第8話 五月(3)
「あれから二週間経つけど、間瀬も何も言ってこないんだよね」
おかげで、今も週末は久万隈書店でアルバイトを続けられている。この調子でいけば、三年間のバス代を稼ぎきるのも時間の問題だろう。
「間瀬って、良いやつなのかな」
「は? 何言ってんの?」
何気なく呟いた言葉に対して、大きく反応が返ってくるとは思わなかった。他に乗客はいないものの、運転手に聞こえるのではないかと思うほどに大きな声だった。
「間瀬は入学式でも言っていたでしょ。面倒を起こすなって。それだけよ。間瀬はいい加減な、ダメ教師なんだから」
「随分な言いようだね。何かあったの?」
深い溜息をつく。嫌なことを思い出しているようだ。聞いたことが申し訳なく感じる。
「私、新入生代表で挨拶をしたでしょ」
「うん」
「もちろん練習をするわけ。入学式前日にも登校したし、当日も朝早く来て体育館で練習したの」
あの時、由衣と同じバスにいたけれど、教室にはいなかった理由はそれか。今頃になって、あの日の疑問が解消された。
「普通担任なら付き添って、練習でアドバイスの一つでもするものでしょ? でも、間瀬は何も言わなかったわ。一度練習しただけで、“良いんじゃないか”って。あいつは面倒くさがりなだけよ。きっと陽菜子のことも、上司に報告するのも面倒なだけ。担任する生徒の面倒を見る気が無いのよ」
「……そうか。ちょっと残念」
「生徒の面倒を見ない教師って言うのは、世間一般に良い教師とはいわない。だから、間瀬は良い教師ではない」
力説する由衣を見ていると面白くなって、くすっと笑ってしまった。
「笑いごとじゃないんだけど」
由衣は怒っていた。間瀬のことが嫌いなんだな。
『次は――』
アナウンスが聞こえた。私はすぐにボタンを押す。今朝の由衣との時間はこれで終わる。数秒の間、私達はお互いの手を握って、今日も一日無事に過ごそうと誓いを立てる。どちらが先に手を差し出したかは今ではもう覚えていない。互いに取り決めをしたわけではない。何も言わずとも、相手の体温を感じようと、私達は手を伸ばした。細い指は冷たいが、その先に確かな熱を感じる。高瀬由衣を確かにそこに感じた。
バスのスピードが徐々に遅くなる。それは別れの時間が近づいている証拠。バスが停車すると、手は解かれ、初めに由衣が立ち上がり、バッグを肩に掛ける。
「それじゃあ、また帰りに」
「うん。またね」
由衣が先に降りて、歩いていく。その数メートル後を私が歩く。教室では前後の席だけれど、そこでの関係は未だに入学した日から変わっていない。今も、教室でも、私はただ由衣の背中を見つめることしかできない。バスの中の時間と、学校の中の時間の温度差が私には寂しく思えた。彼女は何を思っているのだろう。尋ねることもできないまま、私達はただ前後に座るだけの口を利かないクラスメイトに戻っていった。
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