第29話 呪いを超えて
その爪は大地を切り裂き、牙はあまねく化生たちを喰らい尽くす。九本の尾は、ことごとくを薙ぎ払い、狐たちは彼女こそが王だとひれ伏した。
その巨体は大百足よりは僅かばかり小さいものの、纏う妖気は並の人間や化生では立っていられないほどの圧力があった。呪い、とはまた違う独特の気の巡り。それこそが大妖怪が大妖怪たる所以。
低く喉を鳴らしながら、九尾の大妖狐は静かに歩みを進める。薄々感じていたかもしれないだろうが、眼前に現れた自分にも劣らない大化生を前に大百足はガチガチを一際大きく顎を鳴らした。
「■■■■■■■——」
一歩、また一歩。
魔孤魅の歩みに、周囲からポツポツと狐火が灯り出す。薄闇の向こうから、闇の中に大量の獣の目が浮かんでいた。
「一人でくるつもりだったが……まったく、どいつもこいつも心配性でいかんのう。まあ、結果としてそっちも眷属どもを引き連れてきておるのじゃ、卑怯とは言うまいな」
「なんて数……」
「あ、ああ……あれが、全部魔孤魅の眷属なのか……」
狐、半獣人、花夢里の様に黒い毛の狐、完全に人に変化しているもの、あるいはそれ以外のものに化けている狐。
様々な姿の狐たち、姿形は様々だが意志は揺るぎなくまとまっている。
ただただ、大将である魔孤魅のために——ただ一点、そのためにだけ。
俺や拝であっても、これほど壮観な光景は見たことがない。狐の嫁入りでもかくやと言わんばかりだ。
狐と百足の眷属同士が、見えない火花を散らす。戦いは、そう間をもたずに始まった。いずれにせよ、日はもうすぐそこまで登りかけている。闇に生きるものたちにとって、日の出に寄ってまともに動ける化生たちの数は限られている。選りすぐりの化生であっても、その数はごく限られた数だけだろう。満足に動けるとなれば、やはり大将同士くらい。
時間は、もう僅かしか残されていない——
「っ、そうだ。呪い刀!」
「ん、ああ。そうじゃったそうじゃった……ほれ」
「ああ、助かる……って、何軽いノリで呪い刀触ってんだよ。その、何ともないのか?」
「クク、生憎呪い呪われは魔女の領分よ。少しピリッとしたくらいじゃ」
「えぇ……」
魔女に呪いって、そんなからしとかわさびみたいな感覚でしかないのか。普通の人間は触れるだけでおかしくなるっていうのに。
魔女と人間……というか、生物としての違いみたいなものを感じる。
ともかく、俺は手渡された刀を改めて握る。心配してはいたが、触れてみると不思議なものでずっと昔から常に一緒にあったような感覚さえあった。
もっとも、そんな感覚はどこか感傷じみた思い込みの産物なのかもしれないが。
「必要じゃろうと思ってな。呪いの具現化、みたいなものなんじゃろう。あの大百足の怪物は」
「らしいな……まったく。俺を外に連れ出したのは、あんな怪物を退治させるためだったのか?」
「クク、それも一興かものう。ま、生き残れたら——笑い話じゃ」
「ちょ、ちょっと二人とも……本気で、あの大百足を倒すつもりなの!? 封印するだけでも……」
「まあ見ておれ、払﨑拝。この男が、抱え続けてきた十年をのう」
ケイの言う通り、俺はこの十年を思った。
外に出た後悔も、全くなかったわけではない。
謂れのない悪態も、肉親からの拒絶も、死別も全て。
「俺の一部だ……どこまで逃げても、離れやしない」
「さあ、さあ……さあさあさあ! 大一番ぞ、我が子らよ。遠吠えを上げよ、いざ百足狩りの時間ぞ!」
魔孤魅が天高く吠える。雄叫びのような遠吠えは、妖気の迸りとなって空気を震わせる。半分程度は化生であるはずの俺も、魔孤魅の遠吠えを聞いただけで肌が泡立つほどだった。
「行くぞおめぇらぁ! 総大将の道を作るっす!」
雄叫びに呼応し、魔孤魅の眷属たちの狐が前へと出る。当然、百足たちもそれを傍観しているばかりではない。狐たちが、自分の親の敵であることを彼らもまた察しているのだ。戦いは、さながら怪獣映画を見ているような光景になりつつある。
無論、修羅場は狐と百足たちの独壇場ではない。
つけるべき決着は、ここにもある。
「しかし、やはりその身に潜んでいた影は『麒麟』じゃったか。道理で、お前の姿から目が離せなかったわけじゃ。狼の爪に、馬の蹄、鱗……そして、鹿の角」
「知ってたのか?」
魔孤魅は俺の姿をしげしげと観察し、フッと息を吐いた。
「なんとなくじゃがな……麒麟は四柱の獣たちの中心にいる存在じゃ。あまねく獣たちを従える四獣の中心ともなれば、我らのような獣の化生にとっては早々頭の上がらぬ存在よ。一体どこで……いや、それは野暮というものじゃな」
「力を、貸してくれるか」
「ほう……たった一日で随分と見違えた。男子三日会わざれば刮目して見よとは言ったものよ。正直なところを言えば、そこの性悪な魔女の口車に乗せられて野垂れ死んでいる可能性も考えておった」
「おいおい、随分な言われようじゃのう。そんなにワシのことが気に食わんか?」
「人の育てた弟子を抜け抜けと連れていくやつが何を言う」
「なんじゃとー!?」
一人と一体の獣のやり取りを見ていると、不思議とこの二人は相性がむしろいいのではないかと思えてきた。
呑気に俺たちがそんなことをやっていると、痺れを切らしたのか大百足は勢いよく百足の毒を振り撒き始めた。
「むっ、まずいな……」
「キヒヒ、使い物にならない魔女は大人しくしているがいい。自分で連れてきた助っ人に手柄を与えたこと、後悔するなよ?」
「なっ……誰が使い物にならないと!?」
「どうせ、今は見えておらぬのじゃろう? その目」
魔孤魅は鼻を鳴らししてきた。ケイはドキリとしたのか滑らかだった口を思わず噤む。思い当たる節があるらしい。
……いや、普通に考えればそうだ。
視線を滑らせることで、対象を切断するというめちゃくちゃな魔術。そんなものを扱える魔女は、おそらく今の時代に存在していまい。それこそ、かつての古い時代を生き延びた魔女であるところのケイ……あるいは、プラン。そんな魔女たちを以てしても、常識はずれの魔術であることには違いはないはずだ。
力には、往々にして対価がつきまとうものだ。
恐る恐るケイの顔を見ると、確かにしばらく前に見た時と違ってケイの目は焦点が合わないのか空中を彷徨っているような眼球の動きをしている。
「ふん、別に隠していたわけではない。どの道、過剰な魔力消耗による一時的な視力低下じゃよ。別段気にするほどでもない」
「――足手まといになるなら、今ここで食い殺してやってもよいぞ」
「はっ、いらぬ世話じゃ」
バチバチと、ここでも見えない火花が散っていた。魔力と妖力がぶつかり、息が詰まりそうになる。
何も味方同士で争わなくても……。
似た者同士だと思った俺の目は狂っていたのだろうか。
「見えずとも、ワシには信頼できる目があるかの。それに、奥の手とは最後まで取っておくものじゃ」
ケイは何かを取り出す。その何かは、ケイの手に握られているはずだと言うのにはっきりと視認することは難しかった。
なぜなら、その正体は限りなく透明なクリスタルで象られた短剣だったからだ。
「透明な、ナイフ……それで、どうやって戦うのよ」
「何、それは見てのお楽しみじゃ」
俺はまだ視力の戻り切っていないケイに、意を決した。
「ケイ、無茶しないでくれよ。さっき、散々後悔したんだよ。まだロクに感謝も伝えないうちにケイに会えなくなるんじゃないかって。まだ、外の世界を見ていたくなった。一人じゃだめだ、俺は」
俺は、全然外の世界のことを知らないから。
とてもじゃないけど、人付き合いがいい方だと言うわけでもない。
だから——一人じゃだめなんだ。
「自殺ついでに共倒れなんて作戦は、俺は認めない」
「……キヒヒ、やはり外に出して正解じゃったな。可愛い子には、旅をさせよじゃ。して、自殺願望とはな。深月洞にやってきた時は何を考えているものかと思ったが、なかなか愉快な自己陶酔もあったものじゃ」
「……やれやれ。運命共同体であるお主に、それを言われては立つ瀬がない。それに、ワシが死にたいと言うならこの化け狐は何の躊躇もなくワシを殺そうとするじゃろう。生憎、こういった手合いは苦手じゃ……化け狐に食い殺されるくらいなら、まだ別の死に方を考えねばのう」
「……決まりね。じゃ、さっさと倒しちゃいましょうよ。この大百足」
「一番お前が強気だよ……」
拝は鼻息荒く、大百足にメンチを切っていた。
この術師、柄が悪すぎる。
だが、拝の言う通りさっさとケリをつけなくては。彼岸が飲み込まれてから、すでに数分は経過している。百足の食生活など、とんと知りはしないところだが、時間が過ぎれば過ぎるだけ状況が悪化していくことは想像に難くない。
「姉さんほど上手くはやれないかもしれないけど……アタシも力になるからさ」
「……」
「ケイ?」
「少し、気になっていたが……お主、その境界術とやらは独学か?」
ケイの言葉に、拝は怪訝そうな顔で肩眉を上げる。
境界術は払﨑家のお家芸だ。だとすれば、その術式が独学であるはずがない。
「何が言いたいの? 急がないと」
「まあまて、この勝負——鍵はお主じゃ」
「お、おぉ、おおおおおおおっ!!」
鼓膜が破けた——そう錯覚するほどの、地響きのような雄叫び。大百足はその身を焦がす狐火であぶられたイカのように身悶えしている。当然と言えば当然だが、ただの狐火ではない。
九尾の妖狐の狐火である。
魔孤魅が眷属たちと共に状況を拮抗させている中、俺たちも最後の仕掛けに入っていた。
「よいか小娘、お主の術――境界術とは結界術よりも実は深い。それは結界術は、初めから線と線を結んでいるものだからじゃ。境界術は——違う」
結界が初めから三つ以上の点を結んだものであるのに対し、境界術は境を明確に意識しなくてはいけない術式だ。
大百足に焦点を合わせ、拝は意識を集中する。
「全ての生物は、身体が複数の部位に分かれている。人間とて、上半身、下半身、腕、脚、頭、指、内臓——分かるな? 生物である限り、そこには無数の境目が存在しているということ」
「境を、意識する———」
拝の意識がどんどん研ぎ澄まされていく。意識の半分をケイが補助して大百足に焦点を合わせているが、もう半分は境界術の起動に全て注がれている。
霊子が励起されていく感覚が、肌を通して伝わる。
少し前にみた拝の戦闘スタイルとは、まるで違った。
「―――縛り、絡めとる」
「■■、■■■■■■!?」
身悶えしていたはずの大百足は、突然動きを止めた。まるで、蜘蛛の巣に絡めとられた蝶の様に。
百足は、その身体の構造上継ぎ目だらけだ。ケイの見立て通り、これ以上ないほどに境界術が効いている。
「っ、うぐ……あ、ああああっ!! 何、これ……頭が割れ、そう……!?」
「む、思ったよりノックバックが早いのう。懸命、準備はいいか?」
「当たり前だ……もう、逃げたりするもんかよ」
「……ふ」
ケイは少しだけ、頬を緩めた。それが一体、どういう心境だったのかは分からない。それきり、再び険しい顔になるとクリスタルのナイフを掲げた。薄闇の中で、狐火が煌々と透明なナイフを照らし出す。
「――星の巡りを思う」
「――四季はうつろう」
「――風は旅をする」
「――我が魂は、出会うだろう」
四つの短い呪文のつぶやき。ただ、それだけのシンプルな祈りに似た言葉。人間からすっかり乖離した、彼女の歴史が積み上げてきた魔術の全てがそこには存在していた。大げさな言葉はいらず、ただそれこそが世界の全て。
かざされたナイフは、勢いよくケイ自身の胸に穿たれる。しかし、ナイフは肉体を穿ったわけではない。肉体のさらに内側、魂そのものへと付き立てられた。
「な、何を——」
ナイフを突き立てたケイの肉体——銀色の髪は見る見るうちに真っ白になっていく。代わりに、焦点の合っていなかった視線は再び視力を取り戻し大百足を照準に定めている。
ゾワっと、本能が恐怖を感じた。総毛立つ感覚が頭の先からつま先まで走り抜ける。
「おっと、懸命。あまりワシの視界に入るでないぞ。ワシの『万刃世界』《カッティングスレイブ》は強力だが——調整するのは難しい」
透明な短剣が平面に像を結ぶ大百足をなぞる。
「■■■■——」
「クク、ククク……痛むか? まあ、呪いが痛みを感じるかなど知ったことではないが。今の一撃は、レプリカ;エクスカリバーの一撃の記憶だ」
さらに一振り、また一振りとケイの素振りが空を走る。その度に大百足は百以上はあるように見える足が宙を舞い、肉体が刻まれていく。先ほどと違い、胴が八つ裂きになっていく。
「ふっ、く……は……こいつは、なかなかくるな……」
「ケイ! 無茶を……」
「大丈夫、だ」
ケイは片手で俺を制止する。代わりに、空いた手の指で俺の握る刀を指し示す。ケイは覚悟を示した——拝もそうだ。
なら、次は俺が——
俺自身が覚悟を示す時。
大百足はもう、動けない。それでもどうにか俺の持つ呪い刀を完全に破壊するためにもがいていた。
それはどこか美しくさえ思う。こんな状況だからこそ、感覚がどこかおかしくなっているせいなのかもしれないが。人の醜さを、何度も見た。己の醜悪さに嫌気が差しもした。
ただ、目的のためだけにあがく存在はかくも美しい。
「……惑わされるなよ、懸命。あれを美しいと思うのは、他にすべきことがないからじゃ。たった一つ、そのためだけに生きる命は美しくて当たり前じゃ」
「分かってるよ」
だからこそ、俺は刀の柄を握る手に力を込めた。無機質だが、しかしその内側には積み重なった歴史の中で積み重なった重さを感じた。
恨みがあった。
妬みがあった。
悲しみがあった。
悔いがあった。
それは、人を縛るもの——呪いだ。
終わりにしよう……いや。
「違うな、これは」
「■■————」
「ああ、おやすみ」
そして、おはよう。
刀は、俺をすんなりと受け入れてくれた。振り抜いた一撃は、羽根よりも空気よりもはるかに軽い。
ほとんど無意識のままに振り抜いた刀は、大百足を縦に割っていた。
「見事」
誰の声だっただろう。けれど、その声を聞いて悪い気はしなかった。
朝日が山々を照らしている。長い長い、とてつもなく長い夜が明ける。
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