第46話 パンドーラーの瓶

 パンドーラーは、ギリシア神話に登場する人類最初の女性とされている。プロメーテウスが天界から火を盗んで人に与えた事に怒ったゼウスは、人類に災いをもたらすためヘーパイストスに命令して贈り物の女性を作らせたという。泥から作られた女性パンドーラーには織機や女のすべき仕事の能力、男を苦悩させる魅力、そして恥知らずで狡猾な心が与えられた。そして決して開けてはいけないと言い含めて瓶を持たせ、プロメーテウスの弟であるエピメーテウスの元へ送り込んだ。瓶は穀物やオリーブ油といった善いものを貯蔵する器であるが、悪いものを閉じ込める牢獄のイメージもある。


 美しいパンドーラーを見たエピメーテウスは、ゼウスからの贈り物は受け取るなという忠告にもかかわらず結婚した。そして、ある日の事、パンドーラーは好奇心に負けてくだんの瓶の蓋を開けてしまう。

 瓶には疫病、悲嘆、憎しみ、妬み、悲しみ、飢え、欠乏、犯罪など無数の災害を引き起こす数匹の竜が閉じ込められていた。だが蓋が取り去られた瞬間に黒竜、青竜、黄竜、赤竜と四匹が次々と飛び出し、うねうねと空に向かい登って行ってしまったのである。こうして人間世界には災厄が満ち人々は苦しむことになった。パンドーラーはびっくりしてすぐ蓋を閉じたので、瓶の底に希望を意味する白い竜だけが取り残された。白竜は人間界の悩みを癒やす力を持ち、再生、希望を象徴していたのであった。





「アイダ、此処から少し東に行った村々で疫病が流行っているから、助けて欲しいと訴えが有りました」

「疫病が?」


 虹の精霊アイダは、話しかけて来る風の悪魔少女レイラを見つめた。レイラは風の便りから、村人たちの苦境を知ったのである。


「はい」

「でも、それは私たちの力が及ぶ問題ではないでしょう」

「ですが……」


 村人の話によると、疫病が流行る前に多くの者が青い竜の存在を噂しあっていたと言うのである。不気味な青い竜を目撃したと多くの者が囁き合った。この疫病はあの竜がもたらしたのではないかと。


「青い竜ですって?」

「はい、そのようです」

「……分かりました、では行ってみましょう」




 アイダたちが村に入ると、そこかしこに倒れている村人の多さから、これがただの疫病ではないと、同行するジャガーのワイナやゴリラのトゥパックも直感した。


「ひでえな」

「このままだと村は全滅するんじゃないか」

「その青い竜を見たと言う方の話を聞かせて下さいませんか」


 アイダが村の長に申し出ると、数人の男が恐る恐る話し始めた。


「彼奴はそりゃあ気味の悪い竜でした」

「…………」

「彼奴に睨まれた時は……もう生きた心地が……」


 話は聞いたが、結局何処にいつ出るのか分かる事は無かった。相手が出てこない事には手の打ちようがない。


「アイダ、今度は別の村です」

「また青い竜が?」

「いえ、西の方角にある村なんですが、青ではなく黄色い竜だそうです」

「…………!」

「食料が次々に腐って、村人が飢え始めたそうです」


 アイダたちは直ぐその村にも行ったのだが、やはり竜の存在は確認できず、なすすべがなかった。


「アイダ」

「まさか」

「別な村で今度は赤い竜だそうです」

「…………」

「村人同士が些細な事から殺し合いを始めて収拾がつかなくなっているとの事です」

「すぐ行きましょう」


 アイダたちが駆け付けると、確かに殺気立った村人同士が刃物で互いを傷つけ合い、大変な事態になっている。


「アラカシャスヴァー」


 アイダは呪文で殺気立つ村人を落ち着かせ、何とか殺戮は止めさせた。


「アイダ、また現れました」

「今度は何?」

「別な村なんですが、黒い竜で現れたばかりだそうです」

「すぐ行きましょう」


 アイダたちはレイラの起こした風に乗り、その村に駆け付けた。


「竜は何処に居るの?」

「あっ!」


 村人に尋ねるまでもなく、黒い竜はうねうねととぐろを巻いてアイダたちの前に現れた。明らかに他の竜の仲間だろう。


「お前達はー体……」


 アイダが問い掛ける間もなく、


「カッーー!」


 黒竜がその口を大きく開けると、生臭い臭気が辺りに漂い始めた。


「うっ、これは!」

「アイダ、毒よ」

「アラカザーー、トシャザムスヴァーハー」

「アラカザンヴォアラホートシャザムスヴァー」


 アイダとレイナはすかさず呪文攻撃を繰り出す。


「トウッーー」


 ワイナとトゥパックが剣を抜き切り付けようとしたその時、黒々とうねる竜の姿がすっと消えた。


「っくそ、何処に行った」


 剛剣を振り回そうとしたトゥパックが辺りを見回したが、もう竜の姿は何処にも無かった。


「あの竜は只の魔物や怪物では無いわね」


 アイダが呟いた。


「と言うと……」

「私たちの呪文を嫌がるというよりも、ワイナの剣を避けようとしていたみたいなの」

「…………」


 剣豪ワイナは、女神ダヌから授けられた神剣ヌアザを抜いて構え、それを察した竜が一瞬ひるんだように見え、そして消えてしまったと言うのである。


「もしかすると」


 レイラが話し出した。


「太古の神々がこの世を支配していた時代に、ヘーパイストスという神が創り出したパンドーラーという人類最初の女性がいます。その女性が人間界に持参した瓶に入っていたという竜かもしれません」

「ちょっとまてよ、神が人間界に災厄をまき散らそうとそんな竜を送り込んだと?」

「そうなの」

「ー体なぜ」

「神が人間を教え導くような存在であるというのは、人間が勝手に思い描いている幻想でしかないわ」

「…………」

「実際はもっと生々しい現実があるのよ」


 相手が神の使いであるとすると、精霊であるアイダやレイラの呪文は効かないだろう。ましてやトゥパックの剛剣も歯が立たないはずである。だがその竜がワイナの手にした神剣を見て怯んだのだという。


「この剣のせいで彼奴は消えてしまったのか」


 ワイナが手にした剣を見つめると、キイロアナコンダが話し出した。


「だけど、神ってどの神が人間界に災いをもたらす竜なんか送り込んだんだ?」

「実を言うと多くの神々は人間にとってとても厳しい存在なの、特にゼウスはね」

「人間の味方になる神もいるんじゃないか?」

「確かにそんな神もいるけど、あの竜は人類に災いをもたらす事しかしない厄介な存在、それは確かだわ」

「しかもそれが四匹も居るとなると……」


 皆は黙り込んでしまった。今回の相手は只の魔物ではなかったのである。神の使い相手に呪文は通用しない、ましてや剣を振るっても無駄だろう。


「でも救いは有るかもしれません」

「えっ」


 レイラが話し出した。


「確かパンドーラーが持参した瓶には希望を示唆する白い竜も入っていたはずです」

「…………」

「じゃあその白い竜を探し出せばいいというわけか」


 だがここで皆は考え込んでしまった。そんな白い竜など何処を探せばいいというのか。ここで皆の視線は、情報のルーツレイラに注がれた。

 しかし、


「…………」

「レイラ」

「その白い竜は何処に――」

「ごめんなさい、それは私にも分からないんです」


 風の便りを操る情報通のレイラにも分からないという事では、どうしようもない。


「ぶひっ、しかしなあ」

「あん、お前、なんて声出すん……」


 トゥパックがキイロアナコンダを振り返ったその時、


「おまえ!」

「あっ」


 キイロアナコンダもトゥパックを見て声を上げた。


 二人が豚に変身してゆくではないか。豚の姿になっていくのはワイナも同じで、ドラゴン・バーブガン、ノラも丸々と太った四つ足になってしまった。変わらないのはアイダとレイラ、そしてトゥパックをご主人様と呼ぶカラスだけだった。


「アイダ、これは大変な事になったわね」

「精霊の私たちと、空を飛んでいたカラスだけが変身を免れたと言う事は、きっと皆消えたあの黑い竜が吐き出した毒を吸ったせいだわ」


 周囲の村人も全員豚の姿になっていた。







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