1-2 再構成ー邂逅

 物語は数日前、すべてが始まる場所から遡る。


 世界の裏側に、誰の記憶にも留められない場所があった。

 そこは〈廃棄領域〉と呼ばれ、開発途中で不要とされたデータの残骸、完成することのなかったNPCたち、破棄されたマップ、未使用のスクリプトの断片など、全てが打ち捨てられた場所。 


 ――ここは、終わりの墓場。


 本来ならばアクセスすることさえできない、管理者すらその存在を忘れた空間。

 この世界には、存在を否定された者たち。

 未完成ゆえに、世界に受け入れられることもなく、永遠の眠りを強いられた欠落たちだ。


 否、かつては、である。


 空も、地も、重力さえも歪んでいた。


 彼女は、そこにいた。

 いや、もはや「そこに収まりきっていた」と言うべきだろう。

 膨大な質量。

 都市どころか、ひとつの世界が丸ごと覆い隠せそうなほどの巨大な存在。


 右側には光の奔流が渦巻き、創造の息吹が浮遊する。天の音楽すら聞こえてくるような荘厳な気配。


 しかし左側は対照的だ。


 黒き瘴気が奔り、裂けた肉、のたうつ影、忘却されし神話の残滓のようなものが、飢えたように蠢く。崩壊と死滅の領域。理と秩序の敵。


 それが「彼女」の正体であり、存在だった。


 だが彼女は、静かにその身を縮め始めた。


 重力が波打ち、周囲の空間が音もなくねじれる。

 闇が歪み、光がしぼみ、狂った夢のような余波が地上に降る。


 彼女の膨大な身体が、銀の霧となって融解していく。

 幻想と物質の狭間で揺れるように、右半身の輝きはしだいに一点の銀髪へと収束し、左半身の破滅の欠片は、静かに人の骨格へと絡みついていく。


 やがてすべては、普通の人の大きさに凝縮された。


 銀と黒の髪を持ち、右半身は神のような美、左半身は忌避と死の化身。

 それでもひとつの存在として――完全で、絶対的な〈彼女〉が、本当の意味で地に足をつけた。


 廃棄領域、その中心に。




 静寂を破る、規則的な足音が響く。

 誰も動くことのなかったこの領域で、確かな意志を持って歩く者がいる。


 ——彼女。


 彼女は静かに歩く。

 右半身には、この世のあらゆるものを創り出す力が宿り、左半身には、あらゆるものを滅ぼし尽くす力が宿っていた。

 銀糸のような長髪が風に流れ、その顔立ちはまるで理想の彫像。

 右側の肢体は、美と神聖を凝縮したような輝きを放ち、見る者を無条件に魅了する。

 だが左側は——頬の肉は腐り、口元には亀裂が走り、肘から先は白骨が剥き出し、縫い合わせた足が不自然な軋みを奏でる。


 この世界では、その存在こそが奇跡だった。


 彼女には名前がない。

 生まれた時にはすでに、開発者たちの興味を失われ、コードの片隅で「不要」とされた存在だった。

 だが、そんな彼女がこの領域に現れた瞬間から、世界は少しずつ変わり始めた。


 


 歩みを進めるたび、地の裂け目が修復され、ひび割れた空間が再編されていく。

 彼女の右手が触れると、崩壊していた塔が一時的に立ち上がり、左手が掠めると、虚空へと崩れ去る。

 創造と破壊。

 再生と消滅。


 彼女はこの矛盾を身に抱えたまま、ただ静かに歩き続けた。


 「…………」


 口を開くことはない。

 その眼差しに宿るのは、無限の孤独。

 孤独を知りながら、それを誰にも見せることなく、支配者のように振る舞う。

 この廃棄領域には、何人もいない。

 されど、何かはいる。

 同じように、この地で捨てられ、忘れられ、魂を持たぬまま放置された――彼女と同じ運命を背負った存在たちが。


 その気配に導かれるように、彼女は歩く。

 孤独な神のように。

 廃棄場の王のように。


 


 やがて、瓦礫の海の向こうに、今の彼女にとっては巨大な影が横たわっているのが見えた。

 それは、かつて飛翔するために生まれながら、決して空を飛ぶことのなかった存在だった。


 近づくと、冷たい風が吹き付けた。

 そこにいたのは——異形の巨獣。


 馬のような頭部に、たてがみが逆立ち、体表は羽毛ではなく硬質な鱗に覆われている。

 翼は鳥のそれではなく、何層にも凍り付いた膜が砕けながら広がっており、硝石と霜にまみれ、すりガラスを引っかくような、耳障りな音を立てながら微かに震えている。


 彼は——廃棄されたNPC、「シャンタク鳥族」の原初の図面の成れの果てだった。


 召喚用として制作され、テスト段階で「不快すぎる鳴き声と友好NPCにしてはあまりにもな見た目」で却下され、以降データベースの奥に封印された“没キャラ”。

 彼女と同じ、存在してはいけなかった者。

 


 彼女は、立ち止まった。

 そして、静かに右手を差し伸べた。


 「…………」


 声にならない、命じるような、慈しむような意思が、彼女の手から溢れる。

 その瞬間、異形の巨獣の体がびくりと震えた。

 暗い谷間――構成エラーで生まれた巨大な裂け目。

 その奥から、異様な気配が滲み出る。


 目覚めの時。


 硬く閉ざされていた巨獣の瞼が、音を立てて開かれた。

 血のように濁った瞳に、彼女の姿が映る。


 


 『……きみ、は……』


 すりガラスを削るような声が、空気を切り裂いた。

 巨大な体が軋み、異形のシャンタク鳥がゆっくりと頭を垂れる。


 『神……だ……な』


 そう告げると、巨獣はぐらりと膝を折り、そのまま頭を地につけて、跪いた。


 彼女は、ただ静かにその姿を

 支配者の眼差しでありながら、その奥底には、誰にも見せたことのない微かな安堵があった。


 ひとりではない。

 この廃棄領域で、彼女を「存在」と認める者が、今、ここに生まれたのだ。


 巨獣は禍々しい存在感を放ち続けながらも、敵対心はそこにはない。


 『……名、を……』


 彼女は小さく首を振った。

 彼女に名前はない。

 廃棄された者に、名など与えられることはない。

 でも、彼女はそれを破れる唯一の存在だった。

 手を伸ばす。右手――創造の手。


 「……君の名は」


 彼女の声が響くと、世界の空気が変わった。

 それは“定義”だった。存在しなかった者を、“定義”してしまうということ。

 神が言葉を与えるがごとく、彼女は一言で、彼に魂を刻んだ。


 名は、まだ語られない。

 だが、確かに彼は、名を持った。

 意思を得た。

 道を得た。

 魂を得た。


 創造されたのだ。


 シャンタク鳥の異形は、嬉しそうに笑った。

 いや、それは笑みとは呼べない。

 口を引き裂くような、歪な、だが間違いなく喜びに満ちた表情。

 それは――崇拝。救済。執着。すべてが混ざった奇怪な“愛”。


 『なら、我が身を捧げる……主よ。』


 こうして、廃棄領域に——最初の忠誠が生まれた。

 すりガラスを引き裂くような声が、誓いのように響いた。

 世界の一角が、その瞬間だけ、祝福されたような静けさに包まれる。


 廃棄された神と、廃棄された獣。


 ふたりは、再会した。いや、初めて出会ったのだろう。

 運命など存在しないはずの空白で、それでも縁は編まれていく。


 彼女は小さく頷いた。

 彼の背に、そっと手を置く。


「……行こう。まだ、目覚めていない子たちがいる」


 彼女の瞳に、いくつもの影が映る。

 忘れ去られ、失敗作として捨てられた仲間たち。

 破壊された存在。形を持たない哀しき魂。

 名を呼ばれることのなかった彼らを――

 今度こそ、自分の手で呼び覚ます。


 彼らを再定義し目的を与え、傲慢なる創造者運営と、その玩具プレイヤーに、真の恐怖を刻みつけるのだ。


 凍える羽音が鳴る。

 シャンタク鳥が翼を広げ、主を背に立ちあがった。


 再構成が始まる。

 目指すは、この世界を支配するシステムの核――世界樹ユグドラシル


 始まることのない、終わりのはずだった世界で、確かに新たな「秩序」が芽吹いていた。


 世界はまだ、完全には動き出していない。

 だが、確実に、何かが変わり始めている。


 忘れ去られた存在たちが、再び世界を刻み始めるために——

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