第14話 六月(3)

 授業が終わると、一目散に帰る。打ち合わせしたわけではないけれど、私も由衣もそうしていた。そして、バス停で合流。とは言っても一切会話はない。少し距離を置いてバスを待つ。バスがやってきて、乗車したら「今日も、いつものところでいいよね」なんて由衣が話し掛けてくる。そして、二人が隣同士に座る。それが日常だった。


 今日も授業が終わり、由衣が教室を出て行くところを見送った。千尋と寧々も早々に帰路についていた。遠くで城ヶ崎がニヤけながらこちらを見ている。「分かってるよ。距離を置けばいいんでしょ」と向けられた笑顔に対し、心の中で返事をする。

 教室に居づらく、自習室に逃げ込む。時計はバスの出発時刻を過ぎていた。由衣はもう行ったはずだ。次のバスは三十分後。万が一にも由衣が待っていた場合に備えて、更にもう一本後、一時間後のバスに乗ろう。それまで、時間を潰さなければならない。自習室を利用するのは初めてだ。何人もの生徒が利用しており、ルールを守っていた。静かに過ごすこと。勉強のために利用すること。そのほかにも細則はあったが、主なものはその二つ。皆がそれを守っており、扉の開け閉めの音が大きく聞こえた。

 机にノートを広げるけれど、全く勉強する気にはなれず、ただただ天井を見て過ごした。今頃由衣はどうしているだろう。もう駅に着いて電車に乗っている頃だろうか。

 私がバス停に来なかったことに対して、由衣は何を思うだろう。何も思わずにバスに乗ったのだろうか。寂しいと思ったのだろうか。申し訳ないと思うが、由衣と一緒にいることで彼女や千尋や寧々にも迷惑を掛けてしまう。だから、私が今ここにいることは、仕方の無いことなのだ。私の行いを正当化するために、そう思うようにした。城ヶ崎の手のひらの上で踊らされているなんて思いたくはなかった。


 一時間経った。もし由衣がいたらどうしよう。嬉しいな。待っていてくれたことではなく、会えることが嬉しい。そんな現実逃避にも似た妄想を抱きながら、バス停へ向かう。

 バス停に水色の傘が見えた。見覚えのある傘で、私は足を止めた。雨の日には欠かさず見ている傘だった。

「なんで、いるの」

 傘がゆっくり動き、由衣が顔を覗かせた。怒っているようでも喜んでいるようでもなく、あらゆる感情を押し殺した表情だった。

「それはこっちの台詞。いつまで待たせるの」

「ごめん」

 それからはいつもと同じだった。お互いに何も話さず、バスを待った。由衣は聞きたいことがあるだろうに、何も言わずにいてくれた。ただ、この場を城ヶ崎に見られたら、どうなるのだろう。「忘れ物を思い出した」なんて言って教室に戻れば良かったのだろうか。それならば由衣は一人で帰るだろうか。そんなことはない。一緒に教室に戻るだけだ。きっと私達は自分たちが思っている以上に相手に執着をしている。一人にはなれない。

 やがて、遠くにバスが見えた。ヘッドライトが眩しく、目を細める。そのとき、一瞬だったが、対岸に赤いスカーフが揺れていた気がした。あれは、大槻だ。すぐにバスが影になって見えなくなる。私は後悔した。教室に戻れば良かった。この時間なら城ヶ崎達も下校していて、目は届かないと油断していた。由衣にあって気が緩んでいた。由衣に会いたいと願って、注意が薄れていた。私の落ち度だ。私はミスをした。

 私達はバスの中でも話をしなかった。いつものように隣には座ったけれど、それだけで、由衣は踏み込んでは来なかったし、私は何も打ち明けることができなかった。

 明日は土曜日。

 金曜日の帰りを、由衣と楽しく過ごせなかったことへの後悔はあったが、明日から二日間、学校から解放されることに対して、私はほっとしていた。


 翌日は土曜日だった。それは幸いだった。由衣のことも、千尋のことも考えずに済んだ。久万隈書店で商品を店頭に陳列する。カートで商品を運び、棚に並べて、再びバックヤードへ。長時間店内にいる必要の無い仕事だ。小説の文庫本を新刊の棚に並べる。出版社ごとに置く場所が決まっていた。

「陽菜子ちゃん、それ、ここじゃないよ」

「えっ」

 木崎さんに指摘されても間違いに気が付かなかった。何を間違えた? 手の中の本と、陳列棚を見比べるが、間違いに気づけない。

「ほら、この出版社はそこじゃなくて」

 本当だ。指摘の通り、配置を間違えていた。本来とは違う棚に陳列をしていたのだ。こんな簡単なミスをするなんて。

「心ここにあらずって感じだけど。大丈夫?」

「……大丈夫です」

 口ではそう言うものの、自分でも仕事に集中できていない自覚はあった。昨日、城ヶ崎に脅されたこと、由衣に何も打ち明けれていないこと。それがずっと頭の中から離れない。今日と明日は学校から離れているが、明後日からはまた城ヶ崎の監視のもとで、正解を踏み続けて生活を送らなければいけない。踏み外して間違いを選択すれば迷惑を掛けてしまう。友人たちの顔が思い浮かぶ。その人達のためにも、私は正しく生きなければならない。……あれ? 正しいって何だっけ? 由衣と仲良くしないことが正しい? 教師を頼らないことが正しい? 間違っていることをすることが、今の私には正しいのだ。その矛盾が心を蝕み、プレッシャーとなって肩にのしかかる。

「陽菜子ちゃんはいつも真面目に働いているから、ぼーっとしているなんて珍しいよね? 何かあったんじゃないの?」

「いえ、特にないです」

「そんなこと」

「無いって言っているじゃ無いですか。それに、何かあるって言ったら間瀬に言うんでしょ?」

 知らないうちに声を荒げていた。周りの客が私に注目をする。こんな日に限って客がいるだなんて。最悪だ。接客に回されていないだけ、助かっていた。この心持ちでは接客なんてできやしない。

「そんなことを言うってことは、やっぱり何かあったってことでしょ」

 ……ああ、しまった。間抜けなことを言った。気付いてくださいと言っているようなものではないか。正直に木崎さんに話すか? いや、それも無理な話だ。今の私には“正しいこと”ではない。

 私だけのことではないのだ。逃げ出したいという気持ちだけで話すわけにはいかない。

「でも、間瀬に知られたらどうなるか分からない。話すわけには……」

 木崎さんは間瀬に見せていたものとは違う笑顔を見せた。偽物。私に取り入るためのものだ。そして、私に優しい言葉を掛けた。

「話せば良いと思うよ。陽菜子ちゃんは、もっと大人を頼れば良い」

 私には他人の心が分からない。この人がどんなつもりで話しているのか。

 心配している? 誰の? 私? 間瀬?

 正直に話したら間瀬に、連絡が入るに違いない。私がアルバイトを始めた途端に連絡をされたのだから、今回も同様だろう。

 話せるわけがなかった。

「ごめんなさい。大丈夫です」

 それでも、私が何かに悩んでいることは間瀬に連絡されてしまうかもしれない。城ヶ崎がそれをどう思うか。彼女の心一つで私達の生活が一変する。

 ……いっそのこと、全てを話してしまえば良いのだろうか。

 分からなかった。

 ぐるぐると迷路の中、出口を求めて彷徨う。袋小路で出口など無いと分かっていても、求めずにはいられない。

 どうすることが私達にとっての最適解なのか。

 心が痛い。寒い。

 心が次第にすり減っていくのが分かる。

 私は、どうすれば良いのだろう。

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