私のスノーエンジェル
だるい海氷
上
仕事を終わらせ、パソコンに向かってはぁーと息を付く時、もう20時手前になった。
椅子から立ち上がり、窓越しで灰色の空から降り続ける雪を眺めながらカーテンを閉め、今朝家を出た時、
それだけのことなのに、なぜか心がざわつく。
今日は木曜日、私たち恒例の外食日。
この時間陽依まだ家に帰って来ないのは、会社でまた何か面倒くさいことに掴まれたに違いない。
パソコンの隣に置いてあったスマホと取り、メッセージを送ろうとした途端、玄関のドアがガチャっと開けられた。
「ただいま」
ほんの少し疲れが入り混じった軽快な声に胸を撫で下ろし、スマホを持ったままで玄関に移動する。
ブーツを脱ぎ、廊下に上がった陽依の冷たくぷにっとした頬に手を添える。
全身で彼女の匂いを感じながら軽くおでこにキスした時、薄っすらと頭上に残った雪に気づく。
暖房の効いた部屋でずっと作業していた私の手は彼女と真逆に、温かい。自分の手でその僅かな雪を溶かし、彼女に家の温かみをさらに移す。
「お帰り。今日帽子忘れたね」
「朝そんな寒くないし、雪も降らない予報だったから。騙されたわ」と言って、陽依は自然と唇を私の顔に付ける。
カバンだけをハンガーに掛け、彼女は寝室に入り、「今日はどうだった?お昼ちゃんと食べた?」と、遠い声で質問を投げて来た。
私がリモートワークの日、これは彼女が帰宅後の定番質問。
陽依と出会って七年、一緒に暮らして五年。料理得意な彼女の教えの元、私は目玉焼きも炭になるキッチン破壊神から、手間の掛からない家庭料理を作れるような一般人になった。リモートワークの日の昼は大体簡単な肉野菜炒めで腹ごしらえしているが、今日は緊急対応のため、チョコレートしか食べてない。
「急なトラブル対応が入ったので…」
これを言った後陽依が心配してしまうのは分かりきったことだが、隠し事せず、誠実に話すのは私と彼女の約束だ。
「え?まさか何も食べてない?」
「チョコは食べた」
「ダメよ、ちゃんと食べないと。さらにやせ細ったりっちゃんの抱き心地絶対悪くなるもん」
寝室から聞こえてくる陽依文句のような言葉にやはり心配が溢れていた。
程よく肉が付いて抱き心地が異様にいい彼女と比べて、すこし筋肉質な私を抱き込む時彼女は一体どういう感触を覚えているだろうか、急に気になり始めた。
「今度は善処する」と、反省の込めた返事をした。
「晩御飯何にする?」を聞きながら寝室から出た陽依の頭に帽子が増えた。
自分の腕や腰回りの触り心地を確かめいる私を見た瞬間、今度こそ彼女は呆れた顔で「ちょっと何してんの?早く着替えてー」の文句を垂らし、両手を私の背中に当て、力づくで寝室に推した。
彼女の注視の中で着替え、同じ空間で同じ空気を吸い吐きことですら愉悦を感じてしまう私は今、とても気分がいい。
陽依もずっと一緒に家でリモートワークすればいいのにと、わがままな思いが脳を過った。
「スープカレーにしようか。今日はスパイシーな気分なんだ」
スマホと財布をポシェットに詰め、先に玄関でブーツを履きなおしてる陽依に今日外食の要望を話す。
「トラブルあったから、スパイシーなのか?」
「そうかも」
「ぷっ!りっちゃんはやっぱ可愛いよね」
屈託のない笑顔を溢した陽依の手を繋ぎ、私たちは家近く―と言っても15分歩くところ、こんな雪道なら20分弱掛かる―のスープカレー屋へ向かう。
家を出てから、陽依は今日会社でのことを小川に流れる水のよな穏やかな口調でスラスラと話している。
退勤間際で、チームリーダーが計算した工数が当初の見積と大きく乖離していて、原因探しのため彼女が呼ばれた。結局セルに埋め込んだ数式がズレ、一部の列がダブル計算されていたのしょうもない落ちだった。
あのポンコツリーダーのせいで陽依はたちまち残業させられていたので、私は面識のないこの人にあんまりいいイメージを持たない。
それでも、彼女は同じチームのメンバーだから、助け合えないといつも優しく笑って流す。
会社の話から離れ、歩きながら道中の新発見を語っている彼女の笑顔も、七年前に出会った時と全く変わらない。
降り落ちる白い雪の花と同じ純粋で、このありきたりな雪夜にあどけなさを加え、私に心の癒しを齎す。
風のない静穏な空気の中、ゆっくりと陽依と一緒に前に進む私は相槌を打ち、不意にただ重力と抵抗力によってゆらゆらと舞い降りる雪が彼女の睫毛の上に落ちるところを見た。
雪の花と一体化した陽依を見て、ふと、思い出した。
七年前、出会ったあの日も同じ天気だった。
二年の冬休みに入る直前、平日の早朝。
雪国生まれ育ちの故、私は雪が嫌い。あの年最後の一限講義のため、天気を呪いながら一番辺鄙な北門から大学校舎に入った。
数歩を歩き、少し遠くある一面真っ平な新雪が積もった空き地の上、黒い何かが動いていることに気づいた。
クマは冬眠する時期だ。冬毛になった狐にしては大きすぎるし、色も違う。
なんだろうと、好奇心に駆られ、つい黒い物体に向かって進行方向を変えた。
近づくにつれ、その黒い物体は人であることが分かった。
一人の女の子が真白な雪の上に大の字になり、リズムよく手足を動かしながら子供のようにスノーエンジェルを作っていた。雪が彼女の顔に落ちても気にせず、逆に更なる純真な笑顔が綻んでいた。
こんなにも自由に、天真爛漫にこの白くてつまらない、静寂だけな世界を楽しんでいる人、初めて見た。
呼吸は一瞬止まった、心臓の拍動も不規則になった。
見惚れた私はただそこに立ち、彼女のスノーエンジェルが出来上がるまで待っていた。
黒いコート着ていたのに、彼女の自然な動きも、歓楽を享受する表情も、白銀の世界に溶け込んでいた。
いや、世界は彼女の一部になっていた。
自分を律する意味で「
心の片隅に入りたかった、あの世界。
丹精を込めて作り上げた作品を確認しようと、雪から身を起こした彼女はようやく私の存在に気付いた。
目を見開き、空気と雪の冷たさで赤みを帯びた顔がさらに赤くなり、睫毛を伏せて、彼女は恥ずかし気に話し始めた。
「あっ…すいません。まだ誰も足を踏み入れていなかったので、つい作りたくなりました。子供っぽいですよね…」
せせらぎのような声に動悸がさらに激しくなった。けど、彼女に察されたくない故、冷静を装った。
「いいえ。こちらこそ、声出さずにすみませんでした……。あの…」
馬鹿馬鹿しくて、彼女の心に障るような質問を口にするのを躊躇っていたが、やはり聞きたかった。
彼女も私の躊躇に気づき、自ら気まずい空気を打破するように訊ねてきた。
「なんでしょうか?」
「えっと、気に障ったらすみませんが…その…楽しかったですか?」
私の質問に目がさらに大きく開き、眉もおでこの頂点に達したかのような彼女は一瞬困惑の眼差しを送ってきたが、すぐ口角を上げ、とびきりな笑顔で答えた。
「はい、めちゃくちゃ楽しかったです!」
その時、20歳の私は陽依に出会った。私より3歳上の彼女と、別世界にいる8歳の私とも。
この人に近づきたい。
1秒足らずの時間で、ビッグバンのように私の願望は急速に膨らんでいた。
「来週末りっちゃん用のドレスだけど、一昨年
握り合う手が引っ張られ、陽依の声は私を回憶から現実に引き戻した。
一葉は陽依の大親友。私が陽依に告白した後、気持ちが揺らぐ陽依に私への感情をはっきりさせ、私たちの恋に一押しした恩人でもある。一昨年彼女は高校から付き合っていた彼氏とゴールインした時、私と陽依は陽依の地元に戻ってその結婚式にも出席した。
「うん、それでいいと思う」と、軽く頷く。
来週末は兄の結婚式。私は実家に戻って、会費の徴収やら宴会の手伝いやらをする予定なので、ドレスを新調する必要はない。
「了解。明後日クリーニングに出しおくね」
「ありがとう」
私が感謝を述べた後、陽依は何かを聞きかけたが、ぽつりと口を閉じ、ただ静かに私を見つめる。
最近、彼女がこのような躊躇を見せる頻度が少し増えていることに気づいた。何か思いを溜め込んでいる様子が、普段の明るい陽依からは想像できないほど重く感じられた。
数秒の沈黙を経て、彼女は口を開く。
「また聞かれない?『いつ恋人を連れて帰るの?』とか」
私が実家に帰る時、陽依は時々こう聞いて来る。
おずおずと尋ねる様子に、私は浮きあがる後ろめたさにのまれた。視線を彼女の目から逸らして、白い雪が降り落ちる橙色と灰色が混ざった空を見上げる。
「まあ、多分言われるだろうな…兄が結婚したから、次は私の番だ、とか」
付き合って以来、私は何回か陽依を実家に連れて帰ったことがある。ただ、恋人ではなく、親友兼ルームメイトとして家族に紹介していた。
母はとても陽依を気に入っていて、本気で彼女の恋人のことまで気に掛けるようになった。私に早く恋人作れよと半説教した後、陽依には優しい口調で「律よりも年上だから早くいい人見つけた方がいいよ」を話すのが定番だった。
母なりに好意的なことではあったが、陽依はいつも愛想笑いを浮かべながら「そうですね」と、母に返していた。
そんな日、私たちの家に帰ったら、陽依は大体いつも以上に私を求めていた。
私の首に絡み付き、体を締め付けるほど抱き、切なく、卑屈なほど私に安心感を求めているような彼女に、胸を貫くような痛みを覚えていた。
私と陽依は自分自身より相手を愛しているくらいなのに、彼女は保留なくすべてを私にくれたのに…
私は彼女に必要の安心感すら満足に与えていない。
「じゃあ、いつになったら私たちのことを話すつもりなの?」
陽依の問いかける声はがわずかに上擦り、思わず彼女に視線を向け戻した。
「話すなら、一緒に向き合おうと思ってるから」と、彼女はすぐ補足した。
しかし、私を見つめる瞳は微かに無力感が滲み、先ほどと同じ哀しみが宿っていた。
この会話、今日は初めてではないが、彼女の表情から醸し出す雰囲気は今までと違った。
彼女と数え切れないほど歩いたこの道が、突然見知らぬ場所のように感じた。歩幅を狭め、いつもの日常に取り戻そうと彼女の手を握りしめながらゆっくりと進む。
「まだ、考えているんだ…少なくとも、兄の結婚式終わったあとじゃないと」
低い声で呟き、さり気なく笑みを彼女に見せた。けれど、その笑顔がどれほど不自然なのか、自分でもよくわかっている。
陽依の瞳に映す光が揺れた。それに気づいた私は気付いてないふりをした。
不安な気持ちを紛らすため、片手で彼女と私の肩に積もる雪を拭き払い、その雪は空から舞う粉雪と一緒に塵のように地面へ落ちて行く。
「あと…」と、陽依は少し震えた声で私の言葉を重複し、「結婚式のあとは分かるけど、りっちゃんはいつもあとあとって言うから、待つしか続かないじゃない?」と続く。
なるべく冷静にしたかった彼女だが、不安な気持ちは彼女らしくない早まった語調から漏れ出した。
再び逃げるように視線を逸らし、果てのある道に目を向く。
新雪を踏みしめる時のザクザクな音でさえ、私の心臓の拍動リズムを狂わせている。
「ずっとそう言ってるのは申し訳ないと思っている。でも、タイミングが…」
「タイミング?私がママに話してから、りっちゃんがママに会ってからもう3年過ぎたよね。ここ3年間、タイミングなかった?」
陽依は依然と穏やかそうに話していて、私を責めるような感じではないけれど、3年を言う時の語気だけが強くなった。強くなって、微かな疲弊の色も滲み出た。
陽依はひとり親家庭で、母の女手ひとつで育てられた。ずっと支え合って生きてきた二人だから、親子関係は極めて良好で、なんでも話す親友のような関係を築いた。
そんな陽依の母は、社会人3年目になったばっかりで未来もはっきりしていない私を陽依の恋人、人生のパートナーとして認めてくれた。もちろん、陽依の母から唯一の条件―一生陽依を大切にすること―も課せられた。
そんなの当たり前だと思い、「はい!」と自信満々に答えた私、今陽依に不安と悲しい気持ちをさせている。
「もう少し待っててくれる?ちゃんといいタイミング探すから」
こう言ってる私の声が震え出し、彼女の手を握っている私の手も少し震え、手汗も滲んだ。
「律の中で、いいタイミングはいつ?」
陽依の疑問の声が強張った。
情を交わし、気持ちが昂る時の呼び名は今彼女の口からこぼれ、これだけで私はすごく焦った。振り向いて彼女の顔を見る勇気すら無くなった。視線を足元に落とし、半分正直に彼女に話す。
「わざと先延ばしているわけじゃないんだ。ただ、どう切り出せばいいのかわからなくて……」
「切り出し方が分からない?」陽依の声はさらに震えた。「じゃあ、聞くけど…」
彼女は一度深呼吸して、言葉を続けた。
「前、由紀さんと一緒にテレビ観てた時、同性婚関連のニュース流れたよね。律は一言も言わなかった。むしろ避けていたじゃない?」
言葉と一緒に激しくなりつつある呼吸を整わず、彼女の声も静かに荒くなり始める。
「律は、本当に切り出そうとしたことあるの?愛する人が隣に座っているのに…」と話す彼女の目から、堰を切ったような感情が溢れていた。
「毎回由紀さんに『早く恋人作った方がいいよ』って言われる私の気持ち、律は考えたことある?!」
知り合って以来いつも私を優しく包み込み、一度も大声をあげたことのない陽依は怒気を含んだ声で私を問い詰めている。
静寂な雪道で、彼女の声と言葉だけが響き渡る。
怖い。
陽依と7年も過ごし、この念頭は初めて私の心に浮き上がった。
初めて怒った陽依が怖いではなく、私の無作為で陽依を失いそうな恐怖が私を襲った。
目の前に映る白い雪に覆われている真っ直ぐな道も、色を失い、波打つように歪み始める。
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