七
申之丈が花野屋の縄のれんを潜ったのは、あれから半月ほどが過ぎた頃だった。あれからというのは申之丈が床に伏して緒方に診てもらった日からである。
霜月に入り、朝晩の冷え込みが日に日に強くなっていくのを肌で感じるこの季節は、夜ともなれば寂しさも募り、心も体も暖かさを求める。
申之丈が店内に入ると暖かい空気に包まれた。煮物料理の湯気や燗をつけた酒の匂いが店の中に満ちていた。土間に並べられた床几は仕事帰りの職人や湯屋帰りの客などでほぼ一杯になっており、ざわついていた。陽気に話し合う者、仕事の事を話す者、女房ののろけ話や愚痴などを話す者、市井の縮図が酒場にはある。この暖かさに満ちたざわつきがなんとも心地よい場所であり季節でもある。
今日の混み具合では座敷も一杯であろうと思った申之丈は空いている床几を見つけ腰を下ろした。おみちが忙しそうに客と板場の間を動き回っていた。申之丈はおみちが近くに来た時を見計らって「燗酒をひとつ頼む」と声をかけた。
おみちは「はい」と返事をして申之丈を見た。ぺこりと頭を下げたおみちは奥にそそくさと消えていった。ややするとおのぶが奥から現れた。
「暮林様」
かるく会釈する申之丈に、
「奥へ」と、おのぶは誘った。
「空いておるのか?」
「はい、今空いたところがございます」
「では」
申之丈はおのぶに案内され座敷へと向かった。
前を歩くおのぶが、
「心配しておりました」と振り向かずに言った。
「ん?」
「緒方先生から聞きました。風邪の事」
「左様であったか」
「清衛門様も自分の所為だと心配しておりました」そう言いながらおのぶは座敷の障子を開けた。
座敷に入り腰の物を抜き申之丈が座すると、
「失礼いたします」の声がして、障子が開けられた。おみちが廊下に正座しおのぶの前へと燗酒が載った膳を差し出した。
「ありがとう、おみっちゃん」
おのぶが受け取ると、おみちは申之丈を一瞥し両の手を着き頭を下げ、障子を閉めた。
「おみち殿も随分と慣れたようだの」
「ええ」
「まだ、幼いように見えるが、いくつになったのだ?」
「十になったばかりなんですよ。いろいろあるみたいであの歳で働かなくてはいけないようで・・」
「左様か。たいへんだのう」
「ええ。でも、今ではみんなにおみっちゃん、おみっちゃんって可愛がられ、頼りにされてるんですよ」
おのぶが申之丈のちょこに酌をしながらにこやかな表情を浮かべた。
「嬉しそうだの」
「ええ。暮林様のお元気そうなお顔も見れましたし」
申之丈がちょこの酒を飲み干すと、おのぶがまた酒を満たした。その酒に少し口をつけ申之丈はちょこを膳に置いた。
「清衛門殿の風邪は癒えたのであろうか」
「はい、緒方先生のおかげで」
「某も緒方先生の薬で良うなった」
「留さんが良いお医者様を連れて来て下さったおかげです」
「そうじゃの」
おのぶの様子を見て、あれからあの男、内藤雅勝はおのぶの前には現れていないようだと思った。
「清衛門様が、少し良くなったと思ったら、また、私を迎えに行くと言いだされて。私は、もう大丈夫だからと言ったんですけれど」
困ったような口ぶりとは裏腹に、なにやらうれしげなおのぶの面持ちが見てとれた。
「今日も来ておられるのか?」
「たぶん、もう来ている頃だと思います」
清衛門は緒方先生から内藤雅勝の怪我を診に備後福山藩の屋敷を訪れた時の話を聞き、またおのぶを迎えに行く事にしたのだと申之丈は思った。
「そうか」
申之丈は酒をぐいっと飲み干して、刀を掴み立ち上がった。
「おのぶ殿、清衛門殿と少し話したいので、今日はこれにて失礼いたす」
「え?・・そうですか。では、清衛門様に私もおっつけ参りますのでと、お伝えください」
「相分かった」
申之丈が土間に降りると混み合っていた客は引けていて、まばらに床几に腰を掛けている程度になっていた。
「女将」と板場に声を掛け、酒代を手渡すと縄のれんを手で掻き上げ外へ出た。
善福寺門前へ足早に向かえば、ひんやりした冷気が申之丈の頬に当たり、吐く息は暗がりに白く浮かび上がっては消えた。
善福寺の門へと近付くと塀に寄り掛かる黒い人影を認めた。
「清衛門殿」と声を掛け、申之丈は更に人影へと近付いた。
「暮林様・・でござるか?」
「今、おのぶ殿からここにいると聞いて」
近寄る申之丈に、清衛門は、
「此度は、私の所為で誠に申し訳ござらぬ」
自分の風邪を申之丈にうつしたと思った清衛門は深々と頭を下げ詫びた。
「頭を上げてくだされ。緒方先生の薬でもう治りましたので」
「それを聞いて安心いたしました」
「心配を掛け申した。それで、緒方先生から聞いたのですね、内藤雅勝の事を」
「はい。先生の話を聞く限りでは、まだ油断はできぬと思いまして、またこうして・・」
人の気配を感じた清衛門は言葉を呑んだ。
仙台坂方向からこちらに向かってくる人影に申之丈も気が付いた。近付いてくるその人影は袴を穿いており腰には大刀を差していた。
左手をだらりと垂らし、右手は懐に入れているようであった。
近付くにつれ、その者から発せられる異様な気配は殺気を含んでいるように感じられ、申之丈は心の内で身構えた。
清衛門も同じように感じたのであろう。その者が二人の脇を通り過ぎるのを刀の鞘に手を添え目で追いかけていた。
その者が二人の横を通り過ぎ、気配が感じ取れなくなると、申之丈と清衛門は目を合わせ、
「あの者・・」と清衛門が申せば、
「不気味な奴でござるな。しかも、われらを警戒していたようにも思われましたが」
とその浪人らしき者の背に申之丈は目を向けた。
「気にかかる」そう言うと清衛門はその者の後を静かに追った。花野屋に向かうのではないかと思われたからであろう。 申之丈も清衛門の後に続いた。その者は途中善福寺裏へと抜ける左の路地へ曲がった。
「清衛門殿はこのまま花野屋へ、某はあの者の跡を」
「うむ、深追いは禁物ですぞ」
申之丈は無言で頷き、浪人者の跡を追い路地へ入って行った。
その時、浪人は善福寺の裏通りに抜け左に折れた。と同時に音をたてずに駆けだした。十五間ほどを瞬く間に走り抜け、左手の門扉を開け中へと入り素早く閉めた。さらに奥の家の腰板障子を開け屋敷の中にさっと入った。戸を閉めると蹲り気配を消した。奥からは薄灯りが漏れていた。その中から、
「いかがした」と男が現れた。
浪人者は、「しっ」と口に人差し指を当て男を見た。内藤雅勝であった。
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