今からおよそ六〇年前となる一九六一年四月十二日。旧ソ連のユーリィ・ガガーリンが人類初の有人宇宙飛行を成し遂げました。　

　ガガーリンの残した「地球は青かった」という言葉は有名でしょう。

　しかし、そんな華々しい話とは裏腹に人間の都合によって犠牲（いけにえ）となった犬がいたことはあまり知られていません。

　その名は「ライカ」。実は初めて宇宙へ行った生物は人間ではなく、このライカという一匹のメス犬だったのです。

　一九五〇年代、ソ連。

　国の科学を集結し、膨大な予算をつぎ込むと「スプートニク2号」という宇宙船の開発が始まりました。それと同時に政府は有人宇宙飛行が可能かどうかを検証するために、宇宙船にメスの野良犬を乗せることも決まりました。

　この頃の宇宙はまだ未開で無重力・真空・放射線の強い宇宙空間で生命が生き延びられるのかを確かめる必要があったのです。

　アメリカでは検証に猿を利用していたのに対し、ソ連が犬を選んだ理由には、躾（しつけ）がしやすいのと飢えに強いからというのがありました。またオスではなくメスの犬が選ばれたのは、排（はい）泄（せつ）時（じ）の姿勢の問題からでした。

　その野良犬「ライカ」はモスクワ内で捕獲され、宇宙開発施設で訓練されました。ちなみにライカは「クドリャフカ」とも呼ばれています。

　そしてライカが宇宙で生き延びられるよう生命維持装置の開発も進められました。生命維持装置とは暖房や生命モニター装置、酸素が循環するシステムなどライカが生きるために必要な装置一式のことです。

　初めはライカが宇宙へ安全に行って帰れるよう想定されていました。

　しかし、このまま順調に話が進むことはありませんでした。

　というと国の上層部がアメリカを出し抜き共産主義の優秀性を宣伝するという政治的理由で、急（きゅう）遽（きょ）打ち上げ期日を設定してきたのです。（当時のソ連とアメリカは冷戦真（ま）っ只（ただ）中（なか）で対立している状況でした）

　この時すでに生命維持装置はある程度完成していましたが、それでもまだライカが生きて帰るにはいくつかの課題が残っているという段階でした。

　この期日で打ち上げるのであれば、ライカは軌道上で死ぬ。それが明確であったため「ソ連は検証のために命を奪うのか」「動物虐待だ」というように国外では非難の声が巻き起こっていました。けれど政府は「自国の発展と人類の利益のため、その犠牲は仕方がない」という理由で非難の声に耳を貸そうとはしませんでした。それはただの政治ショーだったのです。

　かくして迫り来る期日の中で宇宙船を完成させなければならないという無理難題を要求されました。

　最終的にはできる限りのことをしました。ですが、ライカが帰還できる可能性はゼロに等しいと思われました。

　一九五七年十一月三日。

　その日ライカを乗せたスプートニク2号はR-7ロケットで、現在のカザフスタンに位置するバイコヌール宇宙基地という所から打ち上げられました。

　打ち上げ直後、凄（すさ）まじい爆音と加速度でパニックを起こしていたのでしょう。センサーによれば、ライカの心拍数は打ち上げ前が百三のところ二百四十まで増加し、呼吸も異常に早くなっていました。ライカの命はここで果ててしまうのか。万事休すなのか。そんな風に思われました。しかし、加速が終わり無重力になった頃には心拍数と呼吸のスピードは落ち着きを取り戻していました。

　その時、宇宙船からのデータははっきりとライカの生存を示していたのです。

　ライカは紛（まぎ）れもなく地球から遥（はる）かに離れた地で生きていたのです。

　それは生命が宇宙空間で生きていくことが可能だと分かった瞬間でした。

　このニュースは世界中に配信されました。宇宙で生物が生きていけるという驚きに全世界の人が包まれました。

　ところが……いや、やはり事は穏便に済みませんでした。

　トラブルが起こったのです。そのトラブルとは、ロケットの推力を補うブースターとの分離の際に、スプートニク2号の断熱材の一部が破損したというものでした。すると船内温度は摂氏十五度から四十一度に急上昇しました。

　データはライカが船内で激しく動いていることを示していました。それはライカにとって計り知れないストレスでした。

　それから一時間半後、ライカは命を散らしたということが分かりました。打ち上げ開始のおよそ五時間後のことでした。

　ライカには馬の鼻先に人（にん）参（じん）をぶら下げるかのように広がる眼下の星はどう映っていたのでしょうか。その星に帰れることを望んでも尚、帰れない状況下にどんなことを思っていたのでしょうか。

　最初からライカには帰り道なんてなく片道切符でした。

　このデータを基にガガーリンが史上初の有人宇宙飛行を成し遂げました。