第37話「褪色」

 *


 最早もはや梅雨つゆが存在していたのかどうかすら分からない気候の中、先日どうやら首都圏の方では、ゲリラ豪雨があったらしいと聞く。


 すっかり夏である。


 いやいや冗談だろうと思って暦を振り返ると、もう7月である。


 この前まで3月で、さて2025年も始まりである、などと決意を固めた頃合いではなかったか。


 早い。


 大人になるにつれて、時が経つのが、早くなっている。


 否、実際に経過している時間は皆平等なのだろうが、感じ方の問題なのだろう。


 これは私見に過ぎないのだが、人は、適応していく生き物である。


 生きて、歳を重ねていく内に、起こってゆく事象に適応していき、慣れてくる。


 新鮮味が失われるのだ。


 それは逆に考えれば不測の事態にも対処できるようになる、ということなのだが、人生における色彩という感覚で言えば、色褪せてくる――というのも、間違った表現ではあるまい。


 生きれば生きるほどに、色が定着してくるのである。


 間違ってはいけないのは、色が失われているということではない、ということである。


 決して、「生きている」色が、剥がれていくという訳ではない。

 

 むしろ色々な経験をして、様々な体験をして、色を塗り重ねていくのが、人生なのではないか――などと思うのだが、まあ、現実はそう上手くはいかない。


 私の人生というものは、特に。


 そうでもなければ、陰鬱な私小説など書いていない。


 色彩溢れる人生というのが何なのか、というのも争点ではある。


 新しいことに挑戦する、新機軸を手に入れる、新たな一歩を踏み出す。


 それはまるで、選ばれた者の特権のように表現されてきたけれど、実は誰だって、新たな色を塗ることができるのだ。


 例えば、今まで読んだことのない作者の、今まで読んだことのない小説を手に取り、購入することだって、見方によっては、挑戦であり、新機軸であり、一歩である。


 結局は、人の感じ方の問題なのだ。


 別に大仰に新しいことを始めなくとも、人はいつでも、新しい色を塗ることができる。


 理想論ではあるが、現実論でもあろう――ここも争点だろうか。


 まあ、何と争っているのか、という話だけれど。


 人生は何々である、と語ることができるほどに私は大成していないし、偉い立場にいる訳でもなければ、年齢を積み重ねてきたわけでもない。


 どこにでもいる、作家志望の若造の戯言ざれごとである。


 そんな私でも、いつか色を帯びることができるだろうか――という疑問とは。


 いずれ私が、向き合わねばならない問題である。




(続)

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