【冬・終『彗星のように、瞬く』】

 1

 体温を塗り潰さんと吹き荒れていた雪の勢いは、僕たちが電車から降りたころには随分と落ちついていた。

 さらさらと降っては溶けてゆくその景色に、夏夜と出会ったあの日を幻視する。

 雨の中倒れ、臥し、地面に向かって愛を囁き、天に撃たれ死ぬことを望んでいた倒錯した僕に声を掛けようとした夏夜はやはり、どこかおかしいのだと思う。そんな奴僕なら無視する。なんなら通報もするだろう。事情聴取も受ける。自分の身の方が大事だ。

「夏夜」

「あい」

 夏夜の耳と頬は寒さで真っ赤になっていた。見ているこっちが痛くなる。

「寒くないのか?」

「寒いですけど、まあ、大丈夫です。心があったかいので」

「そうだな」

「……ツッコまんかい」

 寒さに耐えかねて買った、缶コーヒーの口から昇る湯気に当った雪が、軌道を不規則にしては落ちてゆく。それに惹かれて口を付けると、やはり苦い。焦げの味が舌先を痺れさせる。

 夏夜の淹れたコーヒーは飲めたのというのに、何故缶コーヒーは飲めないのだろう。何か隠し味でも入れていたのかと聞こうとして、隣の夏夜に視線をやると、先に見られていた。

 唇から漏れた白い息が長い睫毛で結露して、瞳が潤んでいる。固い蕾が桜色にほころぶように、瑞々しい。

 如何に彼女の心が温かく周りを明るく照らすものだとしても、寒いものは寒いし、温かいものには惹かれるのだろう。

「飲む?」

「…………はァ?」

 そんな怒らなくてもいいと思うんだけど僕なんか気に障ることしたか。

「いやごめん。苦手だったな、こういうの」

「え? いや、え別に? 気にしませんけど?」

「あれ、コーヒー苦手じゃなかったっけ」

「そっ…………」

 水滴に打たれたかのように夏夜の動きが停止した。

「好き嫌い克服できて偉いな」

「夕さんのことは割と嫌いですけどね」

「……そうか」

 面と向かって他人から嫌悪感を向けられることは人生においても貴重な経験である為その言葉によって削られた分何かを得なければならない。おそらく寒さが原因であろう心身の痙攣を誤魔化すため、コーヒーに口を付ける。苦い。

 これ以上は何を言っても怒らせるという嫌な予感があったので震える歯茎を食いしばって口を塞ぐ。やはり、どうにも生きることが下手クソなことが未だに否定できない。

 夏夜や鳴海先生やこどもたちと出会って、話して、少しは改善されたと思い込んでいたが、簡単に人は変われないのかもしれない。

 そう思って沈みかけた体を、乾いた寒風と雪の結晶が巻き上げる。

 いや、と。

 目の前で青筋を立てるこの少女の勇ましさを見て、それでもなお、そんな思考が湧くのであれば、本当に生存に適していない感性であることを認めることになる。

 無力は悪ではない。ただ、真に悪なのは無気力なことだった。

 温い停滞の中で眠り続けるのは心地よい。だがそんな生存に価値はない。

 代償を支払うかのように体を覆ってゆく包帯の面積に、まるで輝かしいかのような価値を見出す歪な生存に意義は無い。

 会わなければいけない。向き合わなければいけない。そう深く思っていてなお、先延ばしにしていた現実。

 そもそも、この考え方自体が間違っているのだろう。

 僕はただ家族と会うだけだ。

 そこに怯えは不要だし相応しくない。

「夏夜」

 膨れたままの彼女と眼を合わせる。

「もしも、もしもの話しだ。自分に想像もできないような最悪が起ったら、起こってしまったならば──君ならどうする?」

 あまりに抽象的で笑えて来る。けれどもこれは確かな楔。心の底に刺さったまま、ずっと抜けていなかった楔なのだ。

 僕がずっと懸念をしてばかりで動けなかったその問を、しかし。

 悩むまでもないとでも言うように、彼女は軽く首を傾げた。

「想像もできないような悪いことが起きるなら、想像もできないような良いことも起こるんじゃないですか?」

 彗と、水面に浮かんだ言葉を吹くように、宝石の冷たい光が差し込む。

 嗚呼僕は、この人と会えて良かった。


 電車を待つ時間は嫌いだった。

 その座標に一定時間以上拘束されることを強制されるし、同じように時間を待つ人々は、皆何処か殺気立っていて、明日が来ることを望んでいないような、窮屈な目をしている。そこには、ふいに飛び込んで消えたくなるような切なさがあった。

 でも今はその空白が、潜る思考の海になる。

 頭の中はこれから何処へでも行けるような高揚感で満たされていた。



 

 バランスを崩したと思った。

 こけそうだなと思った。

 足を出して姿勢を維持しようと思った。

 手を突いて地面との衝突を防ごうと試みた。

 脳が確認した状況と、命令した動作の全てが切断されたみたいに行使できなくなる。

 鼻っ柱を折るようにして、駅のホームに突っ込んだ。

 振り向いた夏夜の表情が一瞬にしておぞましい程に陰る。

 嗚呼。そんな顔をしないでくれ。

 暮石夏夜という人は笑っている時が一番眩しいのだから。

 その輝きが

 環境を、箱庭を、明るく照らす灯台足り得るというのに──その笑顔を、輝きを奪ったのが自分だという現実に打ちのめされそうになる。

 だが、心が折れることは無かった。

 

 心が折れるよりも、先に

 意識が神経が中枢が

 伸びきったセンが途切れるように

 光の無い世界へと

 落ちてゆく





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