48 富士川の戦い

  一般に、富士川の戦いといえば、平家の軍勢が、深夜に聞こえた、おびただしい水鳥の飛び立つ音に怯え、恐慌状態となって、われ先にと逃げていった……と伝えられている。

 だが一方で、水鳥の飛び立つ音に怯えたのは事実だが、兵糧不足と兵数の減少が止められなかったせい、ともいわれる。



維盛これもりさま」


 深夜。

 富士川。

 水鳥の飛び立つ音が聞こえ、兵が動揺する様子が感じられたが、どうやらちょうど見回り中であった平維盛がみずから兵を励まし、大事には至らなかったようだ。

 本陣に戻った維盛に、忠清は駆け寄ってその肩を抱いた。


「ご無事で」


「兵は怯えていた……無理もない」


 西国出身の兵の多い平家の追討軍にとって、海道や東国は異国である。

 そんな異国に──兵糧もろくに無く、次々と仲間の兵が逃げていくとなれば、夜間の水鳥にも、怯えたくなる。

 用兵巧者いくさじょうずの忠清が夜襲奇襲への警戒は怠りなくしているので、源氏の攻撃によるものではないのは確かだが、この不安しかない状況に、怯えるなという方が無理である。


「忠清」


「はい」


「ことここに至ってはしかたない……退こう」


「……維盛さま」


 忠清は泣いた。

 副将として、そして乳父めのととして、この平家の公達きんだちの、否、若武者のいさおしとなるべき遠征を、このようなかたちで終えてしまうことに涙した。


「このままでは清盛さまがお怒りになりましょう」


「それもしかたないことだ。戦ってすらいないのに負けた。それを怒らずしてどうなる」


 維盛はそれも織り込み済みで撤退を決めたのだ。

 敗軍の将として、罰せられなければ、軍のもといが崩れる。

 それへの危惧の方が、強かった。


「では退くぞ。忠清、任せて良いな」


「承知いたしました。源氏に乗ずる隙など、与えませぬ」


 忠清はおごそかにうなずき、維盛もまた、ゆっくりとうなずいた。

 

 ……この夜、平家は密かに撤退を開始する。

 それは伊藤忠清の手腕が冴え、源氏方に寸毫たりとも気づかれずに終わった。



 平家の静かな、忍びやかな撤退。

 それを見ている者たちがいた。


「……九郎さま」


「何? 武蔵坊?」


「なにか、やらなくていいのですか?」


「? 何も?」


 源九郎義経と武蔵坊弁慶、そして奥州藤原氏から義経につけられた者たちである。

 彼らは藤原秀衡ふじわらのひでひらから送り出され、今この富士川にいる。

 素直に頼朝の軍に加わらなかったのは、こうして平家の様子を見て、その様子を手土産にするつもりだったからである。

 そして見ているうちに――平家が撤退していった、という次第である。

 弁慶は言う。


「いえ、せっかくに逃げていくのですから、背後から襲えば、われら少数と言えど」


「無駄だ」


 義経は指を一本立てて振る。


「これだけちゃんと退いていくんだ。相当の相手だよ。追っ手のことも考えているはず。せっかく自分から逃げていくんだ、ほっときなよ」


 それでもと力む弁慶の視線の先で。

 すでに兵が離れていった平家の陣に、火がともるのが見えた。


「……火?」


「……ああ、そう来るか。そう来るよね。そら、武蔵坊、近づくなよ。あっという間に燃え広がるぞ」


 平家の陣の跡地は、義経の言うとおり、すぐに火炎が広がって、なめつくされて、すべて灰燼に帰してしまった。

 対岸の源氏側にもこの様子が見えていたらしく、ざわざわと騒ぐ音が聞こえてくる。


「うんうん、かつて、唐土もろこしの司馬仲達は、諸葛孔明の残した陣の跡を見て、その才を称賛したみたいだよ……つまり、陣の跡といえど、重要なもの。何をどう扱っているかを知る、貴重なものなんだ。だから、燃やした」


 義経は感心したようにひとしきり、うなずき、「行こう」と弁慶らに移動をうながした。


「すぐに対岸の誰かが確かめに来る。その前に行こう。行って、こういう危ない相手がいるよと教えよう」


「行く……教えるとは、誰に」


「決まってる。兄上のとこさ」


 義経は片目をつぶって、微笑む。

 そしてこれから会う、兄のことを考える。

 このような話――敵将の情報ことは、ことのほか喜びそうだ。

 うまくすれば、義経に一軍を与えて、戦えと言ってくれるかもしれない。


「……というのは、虫が良すぎるか」


 その前に、まず頼朝に弟と認められなければならない。

 突然、陣を訪れた武者に「兄上」と言われたところで、不審がられるに決まっている。


「そこからか。まあそれは何とかなるか」


 義経は懐中に手を入れ、そこに絹布があることを確かめた。


「じゃあ行こう。奥州の者たちも、それでいいよね」


 佐藤継信、忠信の兄弟を始めとする、奥州武者たちは、そろってうなずいた。

 義経は笑顔になって歩き始めた。


秀衡ひでひらどのも、あれだ。兄上が甲斐源氏と平家をぶつけたように、兄上を平家にぶつけようとしているのかな」


 まあ、そうだとしても、僕は愉しめればいいや、と義経は肩をすくめた。

 平治の乱当時、ほんの赤子だった義経を生かしたのは、平家の――清盛の気まぐれだ。

 少なくとも、義経はそう信じていた。

 なら、自分も気まぐれに生きてやる。

 好きに、生きてやる。


 ――こんなとこ、出ていく。


 勧められた仏道は向いていないと判断した義経は、寺を出奔、母の再婚先の伝手をたどって、奥州へ行った。

 その過程で、みずから髪を結って元服したり、名を義経にしたりと、当時としてはかなり常軌を逸した行動を取った義経だが(通常は烏帽子親という者がやるもの)、彼は彼なりに正しいと思ってやったことだった。


「この義経は好きに生きる。奥州藤原も、その邪魔をするなら、滅ぶがいい」


 そううそぶく義経を、藤原秀衡は笑って受け入れ、好きにさせた。

 ただし好きにさせた分の、対価を払えと言われた。


「借りがあると、好きに生きていると言えない。秀衡どのねらいは、奥州の自立。それを保つために、多少は働くか」


 平家がいると不自由だというのも事実で、やはり滅ぼしておこうと決めた。

 だから義経は、こうして富士川にいる。

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