第16話 記憶
深い森の中で、字見灰治は彷徨っていた。いや、彷徨っているように見えるが実際には目指している場所は明確である。
富士の麓に広がる、かの青木ヶ原樹海である。かの樹海には、霊泉が湧き、霊的な病や傷を癒すことができるという噂を耳にしたのだった。背中には六歳になる息子、字見懸命が短い呼吸をしながら眠っている。眠っているという言い方は、あくまで状況をさしているだけであり、どちらかと言えば気を失っているという状態の方がより的を射ているとも言える。
それほどまでに、症状はひどかった。
およそ200年近くに渡り、嵐の災いを鎮める『
だが、もちろん代償もある。
人を呪わば、穴二つ。
だからこそ、呪い刀の使い手は敬われる。その身一身に抱えきれないほどの呪いを抱えるのだから。
だが、コップに収まる水の量が決まっているように注がれ切ることができなかった水は溢れる他ない。では、溢れた呪いはどこへといくのだろう?
「まったく、バカバカしいことだ……こいつが一体何をしたって言うんだか」
悪態をつきながら、灰治は鞘に収まった呪い刀を振り回して道を遮る枝葉や草、蜘蛛の巣を払っていく。こんな使い方をしていると寛恕院が知れば、間違いなく懲罰ものだ。
(こっちは好んでもいないのに呪いを押しつけられてるようなもんだっていうのに)
チラと背後に目をやれば、そこにはまだ幼い我が子の寝顔があった。苦しそうに眉間を歪めているあたり、症状は悪化し続けている一方だと分かる。
灰治は優秀な術師だが、この状態を見れば誰であっても体調がいい様には見えまい。
再び足に力を籠め、前へと進んでいく。昼間だというのに、鬱蒼と繁る樹々たちは二人の訪れを歓迎しているようには見えない。
現在灰治が歩いているのは、現実世界と霊界の狭間だった。そこにこそ、霊泉は湧いている。もっとも、次元の狭間を歩くというような芸当を軽々とできるのは並の術師には相当な難易度である。次元の間は綱渡りの縄の上のようなもので、少しでも傾けばそちらの次元に引っ張られてしまうからだ。肉体と、魂の均衡をいかに保つかがこの綱渡りのコツである。霊界は死者の次元であり、まだ生身の人間である灰治と懸命が霊界側に引きずられれば文字通り命を落とすことになる。
そうは言ったところで、簡単にできるものではないが。
超人的なバランス感覚なくして、この曲芸はできるものではない。
「う……」
「なんだ、起こしたか。悪いな、もう少しの辛抱だ」
眠気眼の我が子を案じつつ、灰治は前へと進む。自殺の名所として名高い青木ヶ原樹海ではあるが、コンパスが効かないなどの俗説はもっぱらの作り話だ。実際にそういう場所もあるのかもしれないが、この狭間においてはそれは正しい。コンパスはおろか、人間の文明から生まれたものはことごとく意味をなさない。ケータイの電波は当然のことながら死んでいる。
もとよりあてにはしていなかったが、ここまで深く分け入ってくるともう二度と戻れないのではないかという不安も内心過ってしまう。
だが、リスクを冒さなくては得られないものもあった。
——とりわけ、先祖の負債を子孫が被るなんてことは灰治にとっては許しがたいことだった。
自分はもう手遅れだが、懸命にはまだ別の選択肢があってもいいはずだと。
そんな思いを知ってか知らずか、懸命の手は灰治の背中を強く握り締めた。
「……まったく、親父ってのはままならねぇな」
薄暗い樹海が、一層闇を深くした。ボウっと、人魂が飛び回り始める。墓場でもないのに、異様な数の人魂が飛び始める。それに合わせたように、骸骨や薄ぼんやりとした輪郭の亡霊たちが次々を姿を見せ始めた。周囲の空気もまた、それに合わせるようにどんどん下がっていく。気づけば自らが吐く息も、薄っすらと白い煙が混ざるようになっていた。
「死にぞこないどもが……構って欲しいならもっと人が多いところで死にやがれってんだ」
カタカタと骸骨が笑い、そして一斉に飛び掛かってくる。一体一体は、灰治にとってはものの数ではない。呪い刀を握って相対するような敵は、こんなものではないからだ。しかし——数。こればかりは克服することはなかなかに難しい。
いかな優れた術師である灰治でも、大規模制圧を得意とする術式を持ち合わせがない。人には得手不得手がある、それを灰治はよくわきまえていた。
「人気者は辛いな、まったく。そんなにこの刀が気になるか……いいぞ、だったら好きなだけ見ていけばいい」
「耐えられるもんならな!」
灰治は片手で持った刀を、一瞬だけ鞘から抜く。わずかに刀身が空気に触れた瞬間、刀が抑えていた呪いが周囲へと溢れた。
キンと甲高い音を立て抜刀する頃には、周囲を漂っていた人魂や地縛霊たちは姿を消していた。およそ、実体を保つにはあまりにも希薄な存在である。せいぜいこけおどしが関の山だ。少し呪いを浴びせてやれば、こうも簡単に制圧できる。
……しかし。
「ぐっ、この……!」
どこに紛れていたのか、骸の馬にまたがる騎馬武者がまだ残っていた。呪いに臆することなく、騎馬武者は刃もとうに朽ちた太刀で虎視眈々と灰治の首を狙っている。眼球のない双眸の奥で、蒼い光が瞬いたように見えた。
「ガタ、ガタガタガタ!」
「何て言ってるか分からねぇよ!」
ガツン、ガツン、ガツン。朽ちた刃と鞘が何度も交差する。物理的な衝撃は灰治の腕を伝って懸命にまで及んでいた。一方で骸の武士は一向にその闘志を鎮めることはないようだった。呪い刀の呪いが、逆に興奮剤として作用しているのかもしれない。稀に起こることではあったが、今の状況では傍から見ても灰治の方がどう見ても不利である。
そう分かった時、灰治はダランと力を抜いた。
「……仕方ねぇ、あんまり抜きたかないが消耗戦になると面倒なんでな」
本当に、嫌だと言わんばかりに刀に手をつけた。先ほどとは違い、威嚇のために抜くのではない。
――確実に仕留めるために。
「ガタガタガタ」
声なき声が笑う。しかし、次の瞬間しゃれこうべの世界は反転していた。骸骨の馬もまた、バラバラとその身体を崩壊させていく。
勝負は一瞬だった。
カランカランと、乾いた音だけが樹海に響き渡る。血払いをすると、恭しく刀は再び鞘の中へと納まった。
「悪いな、名も知らない武士よ。せめて、成仏してくれ……ッ、ゴホッ!?」
途端に灰治は膝をついた。年中湿り気を帯びる大地に、膝が沈みこむ。咳が止まらない、病ではないが呪いではある。
灰治が好んで刀を抜かない理由は、ここにあった。
それは、灰治自身もまた呪いに犯されている。懸命ほどではないが、他の呪い刀の使い手よりはずっと呪いでの魂の汚染が酷かった。迂闊に呪い刀を使い続ければ、呪いのノックバックが訪れる前に死に絶えてしまうほどに。
(むかつく本家のジジイどもは僕の命なんざ、いくらでも代わりが利くと思ってるだろうしな……本当、うんざりする)
どうにか息を整え、歩き出す。彷徨うようにしばらくは樹々の間を歩いてはいたが、それも次第に覚束なくなり、ついには一歩も歩くことができなくなってしまった。
あたりは霧が立ち込め、仄かに霧雨が舞う。
霧の奥深くには、この地に昔から住まう魑魅魍魎たちの気配があった。神の山の麓に広がるこの樹海には、未だ神の時代の息遣いが残っているのだ。彼らは果たして、この二人をどう見ているのだろうか。
哀れみか、憐れみか。
「ここ、までか……」
指の一本も動かない。霊薬と呪符で誤魔化し、最後は気合でここまで進んできたがいよいよ限界だった。瞼を閉じれば、浮かんでくるのは最愛の妻である渚の顔ばかりだった。結局、本当に家族と呼べる者は彼女と懸命だけ。そんな渚も、自分が死ねば相当に苦労することだろう。寄る辺なき術師の世界で、一人残していくことだけが気がかりだった。
「お、とう、さん……」
いつの間にか背中から降りた懸命が傍にいた。
一族の呪いを一身に受けさせてしまった、可哀想な我が子。ああ、そうだ。せめて、終わるならそれもいいかもしれない。
こんな不幸、呪いはここで断つべきなのだと——。
しかし、気を失いかけたその時だった。
「この、音は……せせらぎの音……」
どうにか身を起こすと、霧が晴れた眼前に泉があったのだ。探していた、霊泉がまさにそこにあった。
だが……。
「そんな、これっぽっちじゃ……」
這いずりながら霊泉の傍に寄って中を覗くも、そこには水たまり程度の量の水しか残っていなかった。大方、このあたりの化生たちが奪い合ってなくなってしまったのだろう。
文字通り、全身から力が抜けていく。
こんな、こんなものか。
もう、何もかもどうでも良くなってしまった。必死になって樹海に分け入り、その結果がこの様か。
今度こそ、本当に終わりだ。
「……おとうさん、あれは」
「すまない、懸命……もう」
「ちがう、あれは……」
「あれ?」
懸命は一人、泉の傍に視線をやっていた。灰治には一瞬なんのことか分からなかったが、よく目を凝らすとそこには神々しい姿の鹿のような獣が血を流しながら横になっていた。しかし、その目には未だ強い光が宿っている。今まで、見たことのないような姿の獣だった。
「……運命は残酷なものだ。常だって、欲するものは指先をすり抜けていく。幻を信じ、それに振り回される人生は愚かだと思うか」
「獣が、分かったような口を聞く……」
「ふっ、すまないな。■も、そう長い命ではない。培った学びは大勢が分け隔てなく共有すべきだと思ったがどうやらそうでもないらしい」
得体の知れない獣は流暢に人の言葉を操った。気もそぞろな今の灰治には、もはやその程度のことは気にもならない。
お互いに満身創痍、方や呪いに蝕まれ方や深い傷にその命は風前の灯ときている。
自殺の名所とは、何とも皮肉が効いた場所だった。
獣は、懸命をジッと見つめると、おもむろに口を動かした。
「その童は、呪いに犯されているな。それもただの呪いではない、長い年月を重ねた性質の悪い呪いだ」
「……だったら、何だという。頼みの綱の霊泉も枯れ、僕たちもここでおしまいだ。ああ、それとも死肉を喰らう類の化生であれば僕らが息絶えた後に好きなだけ貪ればいいさ。それで、その傷の足しにくらいにはなるんじゃないか」
投げやりに、灰治はそう獣へと返した。
獣は何も言わず、ただ懸命を見つめていた。
「助かりたいか」
「えっ……」
「助かりたいかと、そう聞いたのだ」
獣は真面目な顔つきで、灰治——いや、懸命へと問いかけていた。懸命が幼子だと分かった上でもなお、その問いは大人であろうと子供であろうと関係ないという熱を帯びている。
灰治は口を挟もうとするが、獣の視圧に気圧されて口が動かない。
(なんだ、何なんだこの獣は……化生、ではない?)
懸命は朦朧とする意識の中、ゆっくりと獣へと歩み寄った。そして恭しく、その場に膝をつき頭を垂れる。
(……そうだ、それでいい。お前は、助かるべきだ。朽ち果てるのであれば、僕だけで)
「お父さんを、助けてください」
「――――!?」
一瞬時間が凍り付いたようだった。灰治が予想もしていない答えが、懸命の口から突いて出る。自分ではなく、父を救ってほしいと。
愕然とする、まさか齢6歳ほどの息子が自分の身より父を救ってほしいだって?
耳を疑うような言葉は、しかし聞き間違いではなかった。懸命は繰り返すように、念を押すように「父をお救いください」と告げるのだった。
「ばかっ、何を言って……!」
「ぼくはもう、助からないよ。分かるもの」
あまりにも痛々しい我が子。生まれついて病弱で、この年齢になるまでよく生き延びたものだとさえ思う。ギリっと奥歯を噛み締める。己の無力が、こんなにも憎いことがあるだろうか。
獣は懸命の瞳を見つめると、フラフラと立ち上がる。傷口はさらに開き、血がボタボタと大地を染める。今更ながらにこの獣も霊泉を目当てにここへとやってきたのだと分かる。互いに空振りだったわけだが、この獣には焦りがほとんど感じられなかった。
生も死も、ただの巡り合わせに過ぎないことをよく知っている。
「……魂が半分以上壊死している。これではもう一年と持つまい。そしてここ、我が身にはちょうどそれを補って余りある魂がある。我が身はもう持つまい、くれてやろう」
「よせ、それは僕じゃない! 僕の息子に使ってくれ!」
「黙るがいい、■はこの童に問うているのだ」
「ぼくは、それでいいよ」
いいわけなんてあるわけがない、灰治や渚がどれだけこれまで心を尽くしてきたと思っているのか。そんな中で自分ばかり生き延びて、一体何になるというのか。
「今の時代に、その幼さで内ではなく外への慈愛を持つ者を久しくみた。少なくとも、500年ぶりくらいにはな」
獣はどこか嬉しそうに懸命の額を舐めた。途端に、弱り切っていた懸命の肉体に生気が満ち始める。血色の悪かった肌は赤身を取り戻し、呼吸も穏やかなリズムへと戻っていく。
「とく、懸命に生きよ。人の世は、悲しみばかりだが——悲しみの底に咲く花もあるであろう」
「……あなたは、死んでしまうの?」
「何、魂は巡るものさ。どこかでまた、相見えることもあるだろう」
そういって獣は光の粒になり、天へと昇って行った。神々しく、あまりにも偉大な風格を持った獣。
今を以てしてなお、懸命にはその名を知る術はなかった。
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