陽依を失う恐怖がある一方、家族に失望させる恐怖も雪解け水のように私の心を浸し、凍りつかせていく。



 幼い頃から家族の期待に答え続けてきた私。

 陽依と出会うまで、親に敷かれたレールの上を歩くだけとも言える私。

 その私が、「同性を愛している」と告げるなんて、どうなる?



 母の目から光が消えるのだろうか。

 父の肩が落ちるのだろうか。

 それとも、もっと酷い—「お前はもう我が子ではない」という言葉を聞くことになるのだろうか。


 特に母の価値観は少し古い。いい男見つけて、結婚して、寿退社して家庭に帰る。それが母の思う女の、私の幸せ。

 そんな母にどう向き合うのか、考え出す瞬間私は無意識に頭を振って、考えることを拒む。



 だからこの数年間、黙っていれば済む、時間に任せればいずれか親は自然と受け入れられる―そんな淡い期待を捨てきれず、逃げ続ける道を選んでしまった。

 そして今、意味のない謝罪しかできない自分がいる。



「ごめん、陽依…私は……」



 喉から絞る出す小さい声で謝っても、私の視線は相変わらず陽依に向けられない。



 沈黙は私たちの間に無形の壁を築き上げた。

 あるべきであろう言葉も全部空の、地面の、街灯の上の雪に音一つ残らず吸われた。

 浅い足跡もう残せるくらい積もっていたが、まだ穏健に歩けそうな雪道を歩いても、薄い氷張りな湖の上で進む気分になった。



 ザクザク、ザクザク。

 新雪を踏んだ時立てた音は、今日に限って重くて鈍い太鼓の音のよう響く。

 空気も重たくて冷たい。深く息を吸い込むと、胸の奥までその冷気が流れ込み、言葉と心を凍らせる。



 ザクザク、ザクザク。

 足跡だけが、私たちの進む道を示している。




 20分くらいの雪道は20年のように長かった。

 店の前に着く時、もうラストオーダーギリギリな時間になった。

 陽依はドアを開け、軽柔な音楽が外へ漏れて来た。この店はいつもスピリチュアルな音楽を流しているのに、今日は特別なセットリストみたい。



「二人です」

 陽依の声は、さっきまでの緊張を感じさせない。店員に導かれるまま、小さな二人用の席へ。



 言葉を交わすこともなく着席し、陽依と私は机の上に置いたメニューを見始める。


 何回も来たことのある店だから、メニューの品を概ね把握している。けれど、今は食べる物を選ぶ気分がない故、私の目の焦点が合わず、メニューにあるスープカレーの写真と文字はぼやけて、何がその紙に印刷されているかを識別できない。

 その代わり、最後に見た陽依の哀しい顔だけが目の前にはっきりと見えている。店内真冬と不相応な緑な生気が溢れている柔らかな音楽は耳から入っても、陽依の無力感が滲み出る言葉だけが脳内で響く。

 彼女はあれだけ耐えて耐えてからの爆発をしても、無理を私に押し付けようとしなかった。



 私がぼーとメニューを眺めていたら、陽依はいつの間にかチャイムを鳴らし、店員に注文を取らせている。



「うん~あっさりスープのチキンレッグカレー、2つとも辛さは3番、ご飯は普通サイズです」

「あっさりスープのチキンレッグカレー2つ、辛さ3番ですね。ほかにご注文はございますか?」


「あっ、片方はナス抜きでお願いします。この人、いい大人なのにナス嫌いなんです」と陽依はさりげなく私の好き嫌いを暴露し、「トッピングは素揚げのブロッコリーを追加してください」と補足した。



 この瞬間、ずっとぼやけていた私の視線の先は一瞬で明晰に戻り、凍ったはずの心がその言葉の温かみに溶かれた。



「ナス抜きで、素揚げブロッコリートッピングですね。かしこまりました。少々お待ちください」



 店員を目送してから、目のやり場を陽依の顔に移し、真っ直ぐに彼女を見つめる。彼女の平静な目は相変わらず優しさが溢れ出し、先ほどの怒気が存在しなかったかのようだった。視線が合った瞬間、彼女はさらに口角を上げ、私にしか見せない可愛げな微笑みを零した。



 陽依は初めて怒った。

 けれど、怒気が頭に上がっていても、彼女は私はナスが嫌いのをちゃんと覚えている。この店に来るたびに素揚げのブロッコリーをトッピングすることを覚えている。

 私に纏わる感情が荒れていた後でも、私のことを第一に考えてくれている……



 心の柔らかいところが触れられた。

 目が少し霞んで、無意識に自分の唇を噛みしめ、心中波打つような色んな情緒を一所懸命に堪えた。唇から溢れそうな言葉を抑え、私はただ陽依の優しい顔を凝視し続ける。



 10分後、色鮮やかなスープカレーがテーブルに運ばれてきた。

 陽依は「いただきます」と小さな声で発した後、スプーンを手に取る。私も彼女の動きに合わせ、スプーンを手に取る。このごく当たり前の二人の仕草の中、私たちの七年間の日常が凝縮されている。



 スープを一口すすって、外の寒さと真逆な熱さ、そして香辛料から生まれた辛さで頭が少し冴えた気がする。

 思考も澄み始めていた。

 そうだ、私はもう前に進まないと。陽依と共に、進まないと。



 スプーンでじゃがいもを食べやすい大きさにきりながら、言葉を探す。


「陽依…」


 私の弱弱しい声に、彼女は顔を上げた。

 元々視線の先にあった辛さで汗が滲むおでこが、彼女の両目に変わった。私を見つめるその瞳には、まだ微かな悲しみが残っている。



「ごめんね、本当に。陽依を待たせてばっかりで…」



 彼女はそっとスプーンを置き、「りっちゃん、焦らなくていいから」と、柔らかく笑った。

「さっきの私はどうかしていた。気にしないで。りっちゃんが私といる時も楽しくないと、それこそ一番嫌なんだ…」


「うん、分かっている。でも、やっぱり少し考えさせて。また先延ばしにするわけじゃなくて…その、兄の結婚式の後で、探ってみようと思って」

「探ってみようと?」



 私もスプーンを置き、自分の緊張をほぐそうと、深呼吸した。



「まず兄に話そうと思う。兄なら…きっと分かってくれるな気がする」



 陽依の目は少し見開き、そして期待と不安が入り混じった表情になった。



いさみさんに?」

「うん。兄なら、きっと…」



 子供の頃から私を揶揄うばっかりの兄だが、思い返せばいつも私の選択を尊重してくれた。就活する時も、公務員ではなく一般会社を選んだ時、親が反対する中、「律の人生だから」と味方してくれた、良い兄。



「それで、兄の反応を見て…」



 陽依は依然と黙って私の話を聞いている。目の前のスープカレーに手を付けることを忘れたかのように。



「もし兄が大丈夫そうなら、次は父に。そして…」言葉が詰まるが、それでも続ける。「最後は母に話す。一気にはできないけれど、少しずつでも、前に進みたいと思う」



 彼女の目には透明の何かが浮かんだ。失望でもなく、喜びでもない、何か言葉では表せないものだった。



「りっちゃん…」


 陽依の声はいつものよう感じけれど、どこか違う響きがあった。その声を聞いただけで、私の心に安堵が広がった。

 ふとさっき彼女が私の代わりに注文する光景が思い浮かぶ。彼女はいつだって、私のことを覚えていてくれ、私のすべてを愛してくれている。

 口角が自然と上がる。



 私の表情を目にした陽依はほっとしたように息をつき、同じ笑顔を返した。


「うん、わかった。りっちゃんのペースでいいよ」と呟いた後、彼女は視線をカレーに落とし、再びスプーンを手に取った。



「ありがとう」



 まだ踏み出していないけど、踏み出そうとしたのも小さな一歩かもしれないが、もう逃げたくない。

 もう、陽依を悲しませたくない。





 夕食が終わった後も、雪はまだちらほらと降っている。

 来る時と同じ、私は陽依と手をつなぎながらゆっくりと帰り道で歩いている。彼女の要望で、食後の散歩を兼ねて町内の公園へ少し遠回りすることにした。



 スープカレーの香辛料の香りが、まだ二人のコートにうっすらと残っていた。暖かい店から出て冷たい外気に触れると、頬がピリピリと痺れる。

 公園に近づくにつれ、街の喧騒が遠ざかり、雪を踏む音だけが静寂に響く。そして—


「わあ…」

 陽依が小さく息を呑んだ。公園は一面の銀世界。足跡一つない、真っ白な絨毯が広がっていた。

 あの日、彼女と出会った学校の空き地のように。



「ふんふん~」と何か悪だくみでもしているかのような笑みを浮かばせ、陽依は尋ねた。


「出会った時のこと、覚えている?」



 まさか彼女からこんな質問が出るとは、思ってもいなかった。

 驚きを隠せない私は目を瞬かせ、「もちろん。忘れるわけがないじゃん」と、半分責めるような口調で彼女に答えた。



「ふふふ。あの時のりっちゃん、本当子犬みたいに可愛かったなー『楽しかったですか?』だって!はっはっは」と、繋ぐ手を小さく振りながら、陽依は思い出し笑いした。



「ちょっと…そこまで笑うことないだろうー」



 不満気に指で陽依の顔をぷにと突いたら、私は視線を前に移した。


「最初はすごく不思議な気持ちだった。あんなにも自由に、無邪気な笑顔を浮かびながら楽しそうに一人で遊んでいるなんて…陽依は別世界の人だと思ったんだよ」



「ふーん。その話、りっちゃんから初めて聞いた。でも、そんなことを思ってたのに、よく私に話を掛けたな」と、彼女は不思議そうに呟いた。


「まあ、それは多分ね…」私は少し言葉を選びながら続けた。「心の底では、あんな感じで自由に生きたいって思っていたんだ。だから陽依に会った時から、変わりたいって気持ちが芽生えた。でも、結局一番大事なところで臆病のままだった」



 来る時陽依の悲しんだ目と声を思い出し、彼女に謝るような視線を送った。

 私の視線の意味を受け取った陽依は首を垂れ、少し沈黙に入った。



 不安よりも、やはり後ろめたさが私の心を占領した。いくら償いでも償えない、彼女を悲しませた、彼女に傷を付けた、私の罪。

 ふと、温かい両手が私の頬を包んだ。視線の先は、陽依の真剣な眼差し。



「りっちゃんは臆病じゃない。ただ、家族を大事にする人なだけ」

「陽依も私の家族なのに…」と、私は手を彼女の手に重ねた。ずっと思っているけれど、初めてはっきりと彼女の前にその言葉を口にした。



「うん。私はりっちゃんに大事にされている。身をもって感じでいる。だから、こんな深刻そうな顔しないで」

 またあの屈託のない笑みが彼女の顔に這いあがった。私が大好きな笑顔。



 何かを言い返そうとしたその時、陽依は再び手の主導権を奪い、嬉しそうに私を引っ張りながら、「誰もいないから、一緒にスノーエンジェル作ろうよ!」と提案する。



「一緒に?」

 質問を吐き出した途端、私は陽依の力によって、彼女と一緒に雪の上に倒された。


 オレンジ色が霞む灰色の空を見上げながら、陽依はゆっくりと言う。



「今みたいに、二人で並んで作ったら、羽の部分は繋がるじゃん?そうすれば、二人で一つの天使になれるから」



 そういう発想は、やはり彼女しかできない。陽依の考えに感心しながら、その言葉とそこに含まれた思いに、温かい気持ちが込み上げてきた。

 でも、ここは敢えて彼女の笑いを誘ってみたい。



「へえーなんかデブ天使になりそう」と、意地悪に返した。



「りっちゃんのバーーーカ」



 語尾を伸ばし、不満をぶつけに来た彼女は繋がる手を振り始めた。

 その動きに合わせて、私たちは他の手足も一緒に動かし、積もった雪の上に自由な天使を残した。



 満足そうに起き上がった陽依の純粋な表情、そして彼女が作ったスノーエンジェルを見て、胸の奥で何かが動き、突然の決意が湧いた。



 手をポシェットに突っ込んで、スマホを取り出した。

 指が震える。でも、もう逃げたくない。


「話したいことがある。結婚式の後、どこか二人きりで話すタイミング作れない?」

 送信ボタンを押した瞬間、心臓が跳ねた。



「何してんの?」顔に好奇心が書き込まれた陽依が覗き込んでくる。

 答える前に、スマホが鳴った。



『なんだ、珍しく深刻そうだな。いいよ、なんでも聞いてあげるぞ』



 画面には兄の返事が表示された。いつも通りの軽い調子。でも、その裏にある温かさを感じる。

 これでいい。

 指先の震えが止まり、胸に溜まっていた重い空気が一気に解放されるように、息がスーッと私の口から吐き出した。



 これが、一歩目だ。

 陽依のため、自分自身のため、そして私たちのために踏み出す一歩。



「丁度兄からメッセージが来ただけだー」


 そっとスマホをポシェットに仕舞い、顔を隣に向くと、いつもの可愛い笑顔で私を見つめる陽依がいる。片手を差し出し、彼女の手と繋ぎなおす。



「帰ろう」

「うん」



 ザクザク、ザクザク。

 新雪を踏む時の音がまた響き始める。

 軽快に。




「雪雲に覆われて見えないけど、空で一番明るい星って、知ってる?」


 ゆっくりと歩きながら、手から伝わる温かさを感じていると、私は突拍子もない質問を陽依に投げた。

 視線を夜空に移し、目をグルグルと回す彼女は脳内で一所懸命に答えを探しているみたい。



「うーん、シリウス?なんかりっちゃん昔言ってたような気がする」

「さすが私の陽依、覚えているね」

「ふん、りっちゃんが言ったことは全部覚えているよー」



 陽依は自慢げに笑った。

 その得意げな様子も、相変わらず可愛かった。

 けど、私の質問は意味を込めたひっかけ問題―



「残念ながら、シリウスは不正解」

「えぇ、なんでよ!シリウスじゃんか!なんだっけ、視等級だっけ?マイナスだからめちゃくちゃ明るいって言ったじゃん!」



 納得がいかない陽依は自分の答えを支持する証拠を言い出した後、口がへの字になった。

 拗ねる様子も可愛すぎて、彼女にキスしたい衝動を抑えるのが大変だった。



「夜空で一番明るい恒星で聞いたら、シリウスが正解だけど。ほら、私の質問を思い出してみて」

「……あっ…免許の筆記試験みたいなひっかけ問題を出すなよ!」



 私の罠に気づき、陽依はポカンとした表情から一転、ぷくぷくとした顔で怒りの拳を私にぶつけた。

 痛みのない鉄拳を受けた私は、へらへらと彼女に笑い返した。



「空で輝く一番明るい星は、太陽」

 誰でも分かるような正解は改まって話すのは、この時で伝えたい言葉があるから。

「万物を照らし、温もりを与えてくれる。そう、まるで陽依のように、私に限りの無い優しさと愛をくれる。陽依は、私の太陽。そして、私の天使でもあるんだ」



「りっちゃん…なんか、気持ち悪い」

 目を伏せた彼女の顔には、さっきと違う赤みを帯びた。



「えぇ、本心なのに」

「いつものりっちゃんっぽくないから、ちょっとキモイ」

「たまにはいいだろう」

「今度は家で言ってください」

「ふーん、なるほど。夜の甘い言葉、バリエーションもっと増やさないとね」

「りーーつ!!」



 いつものような楽しい雰囲気が溢れる帰路は、もうすぐ終わる。

 羽が繋がった二つのスノーエンジェル、そこからここまで続く二人の足跡もいずれ消える。

 でも、この雪の中、二人で描く未来はもう、誰にも消せはしない―。



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私のスノーエンジェル だるい海氷 @YururiYuri

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