【春・9『憂目に遭う』】

 その背中を。極小の雪原を追いかけて、暮れた道を踏む。

 初芽さんは振り返らなかった。俺が付いてくることを信じ切っているのか、もしくは、付いてこなかったらそれでもいいと考えているのか、果たして俺にはわからない。

 俺はこの初芽さんという人について何も知りはしないのだ。

 夕焼けは温度を呼ばなかった。指先が冷たく湿ってゆく。腹の底に埋めたはずの冬の景色が蘇る。土に汚れた骨が、滲んだ血が、あらたな季節を目指して空を見る。

 そこに軌跡など、存在しないというのに。

 俺たちには一つの進歩も無いというのに。

 此処に在るのは、ただ一個の奇跡の対義でしかないというのに。


 初芽さんは足を止めた。

 彼女はそのまま振り向いて──その回転に唆された美しき白波は、一つの渦となって新世界を創造した。

【おはよう】と幻聴が聴こえた。誰が言ったかわからない。

 ただ、彼女が誇張された夢から目覚めたが故に、喉元に突きつけられた事実が恐ろしいほどに冷たかったことは──脳より肌で理解された。

 俺は数度瞬きをした。白い星が、応じるように瞬いた。

 たかが瞼の運動が。瞳の潤いを保つための単純な動作が──対照の黒白を撃ち込んで。

 この木偶の坊を夢の世界へ引きずり込む。

 俺と彼女の前には巨大な建造物があった。石の塀は見えなくなるまで遠く続いている。和風の建物で、武家屋敷と言われれば完璧に納得ができた。彼女は古びた鍵を扉に差し込んだ。

 そして唇を笑顔の型に曲げて、俺の手を取った。

 宝石の温度だった。鉄血が澱んでいた。鏡が割れた。

 忘れ去られた蕾の季節が、再び顔を上げる。

 

 縁側に座る。何処か現実味がなかった。背中に常に火器を突き付けられているかのようで、緊張は張り詰める弓のように背筋を伸ばした。

 ソと

 音も無く、気づけば隣に彼女がいた。

 苗字も知らない女性がいた。

 彼女は最期に、同情のような笑みを浮かべて

 雨垂れが人を穿つように──物語りは始まった。



 ──────────────────────────



「わたしは家族と血がつながっていません」

「わたしは元の親に捨てられて、施設で育ちました」

「運が悪かったのか、それとも自分で気づくことのできなかった欠点があったのかは、わかりませんが」「わたしは十一になるまでずっと教会にいたんです」

「体も心も育って、食べる量も増えました」

「だけど、あの施設は決して裕福とは言えませんでした」

「大人たちにとって、わたしの存在は口には出さずとも厄介だったでしょうね」

「例えば、ご飯なんかは大変でした」

「食べる量を削るのは、年長者である自分の義務であるように感じて、無理をしました」

「施設にはわたしよりも幼い子たちが十三人いました」「眩暈がするくらいお腹が空いていたのに、わたしよりも量を食べた子がお腹を鳴らしているのを見て」

「わたしはこう考えました」

【この子たちはまだ幼くて、わたしよりも未来がある】

【だったらご飯を譲った方がきっと世の中の為になる】

「表情だけは笑っている大人の人たちが怖くて怖くて、欲を持たないように生きてきました」「空腹を満たせるだけのご飯も」「自らを着飾るための衣服も」「心から気にかけてくれるような家族も」

「わたしは一度だって求めず。神様にだって、一度たりとも求めずに生きました」

「些細なことですが、とても悲しかったことがあるんです」「周りの人がみんな、わたしと話すときに目じゃなくて髪を見るんです」

「白い髪」

「何色でもなくて、周りの人と真逆の色です」

「──これ」

 彼女は髪を撫ぜた。

「わたしはとっても単純なことに、まっすぐに目を見てくれる人のことを信頼したくなるんです」

「だからお墓の前で会った時から、励一さんが善い人だって、わかっていたはずなのに」

「本当に愚か」

「周りの大人たちに少しでも認められたくて。ほんの少しでも、その怖い目を緩めてもらいたくて、わたしは必死に勉強しました。家事もたくさん覚えました」

「美味しいご飯を作って、お腹が空いている人を少しでも減らして──みんなに褒めてもらおうとしたんですね」

「まあそんな機会は最後まで訪れませんでしたが」

「そんな生活が祟って、一度倒れたんです」「お医者様には栄養失調だと言われました」

「その時の医療費がどれだけ、どれだけ施設にとって痛い出費だったか」

「想像するだけで今でも」

「泣きそうに、なります」


 ──────────────────────────


「惨めなわたしを哀れに思ってでしょうか」

「この世界に神様がいるかもしれないって思えるようなことが、一つだけあったんです」

「たった一つだけ」

「あったんですよ」

「だけどそれはあまりにも幸福過ぎました」「わたしのように生きる気力を持たずに、ただ死なないままで、そこにいただけの人間には勿体ないくらいの幸せでした」「何も無かったわたしの人生は色づき始めたんです」

「煩い蝉時雨の降り注ぐ、暑い夏の日のことでした。お盆近くだったこともあって、教会の裏の墓地にも沢山の花が供えられていました」

「教会を訪れた親子はわたしに言いました」

「とても優しい口調で、強制なんかまったく感じない穏やかな口調で、あの人は。わたしのお父さんは、眼を真っ直ぐに見つめて言ってくれたんです」

【出来の悪いお父さんと可愛い弟は欲しくないかい?】


「日本は法律で、父親だけでは孤児を引き取ることができません」「だから、名目上は家政婦のお手伝いということで、わたしは二人と出会いました」

「とっても幸せな日々でした」

「愛してくれるお父さんと、愛を注げる弟が一度にできました」「悲しいことは一緒に分かち合えました」「泣きたいときに泣かせてくれました」「甘えたいときに甘えさせてくれました」「私の料理を美味しい美味しいってたくさん食べてくれました」「喧嘩した時の憤りも、弟からの呼び方がお姉ちゃんから姉さんに変わった時の寂しさも、今となっては大切な思い出です」

「わたしの人生がこんなにも幸せになるなんて、思いもしませんでした」

「でも、生来の弱虫な性格は、そんな幸せを簡単には受け入れられなかった」

「二人がどれだけ家族だと、娘だと、姉さんだと言ってくれても、わたしは二人がまだわたしに気を遣っているんじゃないか……いや、本当はお母さんのことが忘れられなくて、わたしを代わりに据え置いただけなんじゃないのか……そんなことを考えていました」

「書類上では何のつながりも無いという事実も相まって、一歩踏み出すことが怖くって」

「莫迦なんですよ、わたしは」

「人間が卑しいんです」「途方もないくらいに大莫迦者です。今も昔も、変わらずに」

「二人とも、わたしを誰かの代用品のように扱う人じゃないって、わかっていたのに、それでも信用しきれなかった」

「当時のわたしは、こう、思っていました」

「わたしが本当にこの人たちと家族になれるのは、きっと関係のない誰かがわたしたちを家族と呼んだ時」「気を遣うこと無く、第三の視点から見て家族だと判断された時」

「やっとその時になって」「やっと、家族と呼べるのだと」

「いつか、そんな優しい日がきっと来るって信じていたから……妄信していたからこそ、そんな莫迦げたことを本気で思っていたのでしょうね」

「そんな、どうしようもない贅沢者だったからなんだと思います」

「お父さんが倒れました」

「元々あまり体が強くない人だったんです」「わたしを引き取ってからは調子がいいと笑っていましたが」「今考えるとあの笑顔は、わたしに気を遣わせないための嘘だったんじゃないかと思ってしまいます」

「私の人生にそう簡単に幸せが訪れるわけが無かったんだと、あの時は絶望しました」

「絶望って怖いんです」

「失うことは、元から何も無いことよりずっと怖い」

「泣いていい場所」「甘えてもいい人と出会った後に、優しさを知って和らいだ心に、事実はより深く刺さりました」

「そんな風に落ち込んでいたからこそ」

「手術をすれば助かると聞いたときは、それはもう喜びました」

「体の臓器を半分近く置き換えれば、生きることが可能だったんです」

「父は死に際しても、わたしたちからは絶対に臓器移植は受けないと強情でした」

「──わたしとしては、家族として認めてもらえるようなものですから、喜んで内臓くらい差し出すつもりだったんですけれどもね」

「それでも、愛する子供に、どんなカタチであれ、傷を付けたくないと考えていたんです」

「本当に本当に、優しい」

「やさしい人でした」


 ──────────────────────────


「あの日のことは忘れません」

「わたしは日の当たる部屋の隅で、洗濯物をたたんでいました。お父さんの手術が一週間後に控えたあの日」

「電話がかかってきました。白い子機を手に取って、『もしもし』と答えました」

「相手の男性は妙に落ち着いた声色で言いました」


【あなたのお父さんの手術を担当する者です】

【ご家族であるあなたにお伝えしたいことがあります】


「莫迦ですよねえ、わたし」

「嬉しかったんですよ」

「初めて見ず知らずの人から、『ご家族であるあなた』……だなんて。ついつい顔も赤くなっちゃっていたと思います」

「それでちょっとの間──唾を飲み干すくらいの時間悩んで、元気よく。家族にやっとなれたのだから……やっと普通の幸せを、あの眩しい人たちと一緒に享受できる」「そう、思ったから、記憶の中にある眩しい笑顔を真似て」

「もう二度と、何を考えているかわからないなんて言わせない。もう二度と失うようなことが無いように。わたしはあの人たちと幸せな家族になるんだ──」

「そう、思っていたわたしに、その人は何て言ったと思います?」


【弟さんが倒れました】

【意識不明の重体です。このままでは命に関わります】

【そしてもう一つ、お父様からのお言葉です】

【息子を助けるために、手術のための臓器を使って欲しいと】

【移植予定だった臓器の条件には弟さんも奇跡的に合致していました】

【奇跡的に】

【お父様はこの言葉を絞り出して、そのまま目を閉じられました】

【あなたに決めていただきたいのです】

【他でもない、家族であるあなたに】


「あの時は何か悪い冗談か、そうでもなければ夢。怖いくらいに不幸な夢」

「だけど世の中、良いことばっかり目の前から掻き消えていって、悪いことばっかり真っ直ぐに、重みを増してゆくんです」

「悩みましたよ、それはもう」

「どちらを助けるべきか。自分の感情なんかに任せて選べばきっと後悔します。わたしは二人とも本当に大好きだったんです。選べるわけが無いんです」

「それでもタイムリミットはやってくる。時間が経てば経つほど手術の成功率は下がると告げられました。お医者様にしてみれば冷静な忠告だったつもりなのかもしれませんが、私にとっては脅し以外の何でもありません」

「震えて震えて、息をすることも難しくて」

「息をしようとすると吐いちゃうんです。瞬きすると涙があふれて、搔きむしった首元から血が滲んで」

「自分の悲鳴がうるさくて」

「頭の中身がずっと痛くて」

「社会的地位。将来性。人間性。年収。保険。性格。対人関係。死亡時の損失の重さ」

「行きつく先を想像して、どちらがいたら良いのか、どちらがいなくなったら悪いのか。家族としての愛なんて関係無しに」


「どちらを救えばいいのか

 どちらを救わなければ

 どちらを見捨てれば

 どちらを殺せば」


「結局、わたしは言い訳を探していたんです。二人とも代えなんて、絶対に、絶対に効いちゃいけない。本当に大事で大切な人です。だから、良いところはいくらでも見つかるんです。でもどちらがどちらに劣っているとか、そんなこと考えられなかった」

「ふと、」

「ふと嫌な思い出が頭をよぎったんです」

「きっと吐き過ぎて、お腹が空いていたんですね」

「眩暈がするくらい空腹な時の、あの頃の記憶」


【この子たちはまだ幼くて、わたしよりも未来がある】

【だったらご飯を譲った方がきっと世の中の為になる】


 ああ、そうだ。

 夕はまだ若くて、お父さんよりも未来がある。

 だったらきっと命を譲った方が

 きっと世の中の為になる。


「わたしは」

「わたしという醜い人間は」

「大切な人を。感情も無く。愛も無く。合理的に。論理的に。世間一般に正しいと思われるであろう方を」

「わたしは」



 ──────────────────────────



 暑い夏が終わって、涼しい風に嬉しさを感じ始めた頃だったと記憶している。

 父さんが倒れた。

 もともと体がそこまで強いわけでもなかったから、いつかの覚悟はしていたが、いざとなると動揺で吐きそうだった。

 あの日は、僕も姉さんも寝ることも食べることも忘れて、魂が抜けたようにぼうっとしていた。

 もし父さんが死んでしまったら?

 考えても意味が無いし、何か答えに辿り着くことができたとしても虚しいだけの問答を、延々と自分に繰り返していた。

 僕と姉さんは血がつながっていない。姉さんは、僕が十歳になる頃に、父さんが親交のあった教会から雇った家政婦さんだった。

 姉さんがうちに来てから、家事全般を姉さんが担当し始めたので、僕も父さんも負担が減り、家に咲く笑顔が増えた。

 初めて姉さんの料理を食べた時のことは、今でもはっきりと覚えている。

 まずあまりにも準備にかかる時間が長かったことに驚いた。夕方になる少し前から準備を始めて、一心不乱に休憩も無く料理を作り続けていた、その小さな背中を、二人して居間からハラハラと眺めていた。

 僕たちは、姉さんが気を遣って過剰に家事を頑張っているのではないかと戸惑っていたが、そんなことはなく、ただただ彼女が真面目な性格だったのだ。

 姉さんの料理を初めて食べた時、今まで調理してきた食材に土下座したくなった。

 彼女は、優しく、時に厳しく、それでもやっぱり優しくて、美人でなんでもそつなくこなす憧れの人だった。どんな時でも温かな情を帯びた笑顔を絶やさなかった。

 そんな姉さんが、ただただ目を大きく見開いて、遠くを見つめ続けていた。

 僕がしっかりしなければならないと、決意した記憶がある。

 父さんが生きていけるのか。

 それとも なのか。

 あの時は全く分からなくって、そんな宙ぶらりんでどうしようもない浮遊感が、僕らの首を絞めていた。

 だからこそ、臓器移植で父さんが助かると知った時には、二人して涙腺が溶けるほど泣いた。もう何週間も父さんの声を聞いていなかったから、寂しかったのだと思う。

 手術を一週間後に控えた土曜日だった。

 秋も深まり、世界が冷たい暖色に染まり始めていた。僕は父さんの安全を祈願するために少し遠くの神社に赴こうとしていた。

「行ってきます」に対する、「行ってらっしゃい」の声が、いつもより少しだけ明るかった。

 朝からやけに煩く響く心臓を無視して、僕は家を出た。


 ──────────────────────────


 本当に苦しい時には悲鳴も上げられない。

 腹の中で芽生えた、苦痛の種子が

 芽吹き根を張り光を求め繊維の間隙を縫い

 乾いた枝が

 全身の毛穴爪の間骨の皹から

 皮膚を突き破り肉を解し血を吸って瞼の裏から垂れ落ちて

 根の束が息を塞ぎ

 脳の

 空にだぷだぷと溜まり揺れ溢れ

 意識が明かりが先の景が

 ぬるい液の中へ

 暗く、沈む


 頬に触れる石畳が、涙が出そうになる程冷たかったことだけを覚えている。

 光の無い世界に落ちていった。


 ──────────────────────────


 目が覚めた時、何か悲しい夢を見ていたことだけを覚えていた。

 だけどそれが何か思い出せなくて頭を触った時、包帯が巻かれていることに気が付いた。見知らぬ部屋だった。でもそこに興味を持てるほどの気力すら、全く湧かなくて、しばらくぼうっとしていると、看護師さんと姉さんが部屋に入ってきた。

 手に持った道具を全て落とした看護師さんと、零れそうなほどに目を見開いた姉さん。

 深く刻まれた目の隈とこけた頬。体調は大丈夫なのかと訊こうとした時、喉がカラカラで声も出せないことに気づいた。

 姉さんが信じられないものを見るような目で、幽かに僕の名前を呼んだ。

 夕、と。

 埃のように乾いた喉では声も上げられなくって、僕は片手を挙げて応えた。

 支えていた、か細い線が切れたように、彼女は泣き出した。


 諸々の検査が数時間をかけて行われて、僕は異常無しとのことだった。皆顎を落としそうなほどあんぐりと口を開けて驚いていた。主観だと、いきなり倒れていきなり目覚めたら院内をたらいまわしにされただけだったので誠に遺憾だった。

 中には──奇跡だと言う人もいた。

 みんながみんな笑っていて、まるでそこには幸せしかないような空気に包まれていて。

 だから

 僕は何があったかなんて考えずに、浅慮にも口を開いた。

「姉さん」

「なに?」

 僕は微笑む姉さんに訊いた。

「父さんは?」

 彼女は、僕が助かったことが本当に嬉しくて、嬉しくて。なんだか申し訳なくなるくらいに喜んでくれて。元から感情の起伏の薄い彼女が大泣きするくらいに喜んでくれて。

 幸福な思考が頭の中を満たしていて、それは確かに素晴らしいことで。

 僕もそれが嬉しくて。浮かれていて。

 ならばそれを断った僕は、死神か何かなのだろうか?

 その嫋やかな笑みが凍り付く瞬間は

 腹の痕が疼くたびに必然、思い出す。



 吐き気と臓器の痛みが態度を変えた。脳味噌の翻訳機能がバグを起こす。胃の中の酸が逆流して食道を焼く。耳鳴りと幻聴が風の音をかき消した。誰もいなくなった暗い病室で千切れるほどに指を噛んだ。しかし味はしない。それでもこの液体が不味いことだけは知っていた。寝台の上で永劫とも思われる時間を思考に費やした。誰が悪いのかを考えてしないと気が狂いそうだった。頭を抱え込み、苦しむポーズを取らないと、空いた両手で喉を締めそうだった。

 鼓膜で吹き荒れる砂嵐。絶望的耳鳴りに聴覚は閉ざされていた。自分の嗚咽ばかりが頭蓋の中に反響して醜い色を繰り返す。汚水の中で溺れるような不快感。瞼を閉じれば幸せな夢を見てしまいそうになって、それが気持ち悪くて何もない空間を見つめ続けた。

 日に日に体に刺さる点滴の針が増えてゆく。

 なんの価値も生み出さずに、物言わぬ樹木のように養分を吸い続ける。

 光が怖くて夜を待って、暗闇が怖くて太陽を待った。

 そんな嚙み合わぬ歯車のような生存が、何度廻った後だっただろう。


「なんで?」

 声が出た。

「なんで僕が生きてるんだ?」

 何も聞こえなかったはずの鼓膜に、自分の声が突き刺さる。

「どうして父さんじゃないんだ?」

 口に出しての追悔は、罪に汚れた自分を狩るようで、気持ちが良かった。

「もう嫌だ」

 自分だけは、自分を裁くことができると気づいたから、僕は口に出して判決を言い渡そうとした。

「自分の命を渡せるものなら、渡したかった」

 死刑宣告と同時に絞首台に吊るされる幻覚。そしてその光景に希望を見た。眩しかった。心地よかった。今までとこれからの人生の全てが報われるような、爽快で、堪らない気分だった。幸福とは、こういうものなのだと理解した。細胞全てが祝福されて、青い空へと舞い上がってゆくような。嗚呼、心臓が軽い。

 その言葉をようやく口にできた。神に手を引かれ、救われたと盲目に信じた。人生で最高の感動に浸ることができた。頭蓋に響く後悔と懺悔の響きに熱い涙が零れそうになる。自分が自分を悪だと感じることができているという、正気の境界線の上に、まだ自分は存在できている──

 その自覚だけが救いだった。

 それが呪詛なのだと気づけなかった。

 醜悪


「そんなの」

 鼓膜で叫ぶ嵐が消えた。

 黒い衝撃を帯びた一瞬の風が、全ての雑音を吹き飛ばす。

「そんなこと」

 床に落ちた小さな花束。

「わたしだって、同じだよ」

 彼女の頬を伝う塩の水は

 朝露のように花束に宿り

 無機質な灯りを反射した



 ──────────────────────────



「わたしは間違えました」

「夕は、お父さんに生きていて欲しかったんです」

「だからわたしは謝るべきなんです」

「でも、わたしは夕が生きていてくれることが嬉しくて、その気持ちはどうしても否定できなくて」

「でも、夕が生きていることを喜ぶって、それはお父さんがいないことを喜ぶようで」

「でも、夕が生きていることを悲しむことはダメなんです、そんなことはできないんです」

「笑ってもダメなんです」「泣いても、ダメなんです」

「わたしは結局、どんなことを考えてもずーっと、ダメで」

「生きていることが正解なのかわからなくて、全てのことが上手くいかなくなって」

「どうして、って」

「夕とお父さんが生きていれば、わたしが代わりになれてれば、ハッピーエンドだったじゃんって、思わずにはいられなくて」

「もう、どうしたらいいかわからないんです」

「もう、わたしは──」

「今の状況がどうしようもなく不幸で、それでいて、自分以外の人が誰も悪くないなら、きっと悪いのは自分」

「誰かのことを想って、自分の命を投げ出したいと思えるあの子が、悪人であるはずが無いんです」「それなら悪いのはわたし。判断を間違えて、間違えたことを未だに認められない、弱いわたし」

「罪に塗れたわたしは、ずーっと誰かに裁いて欲しくって、でも誰に裁いてもらえばいいのかわからなくて、ならいっそ死んでしまえば逃げられるんじゃないかと思って。あの日お父さんのお墓を訪ねて、その後死のうと思ったんです」

「なのにですよ?」

「なのに、励一さんがわたしの手を引いたから、なんだか死ねなくなっちゃったんです」

「その後も。夕に謝りに行こうとすると、その途中で励一さんに会って、そのたびにホッとするんです。先延ばしにできるって」

「自分は拒絶した癖に、拒絶されることは怖くって」

「そんなどうしようもない化物にあなたは。会うたびに、賑やかで妙な出会いをくれて」

「楽しくて」

「でもそんなことは許されなくて」

「──ねえ先生。えらいえらい病院の先生」

「わたしはどうすればよかったんでしょうか?」



 ──────────────────────────



 影が黒く、彼女を覆う。霧が手招きをするようにぬるりと伸びて、立ち込める。

 深夜に突然泣き出す人や、何もない空間に向かって助けを求め続ける人、自分の指を一心不乱にかじっている人の眼に、途方もなく近しい煙の色。

 ひっそりと水底で冷たい泥を被せて隠していたはずの真っ黒な溶岩が

 振り払うには近すぎる、その熱が。脳を茹でて色が抜けてゆく。今までの生で少しずつ色づいていた自分が脱色されてゆく。

 そうして残った何者かが、自分の真の色だった。

 心を乱し、自己を獣の檻に閉じ込める激情は、余計なことを考えられなくするから、己が真を浮き彫りにする。

 誰しも何かに支配されていて。何かが起こした波に触れて、その流れに血の巡りを整理されて生きている。それは例えば友人だったり、恩師だったり、創作物だったり、姉弟だったり親だったりするのだろう。

 俺も初芽さんも、そうやって生きてきて

 俺は最初から知らなくて、彼女は知ってから失くした。

 だから俺は、この人のことを。

 親からの愛が遠くに行って、やさぐれてどうしようもなくて死にたくって、それでも死ぬわけにはいかないから、なんとか不幸を何者かのせいだと思い込んで、その贖罪と復讐のために自分を維持してきたけれども、それが実際、何の意味も持たないことを理解していたから、振り切ることもできなくて。その曖昧な不安や焦燥を抱えて、また自分が不幸だと思える幸福に

 頬を歪ませて

 ほら。今みたいに

 へらへらと。

 重い唾が舌の上で膨らんでゆく。

 嗚呼貴女の

 反射の無い瞳。眠たげな瞼。不安定な首元。俯いた背。ああ似てる、似てる。昔の俺に。久善や真月に出会う前の生きる理由を見つけられないあの頃に。

 誰かと繋がっていなくちゃ生きていけないのに、自分に原罪があることを悟っているから誰にも頼れなくて、顔の筋肉がだらしなくなって笑えなくなって、その内に心も笑えなくなって、飯の味はしなくって、指先の痙攣は何があっても無くならなくって、震えて丸まって眠って頭がずっと痛くて昨日の記憶が無くってそんな日々に価値を見出せなくて!

 知っている感情だったから、あの時欲しかったものをあげたいと思った。

 あの時欲しかった言葉を。愛と明日の、次に欲しかったものを。

 一緒に消えて無くなってくれる運命の相手を。

 口の端から、薄く濡れた声が滴る。

 肌が。脳が。深層が。染まってゆく、影の色へと。

 海底から伸びる腕。湿り腐った人骨。過去の果てに埋葬してきたはずの、尖った瓦礫に押しつぶされて、しかし温度を失えなかった。下らなくって、同時に唯一の盤石たる思考。

 溺れる者のように、泥船に。あるいは、泥船は。

 少女に手を伸ばす。


「大丈夫ですよ」

 無理。

 音を鳴らす全ての臓器が、言葉を紡ぐ全ての魂が。

 そうして生きるための、全てが。

 髄と、隙間風を鳴らした。

 虚飾に彩られた醜い言葉。汚いおぞましい気持ちが悪い吐き出してしまいたい全てぶちまけて爽快に終わってしまいたい、無理。無理無理無理無理無理

「俺には初芽さんが悪いとは思えないし、だからと言って他の誰かが悪いとも思えない。だって、皆誠実に自分の信じるものの為に動いたんだから」

 信じていたかった希望の記憶。無理。

 無理。無理無理無理むりむりむりむりむり

「家族の絆に、血の繋がりなんて関係ないですよ」

 無理。

「人の繋がりって、そりゃあ滅茶苦茶大事です。家族も兄弟も、掛け替えのない大切なものです。だから、もし失くしてしまったら、急いで拾わないと治せなくなる」

 無理。

「医者の言うことだから間違いないですよ」

 無理。無理。

 他人を自分の不幸に巻き込むなんてできない。

 魂は救われることを俺は知っている。どんなに深い淵に落ちたとしても、引っ張り上げられることを知っている。

 真心と誠実によって人は浮ける。

 それが例えロウの翼だとしても、天の彼方を目指せない模造品だったとしても

 自分にそれができるなら、しなければ、今までの生存全てが嘘になる。嘘になっちゃダメなんだ。あの輝かしい日々は全て、真実だったのだから──

 だから俺は

 あの、直視するにも眩しいくらいの笑顔を真似て、へらへらと。

 虫歯になりそうなほどに甘くって、脳がとろけるくらい下らない嘘を

 泥を吐いた。


 彼女は、道化の渾身を憐れむように曖昧に笑む。

 反射の無い瞳。眠たげな瞼。不安定な首元。俯いた背。

 がたがたの笑顔で慰め合い、削り合う。

 感情の果ての光景がそこに在った。





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