第2話 逃げ場の無い空間
廊下を駆け抜ける生徒たちの混乱は収まらない。あちこちで悲鳴や泣き叫ぶ声がこだまする中、何人かの生徒がホテルの窓へと走り寄った。3階に位置する男子生徒の部屋から、彼らは怪物から逃れるために窓の外へと飛び降りようと必死だった。
「もう、ここから出るしかない!」
「飛び降りろ!早く!」
仲間たちが叫びながら、一人、また一人と窓の外を見つめていた。だが、その瞬間――。
ガガガガガッ……
背後で、怪物の不気味な足音が響いた。闇に溶け込むように、異様な姿がじわじわと生徒たちへと近づいてきた。窓枠に手をかけていた生徒たちはその異様な雰囲気に気づいた時にはもう遅かった。
「な……なんだよ、あれ……!」
一人が恐怖に怯え、動きを止めた瞬間、怪物は長い手を伸ばし、その生徒を掴み取った。生徒の絶叫が響き渡り、残りの生徒たちも恐怖で立ちすくんだ。
「くそっ……何が起こってるんだ!?」
その悲鳴を聞きつけ、凱叶は廊下を駆け抜ける。心臓が激しく鼓動し、頭の中がぐるぐると回るような感覚に襲われていた。生徒たちが窓から逃げようとしていることは知っていたがその場に駆けつけるのが遅れてしまっていた。
「待ってくれ、まだそっちに行くな!」
凱叶は叫びながら走ったが、怪物が生徒たちに迫っている光景が視界に飛び込んできた。
「嘘だろ……!」
目の前では、窓のすぐ横で怪物が生徒を捕らえ、無数の目がゆっくりと動き、生徒たちを威圧するかのように見下ろしていた。
「やめろぉぉぉぉ!!」
凱叶は全力で駆け寄った。だが、すでに怪物の手は生徒を完全に掴んでいた。その生徒は、恐怖で体を硬直させ、ただ呆然と凱叶を見つめていた。
「うあああああああっ!」
生徒の叫びが再び響き、怪物はそのまま暗闇の中へと引きずり込んでいった。凱叶が手を伸ばしても…何もできなかった。
「くそ……間に合わなかった……」
凱叶はその場に立ち尽くし、荒い息を吐きながら地面を強く拳で叩いた。すぐそこにクラスメイトがいたのに自分の力では救えなかった。その現実に打ちのめされ、手が震えるのを抑えられなかった。
背後では、他の生徒たちが恐怖に慄きながら立ち尽くしている。彼らの目には凱叶の無力感が映し出されていた。
「どうすればいいんだ……」
憂翔と神士が後ろから駆けつけ、凱叶の肩に手を置いたが、三人ともその場に立ち尽くすしかなかった。怪物の姿はすでに闇の中に消えていたが、その恐怖は確実に彼らの心に深く刻み込まれていた。
《二日目》
翌朝、ホテルの広間に全員が集められた。朝食後の朝会は生徒たちにとって通常の一日の始まりを知らせるものだったが、今日は違っていた。校長が前に立つと深刻そうな顔をして話を始めた。
「皆さん、今朝の時点で生徒20名と先生5名が行方不明になっています」
その言葉に、凱叶たちの心臓は跳ね上がった。昨夜の恐怖が現実だということが確信に変わった瞬間だった。彼らはすぐに顔を見合わせ、不安が募る。
「現在、捜索を進めていますが……今のところ、行方は不明です。したがって、修学旅行は一旦中止することを考えております」
校長がそう言うと、少しざわつきが広がる。しかし――そのざわつきは意外にもすぐに収まり、他の生徒たちは驚くほど冷静だった。むしろ、何事もなかったかのような空気すら感じられた。
「え、何でみんなそんなに平気なんだよ……?」
凱叶は小声でつぶやく。神士や憂翔も不安げに周りを見渡すが、まるで何も異常が起きていないかのような雰囲気が広間を支配している。
「校長先生、昨夜のあの怪物について、誰か見てませんか?俺たちだけじゃないはずなんです!」
凱叶は勢いよく手を挙げ、声を張り上げた。他の生徒たちが驚いた顔を向けるが、すぐに興味を失ったかのように目を逸らす。
「怪物……? 何を言っているんだ、佐久間君。」
校長は眉をひそめ、疑問の色を見せた。
「昨夜、丑三つ時に怪物が現れて、生徒たちが次々とさらわれたんです!先生たちも
目撃したんじゃないんですか!?皆で助けを求めようとした時、あの部屋から――303号室から怪物が出てきたんです!」
凱叶の声が震え、真剣さが滲み出ている。しかし、校長は一瞬黙り込んだ後、まるで何かを隠すかのようにゆっくりと口を開いた。
「……佐久間君、昨夜はおそらく、君たちが疲れていただけだろう。怪物だなんて、馬鹿げたことは言わないでくれ」
「違う!本当なんです!俺たちは見たんです!他の生徒たちも失踪してるじゃないですか!」
憂翔も必死に訴えるが、教師たちの反応は冷たかった。
「失踪した生徒たちは……まだ確認が取れていないだけだ。焦る必要はないよ。おそらく、迷子になっているだけだろう」
一人の教師がそう言って微笑むが、その笑顔はどこか不気味で、凱叶たちは背筋が凍るような感覚を覚えた。
凱叶たちは周りを見渡すが、他の生徒たちは完全に無関心だった。何事もなかったかのように話し始め、修学旅行が中止されることを悲しむ声まで聞こえてくる。
「なんだこれ……おかしいだろ?どうして誰も気にしてないんだよ!」
神士が声を低くして言う。
「俺たち、間違ってないよな……?」
凱叶も心の中で葛藤していた。確かに見たはずの怪物、そして失踪した生徒たち。なのに、どうしてこんなにも周りが平静でいられるのか。まるで、彼らだけが別の現実に生きているかのような錯覚さえ感じていた。
「では朝会を終わりにします!二日目の研修も気をつけてください」
校長はそう言って朝会を終わらせ生徒達は部屋に戻って身支度をしていたが凱叶、神士、憂翔三人はどうすればいいのか途方に暮れたまま準備を終わらせると部屋を出て行ってそれぞれのメンバーが揃ってからタクシーに乗り込んでいた。
男子たちは集合時間に間に合うよう、ホテルのロビー近くの待合室に移動した。そこは研修に向かう前の待ち合わせ場所として使われていた。生徒たちは次々と集まり、楽しそうに話している。
「風華たち、まだ来てないな……」
憂翔が腕時計をちらりと見ながら言った。凱叶たちは女子の風華と冥が来るのを待っていた。彼女たちとは今日の研修で同じグループになる予定だった。
「お前ら、昨日のことは黙っておけよ。余計な不安を煽るだけだ」
凱叶が低い声で言った。憂翔も神士も頷いたが、不安は隠せない。
待合室の窓から見える朝の景色は穏やかだった。青空が広がり、日差しが柔らかく降り注いでいる。昨夜の恐ろしい出来事が嘘のような静かな朝だ。しかし、凱叶たちはその静けさの裏に潜む異常さを感じ取っていた。
数分後、風華と冥が待合室に現れた。風華は相変わらず嬉しそうな表情をしており、少しの疲れも感じさせない。対して冥はどこか気だるそうな様子でまだ完全に目が覚めていないようだった。
「お待たせ。遅れてなくてよかった」
風華が軽く手を振りながら言う。
「冥、寝坊か?」
神士が冥の顔を見てからかうように聞いた。
「うるさい……昨夜、変な夢を見たせいで寝つけなかったの……」
冥が小さなあくびをしながら答える。彼女の言葉に凱叶たちは一瞬顔を見合わせた。冥も、何かを感じていたのかもしれない――しかし、それを聞く時間はなかった。
それからメンバーが揃ったことでタクシーに乗り込んだ。
朝の緊張感も薄れていく中、凱叶たちは京都の観光地を巡る一日を過ごした。清水寺、金閣寺、伏見稲荷大社――京都を代表する歴史的なスポットを次々と訪れ、生徒たちの表情は次第に和らいでいった。記念写真を撮ったり、土産物屋をのぞいたりと普通の修学旅行の一日が過ぎていく。
「やっぱり京都はすごいな、観光客もいっぱいだし」
憂翔が人混みの中で声をあげる。
「ここの空気、やっぱり違うよな。なんていうか、歴史を感じるっていうかさ~」
神士が神妙な顔つきで周囲を見渡す。
凱叶も、ほんの一瞬だけ昨日の恐怖を忘れたかのような気分になった。しかし、心の奥底にはまだ、何かが引っかかっていた。
やがて、日も暮れて再びホテルへと戻ってきた。生徒たちはそれぞれの部屋へと戻り、着替えや夜食を済ませる準備を始めた。ホテルの大きなロビーに足を踏み入れると凱叶たちは不気味な静けさを感じた。しかし、他の生徒たちは観光の疲れもあってか、その違和感に気づく者はいなかった。
「……また、ここに戻ってきたな」
憂翔が廊下を歩きながら、凱叶にそっとつぶやいた。
「気にするな。今夜は何も起こらないかもしれない……。」
凱叶もそう言ったが、内心は落ち着かない。
夕食は生徒たちが各自で自由にとる形式だった。凱叶たちはいつものメンバーで集まり、簡単な食事を済ませた。その後、風呂へと向かう。広々とした大浴場に浸かり、今日一日の疲れを癒す時間となった。
「はぁ~、やっぱり風呂は最高だな」
神士が肩まで湯に浸かり、満足げに言う。
「そうだな、でもなんか油断できない感じだ……」
憂翔は周囲を警戒するように見渡しながら、まだ昨夜の出来事が頭から離れない様子だ。
「今夜は特に注意しろ。もしまた何か起こったら、すぐにスマホで合図する」
凱叶が湯船に浸かりながら、低い声で指示を出す。
風呂から上がり、全員が夜食を終えるとホテル隣の総合体育館でのレクリエーションが始まった。ホテルのすぐ隣にある広大な体育館は、バスケットボールやバドミントンなどを楽しむため、生徒たちに開放された。教師たちも見守る中、何もかもが普通に進行しているように見えた。
「うわっ、広いなここ!」
神士が体育館の中央で声をあげる。
「なんだかんだ言って、こういうのも修学旅行っぽくていいよな」
憂翔がバスケットボールを手に取り、シュートを試みる。
凱叶も、しばらくの間はこの一時的な平穏を感じた。生徒たちの笑い声や、バスケットボールのドリブル音が体育館に響く。彼もバスケットボールを手に取り、数回シュートを決めたが、その心の中には常に疑念があった。
「これで、本当に大丈夫なのか?」
凱叶はボールを床に転がしながら、周囲を見回した。体育館の広さが、逆に不気味なほどに静けさを強調している気がしたのだ。
そしてレクリエーションが終わり、生徒たちは再びホテルへと戻った。部屋に入ると先生たちは一通り生徒たちの様子を確認し、就寝時間を告げる。しかし、そんなことを気にしている生徒はほとんどいなかった。特に修学旅行の夜という特別な空気が、誰もが少しはしゃぎたくなる気持ちにさせる。
「先生たちもそろそろ寝る頃だな……」
憂翔が廊下の様子をうかがいながら、部屋の扉を少しだけ開ける。
「よし、みんな静かになったっぽいな。始めるか」
凱叶がベッドから立ち上がり、神士と憂翔に声をかける。
凱叶たちは自分の部屋に集まり、荷物の中から持ってきたお菓子をテーブルに広げた。スナック菓子やチョコレートが乱雑に並べられその横にはペットボトルのジュースも置かれている。
「じゃ、夜食タイム開始だな」
神士が嬉しそうにチョコレートを一口かじりながら、テーブルに座り込む。
「それで……話し合うって言ってたけど、何のことだ?」
憂翔がポテトチップスを食べつつ、少し真剣な顔で凱叶に尋ねた。凱叶は一瞬、窓の外を見やり、深呼吸をした。外は暗闇に包まれ、ホテルの周囲も静寂が漂っている。
「今夜、もう一度あの303号室のことを確認しておきたいんだ。昨日のことは、ただの偶然じゃない気がする。」
「やっぱり……俺たちが見たのは現実だよな?」
神士が不安げに言いながら、目を合わせた。
「そうだ。だけど、何が起こったのか完全には分からない。何かヒントがあるかもしれない。303号室に何かあるなら、それがわかれば今後の対策が立てられるかもしれないだろ?」
凱叶は手元のお菓子に手を伸ばしながら、慎重に言葉を選んだ。憂翔はテーブルに肘をつき、しばらく考え込んだ後、口を開いた。
「それにしても、なんでホテル側はあんな危険な部屋を放置してるんだろうな? 俺たちに見せないために管理してるなら、もっとしっかり封鎖すべきだろう?」
彼は303号室の存在がずっと気になっていた。凱叶も同じ疑問を抱いていたが、そこにはおそらくホテル側が関わりたくない理由があると考えていた。
「だからこそ、俺たちで調べるしかないんだ。先生たちが信じてくれない以上、行動するしかないだろ」
凱叶の決意は固かった。神士がため息をつきながら、ポテトチップスを頬張った。
「まぁ、俺たちが行動するってのはいつも通りか。今夜もまた何か起こるかもしれないし、準備はしておいた方がいいな」
三人はしばらくの間、夜食を楽しみつつ、これからの動きについて話し合いを続けた。しかし、どこか心の片隅に残る不安が、彼らの会話の隙間に忍び寄るように感じられた。
「じゃあ、俺はもう一度見回りをしよう。神士は廊下の見張りを頼む。憂翔は窓の外をチェックしてくれ」
凱叶が指示を出し、静かに部屋の中の空気が引き締まった。憂翔と神士はそれぞれの役割を心得て、動き出す準備を始めた。
先生たちが完全に寝静まり、ホテル全体が不気味なほど静かになった頃、凱叶たちは慎重に行動を始めた。廊下には人の気配はなく、遠くで風の音だけがかすかに聞こえる。
「……さぁ、行くぞ」
凱叶が小声で二人に合図を送り、静かに部屋を出る。
外はすでに丑三つ時に近づいていた――。
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