送った。私が座ったことを確認すると、バスは前進を始めた。

 学校までは十分程度で到着した。雨脚は強くなる一方で、傘では防ぎきれず、バスを降りた途端に足はびしょびしょに濡れた。ローファーも靴下も濡れた。入学式や代表の挨拶の心配よりも靴下の濡れ具合が気になっていた。学校についたら靴下は換えよう。

 昇降口で靴と靴下を履き替えると、そのままの足で体育館へ向かった。当然ではあったが、全ての椅子が並び終えてあった。

「おう、高瀬。雨の中ご苦労」

 適当なことばかり言って。

 間瀬は昨日と同じ色のスーツを着ていた。昨日より若干皺が少ないように思う。

「それは間瀬先生も同じですよね」

「まあ、そうだが」

 隣に初老の男が立っており、その視線を感じてか、間瀬は咳払いを一つした。

「そんなことよりも、今日は入学式だ。これから、こちらの峰藤教頭にご協力頂いて、実際の式と同じように進行する。昨日の練習の通りにやればいいからな」

 随分と畏まっているけれど、この教頭が怖いのか? 和やかで人が良さそうに見えるけれど、教師には厳しいタイプなのだろうか。体育館にはもう一人、生徒がいた。緑色のスカーフを首に巻いている。三年生だ。在校生代表として、式で一言述べるのだろう。

 式の練習は滞りなく終わった。なんせ、昨日間瀬が読み上げていた文言を教頭が読み上げているだけなので、私にとっては何も変わりはしない。教頭が式の前に、今年の新入生代表の出来具合を自分の目でも確かめておきたかったのだろう。

 緑色のスカーフの生徒は私の思っていた通り三年生、生徒会会長のようで、彼女も私と同じようなペラペラな紙を持って、ペラペラな祝いの言葉を述べていた。先輩とは特に言葉を交わすことなく、その場は解散となった。式の時間も近づいており、私と間瀬は教室へ急いだ。

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