20

 トヨミはそのうち都に行ったきりになるのだろう……心が沈み込んでいく。そんなホキの様子にトヨミは、トウジとのことを怒っているのだと勘違いする。


 どちらにしろ報せるつもりでいた。だから知られて困ることはない。トヨミの言い訳をホキが納得してくれるかがトヨミにとっては重要だった。言い出すきっかけを考えなくてよくなったのだから、むしろハシヒに感謝したいくらいだ。


 とは言え、クルメがいる前で言い訳なんかできない。好いているのはホキだけなんだ、判ってくれ……なんて事を弟の目の前で言えるはずがない。


 その弟、クルメはこうなったらホキにヒリを宥めて欲しいと考えている。何しろヒリははっきりした性格、言いたいことはズバズバと言ってくる。


 ヒリは妃になった際、クルメに妃ユミバがいて子が二人いることを知らなかった。三人目が生まれたのはヒリが妃になって間もないころで、クルメは喜んで三人目が生まれたことをヒリに話した。その時のヒリの怒りと言ったら……


 父親てておやさまと二人して騙したと泣きわめき、こんな事ならどうあってもクガネのもとに行くと言い出した。これにはクルメも顔色を変え、クガネがカシワデの郷の男と知ると『その男のところに連れて行け。其方そなたとともにその男も殺してやる!』とヒリに迫った。ヒリがクガネと通じていると思ったのだ。


 誤解は解けたが、クルメの怒りは治まらない。もう二度と来るもんかと言い放つ。そんなクルメを宥め、ヒリを諫めたのはホキだった。


『クガネのことを知って面白くなかったのはなぜ? ヒリが怒った気持ちが判ったんじゃないの?』

『大事なクルメの子が誕生したのになぜ怒るの? ヒリはクルメを好いているんじゃなかった? だったら一緒に喜んであげればいい』


 敢えて皇子なんだから何人も妃が居たって奇怪おかしくない、とは言わなかった。それを言ったらヒリはきっと『だったらにも何人夫がいたっていいはず』と言い出しかねない。それが判っているから言わなかった。


 今回もクルメは、ホキならうまくヒリを納得させてくれるんじゃないかと期待したが、トヨミとホキを見ていると諦めるしかなさそうだ。日ごろから羨ましくなるほど仲睦ましい兄夫婦に亀裂ができてしまっている。トヨミはホキを避けているし、ホキは重く沈んでいる。


 ここは弟たるもの修復に手を貸すべきか? しかし、何を言ってもトヨミは生返事だし、ホキは呼び掛けても反応しない。居た堪れなくなったクルメが帰って行こうとした。するとホキが呼び止める。をカタブの屋敷まで送ってくれまいか?


 クルメが困惑し、トヨミを見る。トヨミは難しい顔でホキを見ている。


「カタブになんの用だ?」

トヨミがホキに問う。

父親てておやさまとははさまに会いたくなったまで」 

トヨミを見ずにホキが答える。


「随分と急だな」

「マダラ宮に来てから一度も二人の顔を見ていないと今、思ったものですから」


 親の顔を見たいと言うのを許さいないわけにもいかないトヨミ、しかしホキの様子は尋常じゃない。自分の不実に愛想を尽かし、このままカタブの屋敷から帰って来ないのではないかと疑っている。


 トヨミの読みは間違っていない。このままトヨミ不在のマダラ宮に居続けるより、母のいる屋敷に居たほうが、少しは惨めさが薄れると考えていた。それにもうすぐ子が生まれる。母のもとに居たほうが召使に囲まれているよりずっと心が落ち着くし安心できる。そもそも妻は生家に住んで、夫が来るのを待つものだ。


 ホキの申し出に戸惑ったクルメだが、これは好都合と思い直している。カタブの屋敷はマダラ宮からだと少し遠回りになるもののハニウ宮クルメの宮の近く、せっかくだからヒリに会って行ってくれとホキを誘えそうだ。もちろん狙いはホキにヒリを宥めて貰うことだ。が、それもトヨミの許しがあってのこと、トヨミがダメだと言えばホキを連れ出すのは不可能だ。


 トヨミが溜息をついて言った。

「ならばもカタブに会いに行こう」


「えっ?」

「身重の妃を、なんで一人で宮から出せる?」

「だからクルメに――」

「帰りは?」

「帰りは……」

帰るつもりがなかったのだから、帰りのことなど考えていない。トヨミを盗み見ると真っ直ぐホキを見ている。ハシヒと同じ目で睨み付けている。居住まいを正すとホキもトヨミを睨みつけた。

「帰るつもりはありません」


 ホキの返答にトヨミが息を飲む。軽く舌打ちするのはクルメ、このままここに居たら巻き添えを食うかもしれない。何も言わず部屋を出ていった。


「帰るつもりがない? 其方そなたを見捨てるのか?」

「ここにいてはトヨミの邪魔になる。だから出ていくのです」

「ホキを邪魔にした覚えはないぞ?」

「せっかく建てた宮なのです。がいては帰る気も失せましょう」

「何をわけの判らないことを……ホキがいるからこそのマダラ宮、其方そなたと暮らすために建てたようなものなのに?」


「心変わりは人の常、恨みはしません。はこれ以上、惨めに成りたくないのです」

立ち上がるホキ、慌ててトヨミも立ち上がって行くてを阻む。

「どこにも行かせないぞ。どうしても行くと言うならもともに行く」


など放って、本当に行きたいところへ行ってください」

「本当に行きたいところ? ホキとならどこにでも行く。他に行きたいところなんかない」

ホキが溜息を吐く。トヨミは失うのがイヤなだけなんだと思っていた。


はどこに居ようとトヨミのもの。それが変わるわけではないのです」

「どこに居ようと同じだと言うのなら、ここに居ればいいじゃないか」

「ここでトヨミの帰りを待てと? いつ帰るか判らないのに?」

「役目で留守にすることもあるが終われば帰ってくる。それではダメか?」

「そんなことを言ってるんじゃないの」

「じゃあ、何を言ってる?」


 トヨミから目を逸らし、ホキが腰を下ろして項垂れた。

「ホキ……どうしたって言うんだ?」

トヨミも腰を下ろしてホキの肩に腕を回そうとする。その腕をホキが払いのけた。

「判ってます。トヨミはに飽きてしまった。引き留めるのはのほうから離れていくとは予想していなかったから。ちょっと惜しくなっただけです」

トヨミが絶句し、ホキを見詰める。


「いずれトヨミは思うはずです、なんであの時引き留めてしまったかと。引き留めずカタブに返していたら、マダラ宮で過ごせたのにって」

ホキがギュッと目を閉じる。泣いてはいけないと思っていた。泣けばトヨミを責めることになる。トヨミを責めてはいけない。甘い言葉に浮かれて、身の程知らずにもトヨミの傍にずっといられると思い込んでいた自分が愚かなだけ、トヨミの心変わりを責める権利など自分にはない。


「どうか相応ふさわしいかたとマダラ宮でお暮しください。はカタブの屋敷に戻ります」

再び立ち上がろうとしたホキの手をトヨミが掴む。振り払おうとするが、トヨミは放さなかった。


ではホキに相応しくないとでも言いたいか?」

くぐもったトヨミの声、怒りを抑えているのが判る。

が、好きでホキ以外の女をはらませたと思っているのか?」


 とうとうホキが泣き崩れる。

「新たに思いをかける人ができたのでしょう? だからに遠慮して言えなかったのよね?――ごめんなさい。トヨミを悩ませた」

「新たにって?」

「誰か好いた人ができたのでしょう? そしてそのかたが身籠られた」

「何を言ってる? 身籠ったのはトウジだぞ?」

「へっ?」

キョトンとするホキ、ホキの勘違いに気付いたトヨミが掴んでいる必要はないなと手を放す。


「子ができたのがトウジなら、なんでトヨミはあんなに困った顔をしていたの?」

「好いているのはホキだけだと言った手前、トウジに子ができたと知ったら其方そなたに嘘吐きと言われると思った」

「なんで?」

「トウジを抱いていても、其方そなたの顔がちらついていたからかもな」

「それじゃあ新しい人は?」

「居るか、そんなもん」

ゴロンとトヨミが茣蓙ござに寝転がる。


「あぁ、疲れた――思ったよりもはホキに信用されていないんだな」

「だって、そうじゃなくって……」

「そうじゃなくってなんだ?」

ニヤリとトヨミが笑う。

「言い訳ができるのか? を疑ってマダラを出て行こうとした其方そなたが?」


 ムッとホキが唇を尖らせる。

「それを言ったら信用しなかったのはトヨミが先。トウジと子を作ったからと言ってが怒ると思ったのでしょう?」


「ふぅん……ほんの少しも妬かないのだな」

「少しは妬いてます。でもそれ以上にトヨミを困らせたくないの」

は幸せだと思えばいいのかな? 寂しいと思うのは贅沢なのだろうな」

「ねぇ、トヨミ……思ったんだけど、トウジにもマダラ宮に来て貰ったら?」

「えっ?」

驚いたトヨミが身体を起こしてホキを見る。


「なんでトウジを?」

「トウジもトヨミをずっと待っているんだろうなって思ったの。ヤマセトヨミの子もいることだし、部屋もたくさんある。トヨミが同じ屋敷にいると思えばトウジも安心するんじゃない?」


「そうなると、がトウジの部屋に居るのがホキにも判ることになるぞ。いやじゃないのか?」

「トヨミが自分の妃の部屋を訪れるのは当たり前のことだわ」

「トウジは嫌がると思うけどなぁ」

「自分の部屋にトヨミが居るってに知られたくない?」

「いいや、がホキの部屋にいると知るのを、だよ」

「あ……そこまで考えなかったわ」

フッとトヨミは失笑する。

「どちらにしろソガシが許さない――ホキ、トウジに気を使わなくていい。それはの役目だ」


 そう言いながらトヨミが思う。マダラにホキがいないとして、ソガシがたとえ許してもトウジはマダラに来ないだろう。


 トウジとのねやを思い出す。どんな愛撫にも応えることなく、ただ接合するだけ。顔を見ると冷めた目でこちらを見ている。まるで人形を抱いているような気分、物質的な刺激で役目をなんとか果たしている。向こうも義務として拒否しないだけ、共に暮らしたいとは思わないだろう。なぜ、あの状態で接合を痛がらない? いつも充分に潤っているのは、なんとも不思議だ――

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