井戸の底から見上げた空は

rainy

第1話 奴隷の少女 1

 ミヌーは物心ついた頃からずっと、大きなお屋敷の中庭の片隅に建てられた掘っ立て小屋で暮らしていた。

 生まれたのもきっと、その掘っ立て小屋の中だろう。木の板を組み合わせて出来た小屋には、いくつもの隙間が空いていた。ミヌーがいつも座る位置の真向かいには、とりわけ大きな隙間があった。隙間からは真っ赤な花を付けた火焔樹、さらにその先には、自分と家族が暮らしている掘っ立て小屋がいくつも入りそうな程大きく立派なお屋敷が見えた。お屋敷には大きな窓が付いていて、窓が開いている時にはその向こうに、自分と同じ年頃か、もう少し年上の子ども達の姿が見えた。

 ある日、ミヌーはふと思いついた事を家族の前で口にした。

「あたしもあっちの家の子みたいな素敵なべべ着てみたいなあ」

 そのとたん、

「二度とそんな生意気な口をきくな!」

 という父さんの言葉と共に、拳骨が飛んで来た。ミヌーはそれ以来、どんな些細な願い事も決して口にしてはいけないのだ、と思うようになった。

 しかしそんな我慢はミヌーにとって耐えがたい事だった。ミヌーは大人しい二人の姉ちゃん達のように辛抱強く無かった。屋敷の「奥様」のように唇を赤くするために木の実を潰して塗ったり、脚に絡みつきそうな華やかな衣装をまとっているつもりになって小股でしゃなりしゃなりと歩いたりした。聞きかじったお屋敷の人達の喋り方を真似て話している所を父さんに聞かれようものなら、またしても拳骨を浴びせられた。

(あたしが一番ちびだから、こんなに父さんにぶたれるんだ)

 こう思ったミヌーは、早く弟か妹が出来ないかと心から願うようになった。

 ミヌーが四つの時、待望の弟が生まれた。ミヌーは土間に敷かれた茣蓙に裸のまま寝かされた弟の鼻やおちんちんをつまみ、赤褐色の体を揺さぶりながらこう言い聞かせた。

「いいかい、お前は男なんだから、あたしの代わりに父さんにぶたれても我慢するんだよ!」

 弟は実際、父さんや母さんからよくぶたれた。しじゅう泣いていたからだ。泣いてもあやす人はいなかった。母さんは朝早くお屋敷に出かけ、夜遅く戻って来た。二人の姉ちゃんもそうだった。家族が掘っ立て小屋に集うのは、食事の時間と寝る時間だけだった。小屋で留守番をするミヌーは弟のあやし方など知らず、いたずらをして余計に泣かせるだけの事だった。泣き過ぎてうるさいと思ったら、ボロボロで持ち上げただけで端から崩れそうな茣蓙で赤ん坊をグルグル巻きにした。父さん、母さん、姉ちゃん達が戻って来ても、誰一人小さな弟に優しくしなかった。

 弟が立って歩けるようになると、ミヌーは彼を連れて姉達と共に皿洗いや洗濯などの仕事を手伝うようになった。お屋敷はとてつもなく広く、たいがいはしんと静まりかえっていて、まるで誰も住んでいないかのようだった。狭苦しい掘っ立て小屋の中でしじゅう弟が泣き、父さんや母さんが怒鳴り散らしているのとは大違いだった。ミヌーは屋敷の中に足を踏み入れる事は許されていなかった。ミヌーと姉ちゃん達が入れるのは中庭だけだった。そこで盥を使って洗濯をして干したり、皿を洗ったりするのだ。しかしミヌーは我慢出来ずにすぐ仕事の手を止め弟とふざけ合い、その度に姉ちゃん達からひっぱたかれるのだった。

 ある日ミヌーは、ふとお屋敷の中に足を踏み入れた事があった。それは、うだるような暑さの中、開け放たれた玄関の扉の奥に母さんの姿を垣間見たからだ。ミヌーの家族の中でただ一人、母さんだけが良い服を来てお屋敷の中で仕事をする事を許されていた。ミヌーはそんな母さんが羨ましくてならなかった。ミヌーは好奇心に導かれるように、お屋敷の廊下を奥へ奥へと進んだ。裸足に触れる床板は滑らかで、ミヌーは転んでしまわないように壁に手を付きながらそろりそろりと進んだ。その奥の開け放たれた扉の前で、ミヌーの足は止まった。部屋の床には美しい模様の敷物、そして数々の立派な調度品が置かれている。ミヌーは初めて目にする色彩豊かな世界に、あっけに取られてその場に立ち尽くしていた。足の指の間から、床板のひんやりした感触が上って来る。母さんは部屋の調度品を一つ一つ動かしながら丁寧に拭いている。ミヌーはしばらく無我夢中で部屋の中の物一つ一つに見入っていた。

 ミヌーはやがて、部屋にもう一人別の人間がいる事に気付いた。それは女だった。その人は台の上に横になっていた。女は鮮やかな色の花がたくさん描かれた布の下にいて、首から上だけを覗かせている。その様子は一見、花畑に生首が転がっているように不気味だった。その顔を目にしたとたん、ミヌーはギョッと体を震わせた。土と灰を混ぜたような色あいのその顔は、ゾッとする程恐ろしかった。話に聞く吸血鬼の顔とはまさにこんなではないか。ミヌーを殴る時の父ちゃんの顔も恐ろしい。しかし今目にする顔は、この世の人のものとは思えない程気味悪かった。ミヌーは十数秒間、呪いをかけられ石になったようにその場に立ち尽くしていた。横になった女の顔には、凄まじい憎しみが浮かんでいた。そしてその視線は部屋の調度品を磨いている母さんに向けられていた。

 この時、母さんがクルリと顔の向きを変えた。

「奥様……」

 普段ミヌーが耳にしている怒鳴り声とは全く違う、鼻にかかった気取った声だった。母さんはそのまま横になった女の方に近付いて行く。ミヌーはサッと向きを変えて走り出し、お屋敷の外に飛び出した。そして大きな盥の前で洗濯をしている姉達の横にしゃがんだ。心臓の鼓動が膝小僧から脚の爪の先まで伝って下りる。ミヌーはその日一日じゅう、あの横になった女の恐ろしい顔つきを忘れる事が出来なかった。

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