48 富士川の戦い
一般に、富士川の戦いといえば、平家の軍勢が、深夜に聞こえた、おびただしい水鳥の飛び立つ音に怯え、恐慌状態となって、われ先にと逃げていった……と伝えられている。
だが一方で、水鳥の飛び立つ音に怯えたのは事実だが、兵糧不足と兵数の減少が止められなかったせい、ともいわれる。
*
「
深夜。
富士川。
水鳥の飛び立つ音が聞こえ、兵が動揺する様子が感じられたが、どうやらちょうど見回り中であった平維盛がみずから兵を励まし、大事には至らなかったようだ。
本陣に戻った維盛に、忠清は駆け寄ってその肩を抱いた。
「ご無事で」
「兵は怯えていた……無理もない」
西国出身の兵の多い平家の追討軍にとって、海道や東国は異国である。
そんな異国に──兵糧もろくに無く、次々と仲間の兵が逃げていくとなれば、夜間の水鳥にも、怯えたくなる。
「忠清」
「はい」
「ことここに至ってはしかたない……退こう」
「……維盛さま」
忠清は泣いた。
副将として、そして
「このままでは清盛さまがお怒りになりましょう」
「それもしかたないことだ。戦ってすらいないのに負けた。それを怒らずしてどうなる」
維盛はそれも織り込み済みで撤退を決めたのだ。
敗軍の将として、罰せられなければ、軍の
それへの危惧の方が、強かった。
「では退くぞ。忠清、任せて良いな」
「承知いたしました。源氏に乗ずる隙など、与えませぬ」
忠清はおごそかにうなずき、維盛もまた、ゆっくりとうなずいた。
……この夜、平家は密かに撤退を開始する。
それは伊藤忠清の手腕が冴え、源氏方に寸毫たりとも気づかれずに終わった。
*
平家の静かな、忍びやかな撤退。
それを見ている者たちがいた。
「……九郎さま」
「何? 武蔵坊?」
「なにか、やらなくていいのですか?」
「? 何も?」
源九郎義経と武蔵坊弁慶、そして奥州藤原氏から義経につけられた者たちである。
彼らは
素直に頼朝の軍に加わらなかったのは、こうして平家の様子を見て、その様子を手土産にするつもりだったからである。
そして見ているうちに――平家が撤退していった、という次第である。
弁慶は言う。
「いえ、せっかくに逃げていくのですから、背後から襲えば、われら少数と言えど」
「無駄だ」
義経は指を一本立てて振る。
「これだけちゃんと退いていくんだ。相当の相手だよ。追っ手のことも考えているはず。せっかく自分から逃げていくんだ、ほっときなよ」
それでもと力む弁慶の視線の先で。
すでに兵が離れていった平家の陣に、火がともるのが見えた。
「……火?」
「……ああ、そう来るか。そう来るよね。そら、武蔵坊、近づくなよ。あっという間に燃え広がるぞ」
平家の陣の跡地は、義経の言うとおり、すぐに火炎が広がって、なめつくされて、すべて灰燼に帰してしまった。
対岸の源氏側にもこの様子が見えていたらしく、ざわざわと騒ぐ音が聞こえてくる。
「うんうん、かつて、
義経は感心したようにひとしきり、うなずき、「行こう」と弁慶らに移動をうながした。
「すぐに対岸の誰かが確かめに来る。その前に行こう。行って、こういう危ない相手がいるよと教えよう」
「行く……教えるとは、誰に」
「決まってる。兄上のとこさ」
義経は片目をつぶって、微笑む。
そしてこれから会う、兄のことを考える。
このような話――敵将の
うまくすれば、義経に一軍を与えて、戦えと言ってくれるかもしれない。
「……というのは、虫が良すぎるか」
その前に、まず頼朝に弟と認められなければならない。
突然、陣を訪れた武者に「兄上」と言われたところで、不審がられるに決まっている。
「そこからか。まあそれは何とかなるか」
義経は懐中に手を入れ、そこに絹布があることを確かめた。
「じゃあ行こう。奥州の者たちも、それでいいよね」
佐藤継信、忠信の兄弟を始めとする、奥州武者たちは、そろってうなずいた。
義経は笑顔になって歩き始めた。
「
まあ、そうだとしても、僕は愉しめればいいや、と義経は肩をすくめた。
平治の乱当時、ほんの赤子だった義経を生かしたのは、平家の――清盛の気まぐれだ。
少なくとも、義経はそう信じていた。
なら、自分も気まぐれに生きてやる。
好きに、生きてやる。
――こんなとこ、出ていく。
勧められた仏道は向いていないと判断した義経は、寺を出奔、母の再婚先の伝手をたどって、奥州へ行った。
その過程で、みずから髪を結って元服したり、名を義経にしたりと、当時としてはかなり常軌を逸した行動を取った義経だが(通常は烏帽子親という者がやるもの)、彼は彼なりに正しいと思ってやったことだった。
「この義経は好きに生きる。奥州藤原も、その邪魔をするなら、滅ぶがいい」
そううそぶく義経を、藤原秀衡は笑って受け入れ、好きにさせた。
ただし好きにさせた分の、対価を払えと言われた。
「借りがあると、好きに生きていると言えない。秀衡どのねらいは、奥州の自立。それを保つために、多少は働くか」
平家がいると不自由だというのも事実で、やはり滅ぼしておこうと決めた。
だから義経は、こうして富士川にいる。
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