【春・6『松木真月という人間は』】

 1

 我らの懐かしき学び舎。幾人もの大人未満どもの青春の舞台となった誇らしき窓辺。日当たり良好に制服に着られた少年少女が謳歌と闊歩を繰り返す麗らかな世界。

 の裏。日当たりも悪く管理人も滅多に来ない古ぼけた神社。その鳥居の下に三人のバカが座っていた。

 今日為したこと、明日為すことを、飯を食いながら阿呆のように語り合う。

 箸を指揮棒のように振り回しながら口から願いと希望を垂れ流す社会不適合者風の男。

 箸を人に向けるな。呑み込み終わってから喋れ。と叫ぶ気真面目そうな男。

 それを見てげらげらと笑う、何も考えていないバカが一人。

 会話の内容だけを切り抜いて、例えば文章なんかで読んだとしても、あの頃のように腹の底から爆笑できるとは思えない。ただ、当時はあの二人のやり取りが異様なほどに面白く、その輪の中に自分がいるという事実が、何処か誇らしかったのだ。

 振り返って届かないものに焦がれながら、考えることは一つ、人生の教訓である。問題があるとすれば身をもって学んだことだった。

 環境は人を作る。そして環境とは人である。

 偉いロン毛の先生曰く、ヒトとヒトが支え合って『人』という字を形作るらしい。

しかし思うのだ、二人じゃ足りねえと。ビャンビャン麺くらい画数が欲しい。

 人と人は互いに影響を及ぼし合い、支え合い、ぐちゃぐちゃの文字になって世界の層を重ねてゆく。


 2

 松木真月に関する最古の記憶は高校一年生の春。

 何で目を付けられたんだったか覚えていない。学年主任だったか、指導部の代表だったかも忘れてしまったが、浅黒く焼けた体育教師は俺に向かって唾と言葉を吐きかけながら豪語した。

「俺はお前のような奴を百人は見て来た」

 百人も見てきて、その有様ならばお前は大層無能なのだろう。

 例え百人に愛を注ぐ奴がいたとして、たった一人の親にも愛されない人間が何を受け取れと言うのか。

 そんな言葉が喉元まで上がってきて、しかしギリギリのところで呑み込んだ。代わりに表面に浮かんだのは、曖昧で不気味な笑い顔。

 なんだその眼はと怒られて、頭を下げた。

 そして地面へ向かって舌を出す。これが賢い生き方で、優秀な生き方なのである。そうに決まっている。ここまで無駄に苦しいのに、その癖得が無かったら、まるで俺は馬鹿ではないか。

 しかしそんな馬鹿の甘えを断ち切るように、鋼の言葉が耳の裏を撫ぜた。

「百人も見てきて」

 背後からの鋭い声にキケンを察知した俺は、重心を低く保ったまま素早く振り向いた。

「百人も見てきてその有様ならば、貴様は大層無能なのだろう」

 初めて松木真月という男を見た時の、感動にも似た衝撃は今でも鮮明に思い出せる。

 竹刀のように真っ直ぐな腕と、甲冑のような肌。涼しく澄んだ空気を纏っていた。

 全てを透かして、視界の更にその先を見通す冷えた眼に、素人ながらにただ者ではない、などと思ったものである。

 松木真月は一振りの刀であり、一降りの雪であった。

 当然のように生徒会長に就任し、当然のように高度に勉学と武芸を修め、当然のように俺と久善に食ってかかって来た優等生だった。

 そしていつの間にか仲良くなっていたのだから、縁というものはよくわからない。

 しかし思うのだ。松木真月は、一歩間違えば立派な不良になっていたのではないだろうか、と。

 いつだって格好よく、誇りを抱いて生きる。その姿に憧れる人間は山のようにいたが、故に近づき難いという印象が強かったのだろう。俺たちが真月と仲良くなったのは、そういうものを気にしない阿呆だったというのが大きかったんじゃないかと、今になって思う。

 何をしていても様になるのだからこいつは癪に障る。

 コーヒーを飲んでいてもやっぱり偉そうだった。

「なんで真月いるの? サボり?」

「君なぁ」

 瞑った片目をピクピクと痙攣させ、呆れかえったように続ける。

「同じ講義なんだから、君が休みになったら僕も休みに決まっているだろう」

「今日休みだったの?」

「あのなぁ」

「ゴメンゴメン」

「ごめんごめん」

 ぺろりと舌を出して久善も続いた。

「お前もだったか……」

 真月はカップを置き、大げさに肩を下げながら深く息を吐く。

「仲が良いのは結構だが……我々は最早社会の一員としての役割を架せられているのだ。その部分を疎かにしてしまってはどこかで綻びが生まれ、いつしかバラバラになるぞ」

「正しいことを言われると何も言い返せないからムカつく」

「うむ」

 ロクデナシが二匹、聞こえるように陰口を叩いた。しかし真月はそれを無視して改めてカップに口を付ける。

 風を身に纏うような余裕がそこにはあった。


 3

 いや大切でもう本当にサボるだなんてそんなこと考える訳もない重要なおしごとをサボってまで何故本日店にまで足を運んだのかと問われれば、俺はどうしても避けられない用事があったのだと答える。

 先日電話があった。

「お願いします、この日にお店に来てください」と。

 勿論店長からではない。店長からの要請ならば、あ無理っすと答えて切るだろう。しかしスピーカー越しに鳴った音は、清流のように澄んでいた。

 初芽さんだ。

 何事でございましょうかと訊いても、兎に角来ていただけませんかと繰り返すばかりで肝心の内容は何も教えてくれはしない。埒が明かないので、はぁわかりましたと述べたところ、「ハイ」そして「アリガトウゴザイマス」と固い声が返ってきた。

「……待ってます」

 通話は切れた。あらーときめくわねぇなどとふざける暇もない。

 待たれているのならば、行かないわけにはいかない。そう、期待と約束は何があろうと裏切ってはならないのだ。

 ただ問題があるとすれば、身をもって学んでいることだった。


「なんだそわそわと忙しない」

「いやね……今日はちょっと用事があってここ来たのよ」

「……そわそわっ」

 肩をすくめて身構える俺を見て、久善は唇を尖らせながらわざとらしく真似をした。構ってくれと言わんばかりである。大変気持ちが悪い。

「……なんだ、そわそわと忙しなく、煩い」

 真月が面倒くさそうに訊いた。そうやってノリがいいから変なフリをされるのだ。

「よくぞ聞いてくれた。何故この店に活気が無かったと思う。はい励一」

「経営のことはわからんよ」

「ふん。この前言っただろう、華が無いと」

 その視線は窓の外へと向けられていた。俺も続いて見やってやると、大鬼が箒を持って店先を掃いている。きっと賽の河原の石の塔でも崩しているのだろう。外道め。

「つまり慣れていない人間にとって、あの筋肉ダルマは外様から眺めるだけでも恐ろしいバケモンなのだ」

「事実だからと言って何を言っていいというわけではないぞ」

「おおう。真月ストレス溜まってる……?」

 久善はパソコンを激しく打ち付け騒音公害をまき散らした後、俺たちへと画面を向けた。

 そこに映っていたのは色味の明るいケーキの写真だった。しかし加工が眩しすぎて元がどんな色味を放っていたのかは、まるでわからない。

「見ろ! こんなにもSNS広報活動も頑張っているというのに!」

「晒上げだな」

「俺そういうのよくわからないけどハート十二ってのは凄いの?」

「ゴリラにしてはよくやってる方じゃね?」

「……まあ、捉え方による」

「あんまりよくないみたいだなぁ」

 気が済んだのか久善はパソコンを勢いよく畳み、メニュー表を手に取った。

「まあ厳しいことも言ったが、俺も別にこの店が嫌いなわけじゃない。潰れたら困る。何処でおちごとをサボれば良いのだ」

「オイサボるなと何度言えば──」

「まあまあ」

「君もだぞ」

「あ、はい。すんません」

 畜生庇わなきゃよかった、などと些細な後悔をしている俺とは対照的に久善のテンションは引き続き高い。

「すんませーん注文お願いしまーす」

 そしてその高度を継続させながら満面の笑みを張り付けて、寺門久善はこれまた高らかに声を張る。その様はなかなかに気恥ずかしい。

 友人がニコニコデレデレしている顔面には論外の気色悪さがあった。むず痒さに居たたまれず、顔を伏せ、無関係の路傍の石を装う。

 しかし上空から降ってきた清流のように澄んだ声に、弾かれるように顔を上げる。

「ご注文お伺い……いたします」

 髪を一本に縛った初芽さんがぎこちない笑顔を湛えていた。


 4

「エプロン可愛いねえ。似合ってるよ」

「あ、はい。ありがとうございます」

 言われ慣れている人間の反応だった。あまり芳しい雰囲気ではない。

 しかし久善はにっこり笑って首を縦に振った。こういうところは流石である。実に流石である。場を無為にかき乱すことに懸けては、やはり寺門久善という人間に勝る者はいない。しかし勝ったところで得られるものは人間性の敗北である。褒めていない。

 注文を取る最中、一瞬初芽さんと目が合う。何事か話しかけるべきであろうか、などとあたふたしているうちに、彼女は手際よく注文を取り、すぐにカウンターへ帰って行った。

 澱み無きそよ風のようによく動き、よく働く。様になっていた。

「あの店員さん……」

 真月がぽつりと零す。

「真月知り合いだったか?」

「いや……見覚えがあるような気がしたんだが、どこだったか」

「聞いてみればいいじゃねえか。ナンパになるがな」

「真月くぅん良くないよそういうのは」

 久善と俺が囃し立てると、真月は眼鏡の位置を正す。そしてきっぱりと言い放った。

「君たちと一緒にするな」

 見下すように細められた視線が、無数の鉄線のように身体に突き刺さる。

 その声は深海の底のように冷え切っていた。そして真月との距離は切断される。

 切れたそばから、崩れて解けて消えてゆく。仲間だと思っていたはずの、あの意味を持たずとも楽しかった日々は、遥か彼方へと死んでいった。

 張り詰めた空気が、細く震えた。

「……そうだったな」

 振動は久善の声だった。しかしいつものちゃらけた声とは異なり、姿勢を低く窺うように鳴っていた。嗚呼そうだったと思い出す。

 そうだ、こいつは。この松木真月という男は、俺たちを裏切って、一つ先のステージへと行ってしまったのだ。

 何も生まないと理解していても、叫ばずにはいられないものがある。

 この裏切り者が! と。

「やっぱり、彼女持ちは……言うことが違うな」

「そういうことだ」

 真月は勝ち誇った顔でコーヒーを啜った。

 んだコイツ。

「おい蹴るな。痛い。……違う蹴るなというのは踏めという意味じゃない。踏むな。蹴るな。踏むのも蹴るのもやめろ。……人のコーヒーを勝手に飲むなァ!」

 真月に彼女が出来たのは大学に入ってすぐのことだった。

 あーあせっかく目当ての大学に入ったってぇのにすぐ女にうつつを抜かしよってこんなんじゃあ先が思いやられますなぁ。

 などと久善と陰口を叩いていると、少ししてその彼女さんを俺たちに紹介すると言う。

 おいおいおいおいもうおのろけで御座いますかぁ流石優等生様は格が違いますなぁ。

 などと久善と影口を叩きながら、どうしようどうしようと娘の彼氏が挨拶に来るような心地でとりあえず礼服のレンタルを見に行った、その記憶は未だ鮮明である。

「あー気ィ悪い」

「そんなにも気に食わないならば君もパートナーを探せばいいではないか」

「するか。人体錬成」

「難しいことはよくわからないが、普通の人では駄目なのか?」

「はっははてめえ」

 青筋立てる久善を眺めて真月は首を捻る。唯一の欠点であろう。松木真月という男は、己の能力が高い故に他人の不可能を理解できない。

 首をがっくしと落とし、羽音のような声で久善がぼやく。

「彼女は欲しいけど俺のことを好きになるような女はイカれてるから嫌だ」

「捻くれてるなぁ。わかるけど」

「いやなんかマジで……この歳まで彼女できないと……ウチの父親とかが真っ当に凄いように思えてきて……てかそこら辺歩いてる脂ぎった中年よりも自分は下なのかと──」

「久善その話止めようぜ」

 本当に辛くなってくるから。俺自分が親父以下とか考えたくないよ。

 久善は口を手で覆い、吐き気を堪えるような姿勢を取った。くぐもった声が漏れる。

「なんで真月にできて俺には彼女ができっ……」

「あー、言ってる途中で我に返ったな」

「本気出せばできると思うがなぁ君たち」

「黙っててくれぇ頼むから」

 そういうことを無責任に宣うから、俺たちのような単純な人間は

『おお、頑張ればできるんか! おけおけ、じゃあ欲しくなったら頑張るわ!』

 という愚考に陥り、頑張ることを一時停止のつもりで停止する。そしていざそろそろ頑張るかーと思っても、頑張り方を知らないから頑張りようがないし、そもそも今になって彼女欲しい彼女欲しいと駄々をこねながら頑張り方を暗中模索することに恥を感じるようになるのである。

 人生の教訓である。ある程度は興味を抱いて頑張り続けてみよう。

 問題があるとすれば身をもって学んだことと、取り返しのつかないことである。

「そもそもさぁ」

 恨み言のつもりだった。しかし悪人がいない為にただの僻みに成り下がる。

「俺らが本気出してもお前の彼女さんほどの人は、どう足掻いたって捕まらんよ。なんだあの人。俺、かぐや姫かと思ったもん」

 この世にはピッタリと嵌るものがある。噛み合わさるピースのようにばっちしと、隣同士でお互いの完璧をより強固に補強し得るものがある。

 松木真月のパートナーはお淑やかに美しく、見ているこちらの礼節が勝手に正されるような、一挙一動に静と動の流れを帯びる素晴らしい女性だった。

 しかも訊けば彼女さんは、真月の中学からの同級生で、彼女は出会った当時からずっと、真月のことが好きだったと言う。

 嗚呼羨ましい、妬ましい。俺の中学からの同級生なんてコイツだぞコイツ、と緊張でがっちがちに固まってまともにお茶も飲めていなかった横の男を見ながら思った。

「それはその……ありがとう」

「はにかむな気持ち悪いっ」

「気分が悪くなってきた……」

「なーんの話してるのー」

 突如夏よりも先に入道雲が生えて来た。掃除を終えた店長が会話に乱入してきたのだ。別に見ていて楽しいものではない。

「店長さんお久しぶりです。僕たちは恋愛について少々話を」

「余計なことを言うな面倒くさい。よお店長、俺の斡旋は正解だっただろう。あの娘はいいぞ、面白い」

「それは褒めてるのか?」

「面白いは褒め言葉だろう。お前も面白いぞ、励一」

 言って久善は獣の様に歯を見せる。しかしなんとなく釈然としない。

 久善は諸手を天に翳し、まるでそこが、舞台上であるかのように大仰に宣う。

「世界は全部面白い。バスの扉に付いた手すりも、包丁の柄の形状も、コーラの味も、全てすべてに世界の意匠が凝らされている。美しいとは、思わんか」

「よく見ているな。暇なだけある」

「見る目には自信があるのだ。昔からな」

 真月の皮肉が空回りする。気まずくなったのか、誤魔化すようにカップに手を付けた。

「んでどうなんだ実際。初芽ちゃんは」

 問われた店長は眉毛をピンと跳ね上げた。

「よく気づく、よく動くいい子だ。僕の見立てでは彼女はどうも慣れているね」

「働くのに?」

 俺の適当な問いかけに、しかし述べる言葉を選ぶように彼は顎を撫でた。

「……人の世話を焼くことに慣れている、とでも言おうか」

「母親的なアレかね?」

 もごもごと久善が続く。

「ん? あー……」

 言われてぼんやりと、しかし得心する。

 世間一般において、親というものは好き嫌いや栄養の偏りを叱責するものらしい。思い返してみれば、公園でのきょうかちゃんへの対応も、何処か慣れたような親しみがあった。

 ふと店長に視線をやると、その口は結ばれている。歯型の通りに引かれた線は、噛みしめるように、嚙み砕くように真っ直ぐだった。

 何か気に食わぬことでもあったかと考えてみると、答えはすぐに見つかった。

 久善が親の話をしたことを気にしているのだろう。

 考え過ぎだし、真面目な人だ。

 店長はまだ親父のことを友人だと思っている。例え十年以上会っていなかったとしても、それでも友の不始末は自分も共に背負いたいと考える人なのだ。

 失いたくないと強く思えるからこそ、それは掛け替えのないものであり、生存の背骨足り得る。店長にとってその極太の背骨は友と店なのだろう。

 対して俺は、とっくに親父を責める感情は腐らせた。

 正義感を、そして同時に罪悪感を。

 そんな面倒なものを延々と維持できる人は、勇敢で真っ直ぐで、しかし同時に疲れてしまわないのかと心配にもなる。

 だが、一つの意志を貫徹することのできる人は、きっとその禿た頭が放つ光とはまた関係なく、眩しいのだろう。

 中枢たる脊椎と、それに連なる背骨は頑丈であるに越したことはない。

 対して俺の中枢は、繭の中から抜け出た直後のように、未だ柔らかく脆い。

 翅を生やすにも頼りないから、ロウの翼に頼りたがるのだ。

 風を身に受けて、蓄えた力を流れに乗せて、何時しか強固な我を手に入れたならば、その時こそ。

 そう考えたのは何時か昔、しかし俺は今も、へにゃった骨で此処に立っていた。





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