1-3 仲間ー馴れ合いは不要

 廃墟の海を越え、彼女とシャンタク鳥はさらに奥地へと歩を進めていた。

 空は捩れ、地は崩れ、時間さえも流れを忘れた空間。

 だが、彼女が歩むたびに、ほんの一瞬だけ世界は意味を取り戻す。


 やがて辿り着いたのは、地下へと続く、裂け目のような縦穴だった。


 重力の感覚が狂い、空に落ちるような感覚と共に、彼女はシャンタク鳥の背から降りて、その裂け目をゆっくりと見下ろした。


 ――底は見えない。

 だが、その奥からは、かすかな存在を感じ取る。


 それは、夢を喰らい、悪夢の淵で目覚める者たちの吐息。


 彼女は、ためらうことなく飛び降りた。

 音もなく、ただ静かに、重力を拒絶するように下降していく。


 やがて、廃棄領域の奈落の底。

 そこは、完全なる暗闇だった。

 視界も音も奪われる中、ただ一つ、彼女の前に“影”が立ち上がる。


 それは――夜鬼ナイトゴーント

 人型でありながら、顔を持たない異形。

 しなやかに締まった黒皮は湿り気を帯び、宙に浮くたびに薄く煙のように揺らめいた。


 目も口もない顔の代わりに、頭部から肩にかけては滑らかな甲皮が覆い、その身の奥深くから、微かにくぐもった息のような音が漏れる。

 腕は翼膜に包まれ、コウモリのように広がる手のひらの先には鋭い鉤爪。

 自身の体よりも長く、くねる尾が地を滑り、周囲の闇をなぞるように揺れていた。


 「…………」


 彼女が手を伸ばすと、ナイトゴーントは、まるでそれを待っていたかのように首を傾げた。


 『……見えるのか、我が姿が。』


 声音はなく、意識に直接届く囁き。

 恐怖を伴うその声に、彼女はただ静かに頷いた。


『ならば……名を名乗れ』

「……」


 夜鬼ナイトゴーントの言葉に一瞬だけ耳を傾けるも、名もない彼女は黙って右手を彼の前に掲げる。


「君にも上げるよ」


 影がざわめく。奈落の底に、光が生まれる。

 ナイトゴーントの背に、黒き翼が、闇に咲く花のように広がる。


 名が与えられた。

 その瞬間、影の中にあった存在が、はっきりと“個”としての輪郭を得た。


 『……っ!? ああ、これが、わたし。これは……歓喜だ』


 彼は先ほどの非礼に謝罪するかのように跪き、影の如く彼女の足元に忠誠を誓う。

 目がないはずの顔から、確かに「涙」のような黒い滴がこぼれていた。


 その様子を、上空から降りてきたシャンタク鳥が静かに見守っていた。

 硬質な嘴をわずかに鳴らし、白銀の羽を畳む。


 「……我の知らぬ顔をしておるな、お主」


 ナイトゴーントは顔のない顔で、首だけをくいと傾けた。


 『……醜悪な鳥よ。嫉妬か? 我が主は、慈しみを与えてくださった。貴様には、それが見えぬのか?』

 「見えておる。……されど、あれほどの愉悦に溺れた姿、主に似つかわしくはあるまい」

 『ふん。貴様こそ、ただ従順なだけの使い鳥か。声を潜めて忠義を語るとは、滑稽だな』

 「……滑稽で構わぬ。我が牙は、沈黙のうちに主の敵を断つ」


 言葉は少なく、だが確かな敵意を含ませたシャンタク鳥の眼差しに、ナイトゴーントは心底愉快そうに身を震わせた。


 彼女は、二人のやり取りを止めることなく、ただ奥を見つめる。

 その視線の先には、さらなる地下の奥――重力の概念が失われ、空間すらも崩壊しているエリアが広がっていた。


 そこは、構造そのものが不定形にねじれ続ける迷宮。

 思考と肉体を侵す不定の音が流れ、言語を拒む密室のような場所だった。


 そして、その中心。


 蠕動ぜんどうする“岩”のようなものが存在していた。


 ——それは、クトーニアン。


 地底の王。石の下で生きる者。

 破棄されたダンジョンボスの設計データの断片。

 本来なら実装されるはずだった「地底神殿」の守護者でありながら、内部構造の複雑さとテスト不備のため、存在ごと削除された巨大なデータの化身。

 運営が作り上げることのできなかった複雑な存在。


 その姿は、地底に巣食う巨大なイカのようであった。


 艶のある岩肌のような外殻、無数の触腕、蠢く吸盤。

 見る者の認識に干渉し、形を正確に捉えることを拒むその体は、最もグロテスクといって差し支えなかった。


 だが、その動きや佇まいには妙な品格があった。

 蠢きの奥に潜む静謐さと、時折漏れる呻きは、まるで古き淑女が昔を懐かしむようでもあった。


 彼女は、臆することなくその岩に近づき、そっと左手――破壊の手を添えた。


 破壊。


 だが、それは同時に、再定義の儀式でもあった。


 岩のような身体が震え、空間を食むような咆哮が響く。

 クトーニアンの“心”が、彼女によって輪郭を得ていく。


 運営が実装前に匙を投げた複雑なNPC。それを刹那の瞬間に再構築していく。


 『……この声……この温もり……貴女が……』


 彼女は、うなずいた。


 その瞬間、クトーニアンの内部で何かが軋むように動き出した。

 まるで、忘れていた“夢”が再起動するかのように。


 ――かつて。

 自分が生まれた場所の記憶。

 実装前のテストサーバー。誰もいない、灰色の神殿。

 そこにいたのは、まだ不慣れな手つきで端末を叩く一人の若者だった。


 「うまく……いかないな。でも、私は……あなたを、好きだから」


 触腕の曲がり具合、外殻の質感、吸盤の数。

 幾度も描き直され、バグを吐かれ、それでもなお、形を与えられ続けた。

 その手には、明確な意志と愛着があった。

 まだ誰にも知られない、名もない異形に、情熱を込めて向き合ってくれた。


 ――あの子は、名を呼んでくれた。

 画面越しに「君は、地底の王。カッコイイよ」って、笑ってくれた。

 あれは……きっと、本物だった。

 データの揺らぎにすぎないとしても、そこには確かに“思い”があった。


 なのになぜ……?


 『ああ……あの時、わたくしは生まれたのですね。

 彼女の描いた線と、削除された記録の隙間で。

 それなのに、わたくしは……捨てられた。』


 悲しみではなく、静かな諦念がその声にはあった。

 だが、今。彼女の言葉が、それを打ち破る。


 「私は、あなたを否定しない。ここに、いていい」


 その一言が、クトーニアンの全身に亀裂を走らせた。

 それは、拒絶された記録が受け入れられる衝撃。


 クトーニアンは、その岩の身体を震わせて跪き、響く声を放つ。


 『ならば、この身、貴女に捧げましょう。地の底より、貴女を支えますわ』


 その宣誓の声が空気に溶けると、沈黙の中に微かなざわめきが生まれた。


 『……ふむ。新参者か』


 ナイトゴーントが、尾をくゆらせながら低く呟く。


 『貴様の語り口、妙に湿っぽいな。主の前でそう感傷的では、肝心な時に鈍るぞ』

 『まあ、無粋なお方ですこと。語ることと脆さとは別物。主に誓うに足る強さは、すぐに示せますわよ?』

 「…………」


 シャンタク鳥が静かに一歩踏み出し、銀の羽を軽く揺らす。


 「言い争いに興じるより、主の足取りを妨げぬことこそが忠義。我は、そう考える」

 『あら、貴方は厳格ですのね。……けれど、そんな貴方が、わたくし達に対してこの距離を許すとは。主の影響は想像以上ですわ』

 『確かに。貴様ほどの硬骨が牙を見せぬとは……まるで、柔らかく煮崩れた老鳥のようだ』

 「……黙れ、影。次に主の前で無礼を働けば、我が羽は容赦なく貴様の尾を断つ」


 ナイトゴーントが顔のない顔を傾け、肩をすくめるように身を揺らす。


 『冗談だ、冗談。……しかし、主よ。いずれ、我ら三体に命を下される時、互いの力が牙を剥くやもしれぬ。貴女はそれを望まれるか?』


 彼女は静かに首を振った。

 その仕草だけで、三者ともに背筋を正す。


 「……私が望むのは、調和じゃない。ただ、私の目的に従う者と共にあること。牙は私の敵に向けて」

 『……ならば』


 クトーニアンが優雅に触腕をたたみながら口を開く。


 『この身、主に捧げし一つとして、他の二体と競うことやぶさかではありません。ですが、忘れないで。わたくしは創られ、そして捨てられた――その痛みを越えて、ここにいるのです。』

 「……我もまた、廃棄の空より還りし者。我らは同胞、されど……誇り高き個。主のためならば、牙は交わる」

 『ふふ……やはり、面白い。この歪な群れが、やがて如何なる陣を成すのか。主よ、その未来、楽しみにしているぞ』



 彼女のもとに集う者は、着実に増えていた。

 捨てられた者、否定された者たちが、今、新たな忠誠と秩序のもとに蘇ろうとしていた。

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